クリスマスとシステムと私

Mohammed Sofiane Mesbahi

クリスマスは消え去りつつある過去だけど
イエスはあなたの他者への哀れみ深い
奉仕の行為のすべての瞬間に、
何度も誕生し続けます。

飢えから死にゆく誰かのために、あなたが  

涙を流すその瞬間、キリストはあなたの 

存在の君主となり、あなたのハートの父として、 


彼自身をあらわにするのです。

* * *

政治家に失望し、社会の問題に苦悩し、そこには何か腐り切ったシステムがある印象を受けます。ためらうことなく、私たちはシステムを批判し責めます。しかしながら実際には、「システム」などというものは存在せず、過ぎ行く日々の中で世界情勢を変えるために何もしない偏狭で自己満足的な人生を送る、あなたと私だけが存在するのです。世界を見て「なんと腐ったシステムなのか」と言った途端、現実を見逃し、私たち自身と人類の問題との間に分裂を生じさせるのです。実際、システムが私たち全員の共同制作の結果であるにもかかわらず、自分たちとはいかにも違った存在としてシステムを名指しし、人類から自己を切り離す人間のマインドの驚異を観察するのはなんと奇妙なことでしょう。

たとえば、テレビで口論している政治家を見ていて、自分たちが選んだ政党がまたも約束を破ろうものなら、私たちは投票する政党を変える傾向にあります。おそらく私たちは、45年間労働党に投票してきたけれど、彼らが増税する恐れのある今、自分たちのより自己中心的な関心に沿った政策を策定することを約束する保守党を支持することに決めます。活動家となり、世界中に真の変革をもたらすために他と結びつく代わりに、まるで政治家が自分たちの親であるかのように彼らに頼る子供のように振る舞い、主に自身のことだけを考え、社会を改善するすべての責任を政府に丸投げしています。その間に政治家は、権力を維持し、個々の有権者の先入観につけ込むために彼ら自身が理解することのない破壊的な市場勢力を巧みに操作することにより、複雑な計画と利益をもたらす投資を魔法のように出してみせるのです。家のローンを心配し、自身の幸福のために個人的聖戦に挑む一方で、私たちは無知な政治家に、社会、環境、未来世代の展望に破壊的な影響を及ぼしてきた商業化勢力を野放しにする許可証を与えているのです。そして私たちは、この地球上の創造性、正義、自由、人間の進化の自然の流れを妨げることにおいて果たした自分たちの役割を認めることなく、結果として生じる社会的および経済的混乱のすべてをシステムのせいにするのです。

私たちが好んでシステムと呼ぶ日常生活の単調な作業と分裂を顕現させることに自らが担った役割を、なぜ私たちは内なる認識を通して理解できないのでしょうか。私たちは何度、資本主義を責めるのでしょうか。それがマインドに分裂を生み、そのこと自体が「主義」の本質そのものであるということに気づかずに。政治家に私たちの権力を放棄し、私たち自身の怠慢と無関心にもかかわらず、すべてがうまく行かなくなってシステムを責めるとき、投票という行為は主義の直接的な表現となります。あなたと私は、主義や対立するイデオロギーに基づいて、常に互いに分裂を生じさせているならば、社会がどのように統治され構造化されるべきかについて政治を論じることにより時間を無駄にしているのです。恐れ、自己本位、自己満足的な無頓着さを隠す口実として、特に自分たちが執着する政治的主義を含んだあらゆる形態の主義をつくり表現しているのは私たちです。あなたは労働党です;私は保守党です。私の政党はあなたの政党に同意しません;私たちはイデオロギーを巡って戦争をします。どちらの立場であっても、同じレベルの思考から生じ、私たち全員でつくりあげた心理的分裂に苦しむのは私たち自身です。そして、私たちは自分たちの共同の責任から逃れることはできないのです。自給自足のコミュニティへ引きこもり、自己を心理的または物理的に残りの人類から切り離しても逃れられないのです。世界が死んで行く限り、いずれ最終的に私たちも死んで行くのです。

資本主義が人と地球に何をしているのか、そしてこの利益志向の社会組織の様式がいかに緩く制御不能になったのかを心理的によく見て理解するなら、いくつかの基本的要素が突きつけられます:自己満足的な無頓着さ、貪欲、盲目、そして何よりも私たちの集団としての傲慢さです。ですから、もし資本主義が腐敗しているなら、私たち全員も腐敗しているのです。なぜなら、私たちは何世代にも渡ってこのよこしまなシステムを維持してきた人間の振る舞いを代表しているからです。私たちが資本主義と呼ぶ純粋な意味でのそれはもはや存在しません。今日、私たちが目にするそのすべては、分かち合いの原理の対極に立つ、連れ合いを亡くし堕落した原理の乱用です。大学で教えられたような資本主義の古い思想が長い間無視されてきた一方で、分かち合いは政治的および経済的にすっかり無意味なものにされてしまったため、既存の政府の最高レベルの間でほとんど理解されていないのです。

それでは、私たちのほとんどが、「私の人生」や「私の権利」と呼ぶ小さな箱の中の楽な存在を続けて行きたいとき、システムをどのように完全に変えることができるのでしょうか。私たちは何よりもまず自分自身のことを考え、何よりも自分たちの休暇、自分たちの年金、自分たちの娯楽、自分たちの家のリフォームを優先します – 「煩わされたくない」というのが、私たちが頭上に掲げているべき看板です。これは、綺麗なものに囲まれて謙虚に快適に暮らすことが間違っているということを言っているのではありませんが、富裕者がこの世界で真に快適に暮らすためには、他のすべての人が必要なものを持っていることが確実でなければなりません。さもなければ、彼らの快適さはボディガードと防護フェンスの費用分高くつくことになるでしょう。貧困者でさえが、分断された世界の不正を受け入れるように強く条件づけられており、したがってシステムの不平等に挑戦するために結束する代わりに、常に意気消沈し無関心なままいる傾向があります。私たちの自己満足的な無頓着さは余りに長い間恐怖と自己知識の欠如によって感情的レベルに保たれてきたため、ほとんど遺伝的になっています。最終的に私たちは、人間としてのより高尚な目的と創造的可能性に対して霊的に死んでしまい、私たちの間のあの心理的分裂そのものが人類の進化を非常に時間のかかる痛々しいものにしているのです。

この観点から私たちがシステムと呼ぶものは、異なる国の人々の間の、そして社会での私たちの間の人間関係に対する誤った態度であると簡単に定義できます。社会が私自身の延長であり、が、国内および国際レベルの両方で顕現されたシステムであるという心理的事実を理解するなら、貧困、不正義、政治的腐敗に直面したときに「それは今まで常にこうだったから」などと公言することはもはやないでしょう。人類の問題から誰一人として免除されることがないと認識するなら、私の意識内の原動力のすべてが根本的に変わるでしょう。少なくとも、私は、すべての国で散発的に起こっている自由と正義のためのデモンストレーションに参加するでしょう。

システムを批判するだけで、世界情勢を変えるために何もしない人々の自己満足的な無頓着さは実際にはペテンの一種です。それが富裕者であろうと貧困者であろうと違いはありません;個人的な快適さと幸せだけを求めて、世界を脅かす危機に対する認識がない無関心な生活様式は、私たち自身と他者の両方にとって心理的に危険です。人生に対するこのような態度をもって、市場勢力が猛威を奮い社会的分裂と広範な破壊を引き起こしているとき、私たちはどう文句を言えるのでしょうか。商業化が私たちの動脈に入り込んだ今、私たちの集団的な無頓着さはあまりに蔓延してしまったため、きたるべき黙示録やアルマゲドンについて語る狂信者に耳を傾け始めなければならないほどです。実に、これが人類が達成することのできる文明の最高の表現であるとしたら、大衆の結束への目覚めに対する唯一の希望は、おそらく世界経済の不可逆的な崩壊でしょう。

*

クリスマスのお祝いほど、システムを維持することにおける私たちの暗黙の共犯行為を示す良い例はありません。この時期、私たちは、イエスの名の下ショッピング街で消費に消費を重ね、弱った不幸な地球から略奪を行います。私たちのうち何人が、リサイクルし、環境的価値を強く主張し、そして12月25日がやってくるとき、倫理のすべてに別れを告げるのでしょうか。いくら費用がかかろうと祝わねばならないのですから。そして、そのように沢山のお金を高価なプレゼントに費やすことは政治的追従行為であり、本質的に自らの叡智と自由を否定する行為であることを私たちは認識できないのです。たとえ、お金がなくても、私たちは特定のライフスタイルのイメージを保たねばならず、友人や親戚へのプレゼントを買うために借金します。何百万人という人々とすべての国が経済的にも環境的にも持続不可能な負債を抱えているにもかかわらず。途方もないストレスと苦しみのこの時代に、心理的にお互いから切り離されて生きている悲しい真実を内部でわかっているにもかかわらず。それでもなお、私たちは、天国に座す捉えどころのない、髭を生やした父の名の下クリスマスを祝うのです;「皆で再会する」機会を楽しむ幸せな家族の名の下に;内部で孤独な、条件づけられた存在の空虚感を埋める名目で;そして、毎年クリスマス・イブにすべての子供たちがパブロフの犬の条件反射の実験の最適な候補者となるまで – 子供たちを惑わすすべての不必要なプレゼントの名の下に。そして、世界で起こっているすべてのことは、私たち自身の共同の責任であるにもかかわらず、地球が破壊されているのは政府、企業、または「資本主義」のせいだと言って私たちはお互いを騙し合うのです。

これは、クリスマスの祝祭を非難したり、他の人々のお祝いを批判するためのものではなく、偏見のない思考を通して、単に今日起こっていることの現実について追求するためのものです。裁くためでも非難するためでもありません。なぜなら、すでに明らかにしたように、私たち全員が、世界の問題について責められるべきであり、免除される人はいないからです。ですから、誠実に問いましょう:今日、私たちが知るクリスマスは、愛やイエスと何の関係があるのでしょうか。この疑問と向かい合う勇気を持って、静かに自分自身の中に入り答えを見つけましょう。「メリークリスマス」「明けましておめでとう」という同じ挨拶を年々繰り返すことで「人生は続く」のだとお互いと自分たち自身を装う価値は何でしょうか: 多くの人々が自殺に追いやられるほど毎日が恐怖、ストレス、経済的不安に満ちているときに、これらの言葉にどれだけの誠実さがあるのでしょうか。私たちのほとんどが、さまざまな度合いの落ち込み、寂しさ、そしてお互いから心理的に切り離されて生きることの人に言えない痛みを耐え忍んでいるときに。そして、飽き飽きしていることを隠しながら失礼のないように、友人や親戚全員にお祝いのカードを送ることを自己に強いているときに?

さらに掘り下げてみましょう。クリスマスの時期に、食卓を越えた世界で今起こっていることへの無関心さと笑いの中でクリスマス・ディナーを楽しむためだけに、偽りのクリスマス精神の名の下なぜ何百万という多くの動物を殺し、あれほど多くの木を切り倒すのかという理由を追究してみましょう。自分たちの不安で空虚な存在の穴を埋めるために、イエスの愛が毎年12月25日にだけ私たちの家で振動するかのように、毎年1月1日までに大変多くの地球の資源が破壊され浪費されます。結局のところ、そのすべての破壊と自己道楽は、真の道徳的目的でなく単なる信条のために引き起こされているのです – 歪められた教義の迷路の中で、何千年もの間教会が私たちを惑わせてきた信条です。

私たちは、たくさんのプレゼントを買うことは愛情の表現であると自分自身に言うかもしれませんが、なぜその愛が、年を追って特定の日に表現されなければならないのでしょうか。それは本当に愛なのか、それともそれは、私たちの叡智の否定と「信条に対する信条」に基づく追従と条件づけでしょうか。その場合、プレゼントやモミの木、そして非常に沢山の食べものと飲みものを群れをなして買い漁るのは本質的に愛と自由を欠いた社会的行為であり、精神的または霊的不快感によって特徴づけられるのは必然的です – なぜなら、追従は恐怖に根ざすことなく存在できないからです。私たちの過剰な消費は自動的であるため、この地球と自己に対する暴力についての考えがありません。それは、私たちの集団としての共犯行為、偽善、自己満足的な無頓着さから自分たちの注意を習慣的に逸らすかたわら、私たちが嫌いだと公言するシステムそのものを永続させる無意識の嘘なのです。

私たち全員がこの現実の一部であり、現代社会に参加していることで私たち全員がある程度ペテン師であることを憶えておいてください。そして、クリスマスを祝うことは犯罪ではないので、責めることなく謙虚に自己を見てみましょう。私たちは、自分たちが何をしているのかを認識し、そしてこの極めて有害な社会秩序を作りだすことにおいて自らが演じる役割を見たくないとしても、私たちが酷く嫌悪するこのシステムそのものを自分たち自身が構成していることを理解するよう試みてみましょう。共に、世界で起こっていることすべての相互依存関係を観察し、真に愛情のこもった別の方法で、クリスマスを祝うことができるかどうかを考えてみましょう。

なぜなら、私たちのお祝いを導いているのはキリストの愛ではなく、むしろ私たちの条件づけと追従というご馳走を大いに楽しんでいる商業化勢力だからです。クリスマスセールで必死の買いもの客の行列を観察した誰もが証言できるように、これが実際に起こっていることの真実です。私たちを常に深い負債へと押しやる、私たちの社会的追従というご馳走を銀行が楽しむかたわら、多国籍企業は私たちの条件づけされた衝動買いというご馳走を楽しんでいるのです。そして、持続不可能な貸し借りのシステム全体が崩壊するとき、溶けゆく経済を生還させようと、無謀な銀行を救済するのは政府です。しかし、通常とされる生き方の続行を求め、以前と同じ利己的な振る舞いに素早く戻るのは私たちです。そしてそれによって不正なシステムを進んで維持するのも私たちなのです。世界情勢は余りに不安定で、もうすぐ富裕者にも貧困者にも救済措置ができなくなるかもしれないのに。それでもなお、12月25日がやってくるとき私たちは祝うのです。そしてそれは、キリストや彼が言ったこととはまったくの何の関係もないのです。

私たちは皆、十字架の上のイエスの言葉をよく知っています:「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」 (ēlîēlîlamâazavtanî)。しかし今日、それはまるで人類が黙って無意識にこう言っているかのようです:「わが神よ、なぜ私たちは商業化に自分たちの生活を支配させ、あなたの聖なる王国を冒涜し、正しい人間関係についてのあなたの教えを放棄し、あなたを見捨てたのでしょうか」

現実には、12月25日は悲しむべき悲惨な日です。なぜなら、私たちがキリストの誕生を祝っているこの時期、何百万人もの男女子供がクリスマスのご馳走の贅沢どころか、生活必需品さえも剥奪されているからです。1月1日に新年を迎えると同時に、遠方の国々で何万人もの私たちの兄弟姉妹が死にかけているちょうどその瞬間、私たちは良い年が来るようお互いに願うのです。まるで、飢餓、栄養失調、病気による不必要な死を祝っているかのように。それでも、これまで常にそうであったと私たちは異議を唱えるかもしれませんが、もし自分たちの家族の誰かが亡くなったとしたら(起こらないことを願いますが)、クリスマスと大晦日を愉快に祝っているでしょうか。ではなぜ私たちは、回避可能な貧困関連の原因で毎日何万人もの人々が死んでいるのに何もせず、それが当たり前だと思うのでしょうか。このようなときに私たちが実際祝っているのは、「人生は短いのよ」「どうせ人生は一度きりなんだから」あるいは「皆で一緒に楽しまなきゃ」といった使い古された決まり文句の裏に隠された、自己満足的で鈍感、そして無責任で居続けるために自らが名づけた自由なのです。

試しに一度、大晦日の夜、何もせず家に一人で居てみてください。テレビもつけず、誰とも連絡を取らず。そして、外では皆が大いに楽しく愉快にやっていることを知りながら、大晦日にあなたがどれだけ寂しい思いをするか試してみてください。その瞬間、あなたが激しい飢えに苦しみ、食べものを手に入れる見通しが皆無であるのに、世界は無邪気に新年を祝い続けていることを想像してみてください:どのように感じられるでしょうか?

それが、どのように劇的に見えようと、集団的および世界的規模の私たちの自己満足的な無頓着さは余りに危険で、それが他の人々を殺すという事実は依然として変わらないのです。私たちの自己満足的な無頓着さは直接的または間接的に貧しい人々を殺すのです;しかし、それはまた、私たちが残りの人類から分裂した生き方を追い続けると同時に、霊的および道徳的な意味で、私たち自身をも徐々に殺していくのです。世界のどこかで人々が貧困で亡くなっていることは誰もが知っていますが、私たちの中のどれだけの人がそのために行動しているのでしょうか。それは、ほんの僅かな数なのです。その場合、私たち自身のクリスマスのお祝いと、多くの人を殺した後、クリスマスにイエスと彼のメッセージを記念して、教会に出席するマフィアの家族との間には、何ら道徳的違いはないのです。もちろん、伝統的な社会的行事を楽しむこと、それに参加することは自然なことですが、子供が自分の腕の中で栄養失調で死んで行くのを目撃している何百万人もの親たちに、どのような種類の楽しみがあり得るのでしょうか。そして、非常に多くの食料やその他の不可欠な資源が臆面もなく浪費され、それを切実に必要としている人々と分かち合われていないときに?

私たちの祝祭が終わり、日刊紙で億万長者がスラム街の集落の周辺や非常に貧しい地区に巨大な宮殿を建てた記事などを目にすると、私たちはしばしば嫌悪感を感じます。しかし、私たちにはなぜ、私たち全員が、世界的またはクロス社会的規模で、正に同じ生き方をしているのだという自覚がないのでしょうか。私たちは恥ずかしくないのでしょうか。それとも、私たちの自己満足的な無頓着さはそれほど文化的に根深いがために、もはや私たちは完全に無関心になってしまったのでしょうか。

このことを、あなた自身で振り返り、私たち個人の自己満足的な無頓着さ、家族の自己満足的な無頓着さ、そして国の自己満足的な無頓着さが長年にわたって続いてきたことから、世界中で貧しい人々が飢えて亡くなることが当たり前になっていることを客観的に理解してください。 「貧困の中死ぬのは彼らの運命であって、私とは何の関係もない」と事実上言っているのは地球規模の自己満足的な無頓着さです。私たちの政府は、何万人もの人々が毎日不必要に死ぬのを止めるために何もしないのです。なぜなら、私たち全員が、彼らが何もしないのを許しているからです。ですから、私たちもシステムであり、システムは私たちです:すべてが相互につながっています。一般人が無関心な生活の中で動いている限り、そして「私」が正義のために声を上げずに何もしないでいる限り、すべての銀行家と大企業が広範な悲惨さと破壊の中でお金儲けをしていても、彼らを非難することはできないのです。

苦悩する何百万人もの人々の叫び声に耳を傾けること、またはこれらの問題について家族や友人に話すことさえをも拒否するとき、私たちはどれだけの間、聞こえず、話せないふりをするつもりでしょうか。曖昧な政策を持った政治家の権威に頭を下げ続けることによってあとどれだけの間、商業化に私たちの愛情から子供たちを奪うことを許していくつもりなのでしょうか。何をすべきか、どっちに行くべきか、どのように幸せになるべきか、そして誰に投票すべきかを指図する主義のルールによって、私たちはあとどれだけの間、条件づけられたままでいるつもりでしょうか。そして、毎日を新しい日として生きる自由を自己に拒否し、あとどれだけの間、私たちは怯えうずくまったままでいるつもりでしょうか。確実に、私たちが真の自己の姿を抑圧することをやめるときがついに来たのです – 私たちは生来慈悲深く、思いやりのある人間なのです!

家でベッドの上に腰掛け、床を見つめながら一人で居るとてもプライベートな瞬間を私たちは皆知っています。人生を振り返り、仕事と家を失うかもしれない絶え間ない不確実性と心配にさらされ、家賃や家のローンを支払うために必死で働くことの虚しさについて考えます。自己の中に埋め込まれたすべての痛み、儚い幸せの瞬間と永続する暗黙の寂しさについて考えます。私たちがもらった束の間の優しさと私たちが流したすべての涙。幸せと愛されることへの絶え間ない切望。思い通りのパートナーを見つけることへの切実な思い;やがて迎える結婚、胸が張り裂けるような離婚。批判的で不誠実で貪欲な社会に受け入れられるために維持していかなければならない、ストレスをもたらす不必要なイメージ。夢の中で私たちを苦しめる不安、そして年老いて拒否されることへの恐怖。同じ政治家、同じつまらない顔ぶれ、無数の無意味な番組を何度も繰り返し放映するテレビ。私たちの世界との関係を絶望的な目で見ながらベッドに座っていると、私たちは社会がどのようにして自分たちをお互いの苦しみに対してこのように無関心にしてしまったのかを疑問に思うのです。そして、私たちを子供たちや自然から切り離し、私たちの心に残っている僅かな愛を枯渇させながら、システムはどのように生きとし生けるものへの私たちの慈悲心を衰えさせてきたのでしょうか。私たちは皆、怒りや罪悪感を感じたり、自分は価値のない人間だと感じる瞬間を知っています。空虚感と絶望感が私たちの思考を圧倒する瞬間を知っています。そして最後には、電気を消して布団で頭を覆いながら暗黙に嘆くのです:人生にはもっと意味があるはずなのに!

*

世界のすべての苦しみと危機的な問題を踏まえると、今年、クリスマスを祝うにあたり、街頭に出て不正義と貧困の撲滅のために平和的なデモンストレーションをするより他に良い方法があるでしょうか。これ以上木を切るのをやめよう!これ以上贅沢なプレゼントを買うのはやめよう!と言うために。そして、世界中の人々が食べものを与えられ、ケアを受け、育まれるよう私たちの声を上げるために。それは私たちが知る中で、最高のクリスマスとなるのではないでしょうか?なぜなら、その結果、私たちは家族や友人に忠誠と親愛の情を表すだけでなく、全世界と共に愛情溢れた結束の中に立つであろうからです。今日、もしイエスが私たちの中を歩いていたなら、彼はまさしくそうするよう私たちに呼びかけていることでしょう。彼は、愛の要素が皆無の自己道楽的お祝いを私たちが続けることを望んでいないでしょう。イエスを記念して私たちが最小限できることは、貧困者を助ける方法についての集会を組織し、そこから人や環境が必要とするものについて考えることです。

たとえば、クリスマスと新年を多額の出費と過剰消費で祝うことを1年だけ控えることができたなら、飢餓と病気で亡くなっている兄弟姉妹のために、節約できるすべてのお金で何を達成できるか考えてみてください。そのお金のすべてが貯蓄され、緊急にそれを必要とする人々に再分配されるなら、私たちが共に何を乗り越えられるかを想像してください。そしてどのようなクリスマスになるかを。世界の善意が爆発する中、子供たちがどのように愛の叫びを上げるか想像してください。そして、ひとつの人類の旗の下で結びついた何百万もの人々によって、すべての国で表現される愛と自由の力を考えてみてください – 信条から解放され、権威から解放され、私たちの真の姿となることの尊厳と美を自由に表現することを。おそらく、このようにして私たちは、キリストの変わることのない簡素な存在を再び私たちの間で体験するのかもしれません。

クリスマスにチャリティで貧困者にもっと多くの小包を送ることについてここで話しているのではありません。そのような行為は、ここで人間的な観点から想像している心理的および霊的革命とは何ら関係ありません。非常に尊厳を欠いた愛の捉え方であるチャリティの条件づけを私たちのマインドから排除するときがきました。それはまた、与える者と受け取る者両者にとって侮辱でもあります。なぜなら、私たちは与えた後、正義のために貧困者を助ける代わりに、そしてどうにかして社会と私たち自身の意識を変える代わりに、自分たちの自己満足的で無頓着な生き方を続けるからです。そして貧困者は黙っているでしょう。彼らが口を開くことは稀だからです。特に、飢えから死ぬこと以外何も知らない人々の生活する最も貧窮した国々では。私たちはクリスマスに慈善団体へ寄付するかもしれません。そしてそれは必要なことです。しかし、その後私たちは何ごともなかったように振る舞い、すぐに自分たちの選んだ慈善の目的を忘れるでしょう。したがって、私たちは貧困と社会的不正義を正常化し、私たち自身がそのような不平等と苦しみが続く理由の一部となるのです。

ですから、さらなる小包を貧しい人々に送る代わりに、私たちの政府が恩着せがましいチャリティのやり方を通してではなく、正義と正しい人間関係の名の下に、私たちの国の余剰資源を再分配することによってこれを最後に貧困を終わらせることを団結して要求しましょう。すべての都市の街頭で、何十万人という数で結束しましょう。そして、私たちが持っているものと不要なものすべての在庫目録を作成し、他国の需要と比較するよう政府に要求しましょう。これを求めるのは珍しいことではありません;引っ越しの際、すべての家族にとって不要なものを見つけるために、持っているすべてのものを調べることは当然であり、その多くがチャリティに寄付されます。ですから、すべての政府が国の余剰資源の在庫目録を作成し、それらの資源が最も必要とされる世界の地域に再分配する方法についての戦略を国連を通じて練り上げるよう要求しましょう。

生命を脅かす剥奪と予防可能な病気の根絶を恒久的に保証する、新しい政府間協定を通じて策定されるなら、これをチャリティと見なすことはできません。多くの国は特に穀物やその他の不可欠な食料品などを必要以上過剰に生産しています。ですから、国々という家族が、すべての余剰生産品の世界的な在庫目録を作成し、世界の資源を分かち合い、最終的に極度の貧困を根絶するために協力するよう求めることはそれほど大袈裟なことではないのです。そして、もし私たちの政府がそれを拒否するなら、膨大な人数で街頭に立ちましょう。人々の声の圧倒的なパワーが、自由、平等、正義への高まる要求に応えるために仕える、能力のある政治家たちを政府にもたらすでしょう。

これまで話してきたどれもが、私たちがお互いに、そして地球に対してもっと謙虚で愛情のこもった方法でクリスマスを続ける限り、この伝統を祝うべきではないと示唆しているのではありません。私たちは、条件づけられたマインドを通して、そして今日起こっていることについての道徳的な考慮なくして、キリストの誕生を祝うことはできません。また、私たちが食べもの、飲みもの、プレゼント、笑いにしか関心がない一方で、世界の重大問題を無視して、イエス、貧困、不正などの言葉に触れさえしないなら、クリスマスを宗教儀式とみなすことはできません。ティンセルの飾りつけやローストターキーのことは忘れて、飲みものを持ってせめて街頭で大規模なデモを行いましょう。

そして、私たちがイエスを心に留めておきたいなら、高価な贈りものや通常の暴飲暴食、または一年のこの神聖とされる時期を侮辱する商業主義や物質主義なしに、極めて謙虚なやり方で家で食べものを分かち合いましょう。さらに、クリスマスの日を家族や友人との間で正しい人間関係を実践する機会として利用し、共に過ごす短い休暇中、お互いに奉仕することで愛を示しましょう。これは、イエスの名の下に行われるどのような儀式よりもイエスを記念することに私たちを近づけるでしょう。これが特に子供たちに大きな影響を与え、私たち全員にキリストの簡素な教えについての認識をもたらすのに役立つことは間違いありません。

クリスマスの時期にキリストの臨在とエネルギーを体験したいなら、食べ過ぎ酔っ払って無駄話をしながら座っていても決してそれは起こらないでしょう。なぜなら、キリストの本質は誰もが知っている通り、無条件の愛と自己犠牲的奉仕であるからです。多くの人はキリストが人間の日常生活に戻る素晴らしい宣言の日がやって来るのを待っていますが、私たちはすでに日々自分たちの周りで起こっているキリストの臨在の無数の宣言があることを忘れています。長年の不在の後、あなたが人生で大切にしている人に会うことに喜びを感じるとき、それはキリストと彼の愛の宣言なのです。「国境なき医師団(Médecins Sans Frontières: MSF)」が戦争地帯で重傷を負った男性を救い、癒されたその男性が外国人医師の手を握りしめるとき、キリストのエネルギーがそこにあるのです。あるいは、空腹の貧しい人に食べものを与え、それを口にする彼の目に感謝の気持ちの表れを見たなら、それは二人の人間の間のキリストの臨在の宣言なのです。

ですから、私たちが自由と正義のために街頭で結束するとき、私たちがついにお互いと自身の中にキリスト原理を認識し合うとき、そして私たちが世界資源を分かち合うよう政府に結束して呼びかけるとき、それがどんな素晴らしい世界的出来事になるかを想像できるでしょうか?すべての国の人々の間にもはや分裂でなく、ただひとつの愛があるところの、お互いへのそのような慈悲心の表示を想像することさえできるでしょうか?私たちは、キリストを愛の主として、私たちの内にある愛の原理を目覚めさせるために送られた人間の世界への一度きりの訪問者として考えますが、あなたが他者への愛を真に表現するなら、あなたはまた内外両方において自由なのです。愛と自由の間の相互関係は非常に親密で現実的です。したがって、キリストが愛の化身であるなら、彼は自由の主でもあります。ですから、クリスマスにキリストの本質を知りたいなら、デモンストレーションで結束し、新しい神の摂理、新しい地球、新しい啓示を支持し、そこから起こるかもしれない出来事を共に体験しましょう。

どうか少しの間目を閉じて、あなたがキリストであると想像してください。苦しみ、不正、混乱のどん底にある世界を見つめながら、あなたは教えを放つためにそこに再び戻ることを決意します。簡素さなど殆ど皆無であり、マインドの条件づけが頂点に達した信条と複雑さの海洋の深みに人間が沈んでしまったことを知りながら、あなたはどのように仕事に取りかかるでしょうか?また、計り知れない対立が怒りと敵意を持ってあなたを迫害しようと待っていること、そしてあなたが日常社会に再び踏み込む前に、天からの声が「私の子よ、人間の自由意志の侵害は禁じられていることを忘れるでない」と囁くであろうことを知りながら。さらに、支配的商業化勢力によって特別にあなたのために作られた不可解な競技である、非常に巧妙で手のこんだチェスゲームにあなたを参加させようと、不透明な勢力が待ち構えています。そしてこれらの勢力は、このゲームの王と女王が木製ではなく、人間の自由意志で作られていることを良く知っています。あなたはこの不幸な世界をどのように助け、どこから取り掛かるでしょうか?

この現実と向き合う上で教会が果たすべき役割は何か、そしてもしキリストが今日私たちの中を歩いていたなら、聖職者たちがを認識するかどうかを私たちは問うかもしれません。あるいはもっと適切に言うと、私たちはイエスが彼の変わり果てた教会を認識するかどうか問うかもしれません。今日の教会の指導者たちは、貧しい人々に仕え助けるというキリストの簡素な教えに従うことよりも、伝説の神を信じる信者を集めることにもっと気をとられているようです。でなければ彼らは、何千年も昔にイエスが言ったかもしれないことについての不可解な神学的議論に夢中になっているようです。それは、神話上の天国のどこか「高いところ」に置かれ、日常の世界から取り除かれた飾りものです。彼らは、街頭に出て正義のために行動するよう彼らの群れを訓練することをせず、商業化の深刻な現実と世界の人々の統一した声の切実な必要性への理解をもたらしていません。代わりに、彼らはイエスと呼ばれる歴史上の人物についてもはやがイエスではなくなったかのように説教します – それは、隣人を自分自身と同じように愛するよう私たちを鼓舞することによって完全に現状を混乱させた人物です。

私たちは2千年間キリストに祈ってきました:それで十分ではないでしょうか。私たちは彼の栄光において何千という素晴らしい神殿を築いてきました:それで充分ではないでしょうか。儀式と礼拝のことは忘れて、「すべての人のための自由と正義」と書かれた旗の下で結束し、お互いに、そして私たち自身の内に、ついにキリストを認識するときではないでしょうか。聖職者はレガリアを脇に置いて、分かち合うこと、平和、そして飢餓の終焉のために街頭で私たちの叫びに参加するときではないでしょうか。私たちは問うかもしれません:首都が何百ものテントや抗議者で埋め尽くされていたとき、聖職者たちはどこにいたのでしょうか。フランシス法王が経済改革と世界的平等を支持している今、聖職者の間での大多数の支持の高まりはどこにあるのでしょうか。そして、地球を神の聖なる神殿と見なすなら、現代社会の真の聖職者は誰でしょうか。それは儀式と無駄な罪の告白に時間を費やす聖職者なのか、それとも、母なる自然の権利を守り支持するために戦うグリンピースや他の何万というグループの活動家たちでしょうか。

教会の役割は癒し、導き、保護し、教え、認識をもたらすことですが、積極的に活動する一般市民が教会全体に代わってこの任務を果たしているかのようです。したがって教会が、イエスの教えに沿って自らを改革する唯一の方法は、多くの宗教運動家が試みているように、彼ら自身の組織内からの広範な抵抗にもかかわらず、浮上する人々の声を支持することです。キリスト教徒とカトリック教会が神とキリストについての歪んだ理解を持ち続けるなら、閑古鳥が鳴き売りに出されている古い教会の建物によって実証済みのように、彼らがますます取り残されることは避けられません。しかし、世界中の平和的な大衆抗議の中で、キリストの愛と存在を感知し、より自由で寛容な国家を目指して教会が世論と一致して動くなら、この先来るべき偉大な社会的変容においてそれは重要な役割を持つのです。

この人生における肌の色、信仰、立場に関係なく、統一した正義への呼びかけを起こすことに参加し、商業化に捕らわれた文化の有害な影響を認識し、私たちの政府に対して他の何百万という人々と共に声を上げることは私たち全員の責任です。これらの出来事が一旦起こり始めるなら、分かち合いの原理が世界の問題に対する唯一の最後の解決策として認識されるまでそう長くはかからないでしょう。

***

神についての思想のあるところには 
行かないで 
神の名の下行われる大きな集会には 
行かないで 
神の名の下聳え続ける古い神殿には 
行かないで 
聖職者と信者の集まりが神の名を讃える

ところでは耳を閉じて 
でも、貧しい人々や飢えた人々が 
あなたのハートに呼びかけるとき 
あなたの母に従って
神なる真のあなたでありなさい

ああ、万物の母なる慈悲よ
 


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創設者である。

編集協力:アダム・パーソンズ

Photo credit: argyadiptya, flickr creative commons

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Translated versions also available in GermanSlovenian and Italian.

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