食べ物を分かち合うことの意味を探求する

Mohammed Sofiane Mesbahi

地獄で人が餓死することはありませんが、
地球ではあります。

どうか彼らを死なせないで。

彼らの愛すべき魂に何ができるかを 

私たちに見させてください。  

* * *

危機が頂点に達しつつあるこの混沌の時代において、分かち合いの原理は人類の多方面における問題の解決策としてますます議論されています。多くの人々と組織が今、消費削減、資源保全、無駄防止、貧困対策などの観点から、社会が前進するひとつの道として分かち合いの重要性について話しています。しかし、最近の注目すべき進展の一つは、食べものに関連して分かち合うことの重要性についての会話です。これは、チャリティを通じての食料の分かち合い、農場やスーパーマーケットからの余剰生産物の回収、イベントや集会での食料の無料配布、さらには友人や新しい知人の間での食事の分かち合いに関するものかもしれません。この活発な会話が行われている状況は他にもたくさんありますが、私たちの探求の目的は、新たに出現している食べものの分かち合いのムーブメントのさまざまな傾向や特徴を分析することではありません。むしろ、私たち自身で、この時代の最も差し迫った危機 – それが世界に遍在する饑餓であることに議論の余地はないのですが – に関連して、食料の分かち合いのより深い意味を簡単な良識ある言葉で探求できるかどうか見てみましょう。

まず、現代社会で食べものを分かち合うことへの高まる訴えの源について突き詰めてみましょう。食料の豊富な世界で、現在食べものを分かち合う必要性について話し合う境遇へと人々を導いたのは何でしょうか。 私たちが家族と食事をするとき、「私は今あなたと私の食べものを分かち合っている」とお互いに言ったり思ったりするでしょうか。もちろん、しません。食べものを皆で食べるのは当然であり、家族の中でそのようなことを言う人は誰もいません。父親や母親は子供たちと食べものを分かち合わなければならないと意識的に考えることはなく、子供たちは両親に健康と生命を維持するために十分な食べものを「分かち合う」よう求めないことは確かです。私たちは日常生活の一環として、ただ一緒に暮らし食事をしています。そのプロセスは自然で自動的です。では、世界がすべての人にとって十二分な食料を生産していることを心に留めるなら、どのようにして、「社会問題の解決策として食べものを分かち合おう」と決然と言う状況に至ってしまったのでしょうか。黙示的にそれは、社会全体で私たちのお互いの関係の在り方に何か歪みがあることを暗示しています。

一方で、あなたには人類を苦しめているすべての問題、日々起こるすべての酷い出来事があります – それは、広範囲にわたる暴力と搾取、極度の貧困と贅沢、私たちの社会秩序に組み込まれたすべての分裂です。そしてその混乱の真っ只中で、食べものを分かち合うという考えが突如として確立されるのです。しかし、もし世界にそのような不平等がなく、剥奪や飢餓がなかったなら、食べものを分かち合うという考えに私たちは何も注意を払っていなかったかもしれません。家族が皆で食べものを分かち合うことを一瞬もためらわないように、国々という家族もまた、世界の豊富な生産物を当然のごとく分かち合っていたはずです。そして、誰も分かち合うことの必要性に触れなくても良かったはずです。それはまた自然で、常識的で、私たちの日常生活の中で当たり前のことであったでしょう。

したがって、おそらく問題は、なぜ私たちが食べものをお互いに分かち合う必要があるのかではなく、なぜ食べものがすべての人に自由に行き渡ることを許さないような世界を私たちはつくり出してしまったのかということではないでしょうか。私たちが自分たちのために手に入れた食べものを他者と分かち合うべきなのか、それとも豊富に手に入るはずの食べものを誰もが入手できるようにすべきなのか。この問いかけの根底には残酷な不正義が存在します。第一に、私たちの世界は、お金を払うことができない人々が食べものを手に入れるのを拒否します。ですからあなたが貧しければ、あなたにはあなた自身や家族を食べさす権利がないのです。第二に、最も酷いことに、世界には生産された食品が有り余っているため、企業はそれを自由に流通させるのではなく、むしろ無駄にしたり破壊したりしています。

では、食べものに関する問題の根源は何でしょうか。それは、食べものの商品化であり、食べものの生産、流通、消費が利益のために操作されるというやり方であると言えるかもしれません。たとえば、膨大な量の食料を管理する多国籍アグリビジネスは、お金儲けにしか関心がないため、農産物の栽培とその自由な流通を保証することに関心がありません。ですから、農産物を必死に育てる貧しい農民に関して言えば、強力な大企業と比較すると、彼には何の権利もないのです。何世紀にもわたって自給自足でやって来た彼の住む村に大企業は乗り込んで行って、何でも建てたいものを建て、彼のコミュニティを壊し、荒廃させることが許されるのです。なぜなら、政府がそれを支援するからです。あるいは、中国などの国が、その村の周りの土地を買い取り、これからその中で育った食べものは自分たちのものだと主張するかもしれません。それがまったく事実であるかのように。

ですから、貧しい農民の土地が不適切な政策を策定する政府や、大企業によって事実上盗まれているとき、どのようにして彼は農産物を家族と自由に分かち合うことができるのでしょうか。そして、余剰農産物を地元市場で売る代わりに、安価でそれを富裕国に輸出することを余儀なくされている貧困国の何百万もの小規模農家にとって、食料を分かち合うとは何を意味するのでしょうか。低価格の農産物から喜んで利益を上げているスーパーマーケットが、豊かな先進国に現在いくつあるか知っていますか?そして彼らは何トンの食料を毎晩破棄しているのでしょうか?おそらく、その答えは実際重要ではないでしょう。なぜなら、その食べものや農産物はすべて彼らの所有物だからです。彼らには自然が存分に提供する地球の恵みを分かち合ったり、万人のものである食べものを自由に流通させたりすることに関心がない事実に変わりはありません。

したがって、食べものは商品化されるべきでなく、営利企業だけでなくすべての人類の利益のために、正しい位置付けがなされるべきだと言うことは道徳的および原則的に正しいことです。食べものが純粋に商業目的で育てられるときに、豊かな世界で食べものが不足すると言えるかもしれません。なぜなら、世界の市場は食料で溢れかえっていますがそれは非常に高価であるため、多数派の主要な食料へのアクセスはより少なく、少数派の食料の宝庫へのアクセスは多すぎるからです。したがって、食品の消費が市場主導型プロセスの複雑なシステムに結びついているとき、私たち全員が食べものを互いに分かち合うべきだと言っても意味がありません。誰が誰と食べものを分かち合っていて、そもそもその食べものは誰のものだったのでしょうか?食べものをどのように分かち合うべきかについて話し始める前に、人間にとっての食べものの本質的な目的を理解する必要があることは明らかです。私たちは人類全体に関連して食べものの役割を理解し、その結果、神から授かった生活必需品を正しい場所に向ける必要があります。

実に、私たちは根本的に、なぜ世界がこのような怪しい工業型農業のやり方で一人当たりの食料をこのように過剰生産しているのか疑問視するべきです。それは人々を食べさせるためでしょうか? もしそうなら、世界の食べものは万人のものです。利益のために海外輸出用に用意された食料が何万トン単位で腐り果てている巨大な食料貯蔵庫の所有物ではありません。このように食料を商品化することは、水を商品化することが危険であるのと同じように極度に危険です。定義上、世界の食べものは、日々生きていくためにそれを食べる必要のあるすべての人々のものです。それは分かち合うこととはまったく関係ないのです。それは常識に基づいたことなのです!

食べものとの関係から分かち合いについて話し始めている人々が正義の観点からも問題を検討し始めることを願います。私たちが平等で貧困や剥奪のない世界に住んでいたとしたら、食べものを分かち合うという考えは意味をなさなかったであろうし決して生まれていなかったかもしれないことを思い出してください。食料の分かち合いについて話すことに意味がある唯一の理由は、世界が非常に分断され不平等や対立が絶えないからです。それでも飢餓をなくすために国々の間で食料の分かち合いについて話し合ってさえいるなら、それは真に道義的なアイデアなのです。

食料問題の本質はこれ以上簡単であり得ません。世界には莫大な余剰食料があります。生産された穀物やその他の食物が山積みになっていますが、その生産物は生命を維持するために必要な場所に分配されなければなりません。したがって、世界的に見て、最貧困地域で何百万人もの人々が絶望的に飢えているなら、飢餓や栄養失調で誰一人として死ぬことがないように、緊急事態としてそれらの場所に食料を向け直さなければなりません。

これは確かに理にかなったことです。一家の親たちは、自分たちが食べたり服を着たりする前に、まず子供たちに必要なものがすべて揃っているかを確認します。これは、国々という家族にも当てはまります。最富裕国の状況で食べものの分かち合いについて話す前に、まず世界で最も貧しい地域の子供たちにも充分に食べものが与えられ彼らが保護されていることを確実にせねばなりません。自分たちの子供たちが空腹で家に一人ぼっちで取り残されていたなら、私たちは友人や近所の人と食料を分かち合おうなどと夢にも思わないでしょう。したがって、「緊急事態」という言葉は、「分かち合い」という言葉よりも食料問題にはるかに近いのです。世界的な食料緊急事態は、すべての国の最優先事項として飢餓が完全に根絶されることを確実にするために、国際協力、効果的なグローバルガバナンス、そして世界の食料と資源が – たとえ軍隊を使ってでも – 必要な手段を用いて舵取りされる必要があることを暗示しています。

*

食べものとの関連から分かち合いについて話すことによって、私たちが何を意味しているのかをより明確にしてみましょう。経済的観点から、分かち合いの術とは、あらゆる形態の分裂と剥奪をなくすために世界資源を必要とされるところに向けるということです。私たちが食料の分かち合いについて話しているなら、それは私たちが自分たちの考えを自国やコミュニティのレベルだけに限定することができないことを意味します。私たちはまた、グローバルな観点から、そして何よりもまず、飢餓を終わらせる政治との関係の中で考えなければなりません。そうでなければ食べものを分かち合うという概念は、結局のところ中身のないただの高尚な考えで終わってしまうからです。なにはともあれ、残りの人類から隠遁して、コミュニティ内で人々が集まり自分たちの食べものを分かち合うということは、以前幾度にも渡って行われてきました。彼らの試みと分かち合いの活動は、集団の中での彼ら自身に違いをもたらすかもしれませんが、他の誰かにとってほとんど意味がありません。

同様に、ギリシャやポルトガルなどの経済危機に見舞われた国々では今、多くの人々がチャリティやお金のない家族に食料を寄付しています。[1] 富裕国でも深刻になり続ける飢えの問題を考えると、コミュニティ内で食べものを分かち合うことは間違いなく正しいことです。しかし、その意識が地球規模になるのはいつでしょうか。「私は隣人を食べさせる」だけではなく、「私は地球を食べさせる」ではないでしょうか。ユーロ圏の多くの国々が社会的混乱に陥っている現在、私たちは自分たちの間で食料を分かち合い始めるかもしれませんが、しかしそれでも世界の他の地域では何百万という人々が餓死しています。そしてそれは何十年もの間そうでした。自国が経済危機から救われたなら、私たちは近隣の人々のことだけでなく、それらの人々のことも考えるのでしょうか。

それは、「私たちの」食べものを世界の飢えた人々と分かち合うという問題でさえないのです。それは、豊かな世界での飢餓という犯罪と、世界の貧困者から資源を盗み続けることを阻止するという問題です。それは実際のところ、窃盗と違法性の問題です;大量に生産されている食べものを求める人を、誰であろうと政府が死なせることは違法であるべきです。この点で、食べものを分かち合うということは、私たち人が遠方の地域の飢えた人々と個人的に自分たちの食べものを分かち合わねばならないという意味ではありません。もし私たちの身近な誰かが飢餓に苦しんでおり、私たちが自分たちの食べものをその人と分けるなら、明らかに良い結果をもたらすでしょう – その人は不必要な死から救われたことになります。しかし、世界にはそれを必要とするすべての人に確実に食べものを配給するための食料、船、飛行機、技術が十二分にあるのです。では、なぜ人は十分に食べるものもなく、家族を養うこともできないということになるのでしょうか。これは、私たちが正義の観点からこの問題を私たち自身で考えて行きたいなら進むべき追求の方向です。そしてそれは、豊かな世帯から海外の遠隔地に食料の入った小包を送ることによって出る答えでは決してないのです。

大まかに言うと、食べものの分かち合いについての浮上する会話は、2つの方向のうちどちらかで進む可能性があるようです。私たちは自分たちの社会やコミュニティに限定された食べものの分かち合いという考えに基づいて新しい概念を作り出すか、あるいは食べものは万人のものであるという理解に注意を向け、ひとつの人類のビジョンを支持するために意識を惑星レベルへと拡大するかです。第一の方向は、それがもし私たち自身と自国にとって良いことの点からだけで考えるなら本質的に保守的で自己中心的です。しかし、私たちが世界的に食料を分かち合う必要性を考え、世界全体にとって何が良いのかという点から考えるよう自分たちを教育し直すなら、飢餓をなくすために分かち合うという考えは、革命の真の意味を内に持っているのです。それは正義、慈悲、良識に基づいて、そしてとりわけ、成熟さと責任に基づいて分かち合う可能性を直感する日には、私たちの集合意識の中の革命の爆発となるでしょう。世界的な観点から分かち合いが何を意味するのか私たちに明確であるなら、そして私たちの行動がハートの良識によって導かれた革命に基づいているなら、私たちは食料との関係から分かち合いの意味について話すことができるかもしれません。

しかし、私たちが唯一チャリティだけに基づいて食料の分かち合いについて考えるなら、地球のすべての住民が貧困から解放されることを確実にするために必要な経済的理解に達することは決してないでしょう。世界のすべての人が十分な食べものと住居を持ちケアを受けられることを保障することに真に関心があるなら、チャリティは社会にとって時代遅れの考え方であり、消え去って最終的には過去の遺物とならねばなりません。正義と飢餓を根絶させることの関係から食べものを分かち合うことを考えない限り、私たちは分かち合いの原理からその尊さやより大きな霊的意味を剥ぎ取っているのです。この原理にはある一定の固有の尊厳もあるので、感傷主義やチャリティの概念によってそれを低下させないようにしましょう。明らかに、すべての人が生活必需品にアクセスできることを保障できない分断された社会では、チャリティに基づいた食料の分かち合いは必要であり実際に極めて重要ですが、それは世界資源を分ち合うこととはあまり関係ないのです。

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さて、私たちが食料との関係から正義の意味についてさらに明確にできるかどうかを見てみましょう。社会で人が殺人の罪を犯したとき、その人は刑務所へ送られます。しかし、その囚人でさえ、基本的な設備が提供され充分な食べものが与えられ、彼を飢えさすことは政府によって許されていません。それが正義というものです。しかしながら世界中には何百万人という人々が生命を脅かす貧困状態の中で日々細々と生き延びており、政府は彼らのために何もしてくれません。これらの人々にどのような社会的罪があるのでしょうか?彼らのためにどのような正義があるのでしょうか?明らかに、政府がすべての市民を助ける義務を果たさない限り、不平等と貧窮に苦しむ世界に正義はあり得ません。政府の役割は、選挙を通じてその政府を政権の座につかせた人々だけに仕えるのでなく;その義務は、誰であろうとその人が世界のどこに住んでいようとすべての人に仕え保護することです。[2] 

しかしそれは、罪もなく飢え貧窮している何百万もの人々にとって何を意味するのでしょうか?それはあなたが貧しくても、所有物が少なくても、飛行機で世界中を飛び回るのに充分なお金がなくても、最低限あなたには餓えや栄養失調で死に至る危険がないことを保障する十分な食料があるだろうということです。それは、世界人権宣言第25条がすべての国の指針原則とならなければならないことを意味しますが、現状は殆どその逆です。[3] 世界で最も多く栄養不足の人々を抱えた国インドでさえ、政府は戦争中ではないにもかかわらず、毎年約400億ドルを軍事に費やしています。貧しい食生活に関連する病気で毎日数千人もの子供たちが亡くなっているとき、政府は誰を守るために戦っているのでしょうか。この国だけで、すべての国民を養うのに十分な食料が生産されています。政府が国会に「国の食料余剰を飢えた数百万人に向け直せ!」という法案を提出することを何が止めているのでしょうか。

おそらくこれは、私たちの活動を自分たちの間だけの食べものの分かち合いに限定するなら、政府の歪んだ優先順位を変えることに決して成功しないだろう理由を説明しています。私たちがすべきことはまた、各政府の面前で集結して団結し、「あなたたちがしていることをやめなさい!」と言うためにデモンストレーションを行うことです。しかし、政府が餓えに苦しむ人々に直ちに食料を配給するよう集合的に要求する代わりに、食料の分かち合いの取り組みに携わる人々の多くはまるで戦争が起こっているかのように動いています。お金のない人のためにも少なくとも国の余剰食料へのアクセスを確実にするために、食料が寄付され、収集され、回収され、そして再分配されます。それは尊敬に値する行為ですが、街頭に爆弾が落ちて来ている訳でも、食料の在庫が減り制限がかけられているわけでもありません。

では、世界にはすべての人に行き渡るだけの十分な食料があるにもかかわらず、それを最も必要とする人々に届いていないのはなぜでしょうか。すでに示唆したように、その理由はよく議論されています:なぜなら、食料価格が市場勢力の気まぐれによって操られているからです。なぜなら、大規模な食べものの商品化により食料が買いだめされ、無駄にされ、利益のために投機され、そして家畜飼料としてフィードロット産業に売られているからです。このような状況から生じる恐るべき不正義への答えとして、私たちは近所の誰かに食べものを与えて家に帰って満足するのでしょうか。回避可能な飢餓による死者数の圧倒的規模は、世界の政府に緊急対応を要求します。したがってこの状況を変えるための最初のステップは、私たちが戦争をしているのではないということ、世界には分配可能な食料が豊富にあるのだということ、そして無謀な政策を通じて食料の剥奪を引き起こしている政府に責任があるのだということを理解することです。他にどのようにしたら恐るべき規模の食料危機が何度も繰り返し起こり続けることが可能なのでしょうか。「もういい加減にしてくれ!」と私たちが言わねばならないときが来ました。

法律を変え、企業を規制し、最も緊急に必要とされるところに食料を向け直す力を持つのは世界の政府です。最大の多国籍アグリビジネスでさえ、利益を追求する邪さのすべてにもかかわらず、世界の人々の団結した声には歯が立ちません。どう考えても変革への鍵は、一般の人々の団結力です。エジプトで見られたように、十分な数の人々が一体となって腐敗した政府のリーダーに辞任を求めるなら、その政治家はそれを余儀なくされるでしょう。そして十分な数の人々が大手食品企業の製品をボイコットするなら、それらの企業は貧困と飢餓を引き起こし続ける破壊的運営を改めることを余儀なくされるでしょう。私たちが住みたいと願うような世界を支持することは私たち善意の一般人にかかっています。私たちは奉仕するために生まれ、慈悲心を持って生まれ、恵まれない人々を助けるために生まれましたが、政府は分裂的な法律や政策によってそれらを私たちから奪っています;私たちの兄弟姉妹が飢餓と病気で死んでいく一方で、あとどれだけの間私たちはおとなしく追従していくつもりでしょうか?

私たちは世界のどこに住んでいようと活動家となって結束せねばなりません。そして共に、この不正義を止めることができるのです。私たちの政府が飢餓の危機に適切に対処するまで止むことのない大規模なデモンストレーションを行うときが来ました。それは、2003年のイラク戦争反対デモの時のように各国で何百万という人々が週末集まり、その後帰宅して、政治家たちが資源略奪の策略を続けることを許すものであってはなりません。政府が食料の再分配緊急プログラムを国際レベルで調整するまで、私たちはすべての国と首都でどこまでも抗議デモを続けて行かねばなりません。

私たちが自分たちの努力を地元だけで食べものを分かち合うという目標に定めるだけでは決して十分ではないでしょう。状況の危機的規模は、私たちが世界中で起こっていることを認識し、一体となり、組織的に活動し、そしてすべての人が即時に食べものを与えられることを政府に要求することを義務付けます。地元で食べものを分かち合っている人々とその食べものを受け取っている人々でさえ、力を合わせて戸外へ出て行き飢餓の揺るぎない撲滅のためにデモンストレーションを行うべきです!憤る公衆の蜂起がない限り、世界の優先事項の再調整、世界の最貧困地域への資金の大規模な向け直し、そして飢餓の永久根絶を確実にするための世界経済の協調的な再構築を私たちが目にすることは決してないでしょう。

しかし、既存の政府の指導者たちが飢餓をなくすための公衆の圧倒的な呼びかけに自動的に応じると期待すべきではありません。世界の政府には無数の人々の苦しみを迅速に終わらせる手段があることを私たちは知っていますが、それはそうすることが彼らの最善の利益につながるという意味ではありません。たとえば、戦略上または経済上の利益以外には忘れ去られたアフリカの紛争地帯に介入する動機を諸外国に与えるものがあり得ないことは当然であり、ましてそれらの壊滅された地域を再建しすべてを奪われた人々を保護する政府間の緊急プログラムを策定する見通しがないことは言うまでもありません。そしてそのような広範な救済と支援に対する政治的意志があったとしても、政府開発援助(ODA)など発展途上国の貧困層を支援するために使われている現在の方法は常に不十分なままでしょう。これは非常に古い有害なシステムの遺物ですが、飢餓と不必要な剥奪を永遠に撲滅するために、制度化されたチャリティを国際的な協力行動プログラムがとって代わるべきときが来ています。

したがって、既存の政府の指導者たちが貧困と社会的不正義を解決するよう世界世論に強いられたとしても、そのために何がなされるべきかを理解するでしょうか。彼らは十分な緊急性を持って対応するかもしれませんが、そうしない可能性の方がさらに高いでしょう。したがって、おそらく公衆にとって最初のステップは、現状を維持する古い政治家たち全員を退かせ、コモンセンスを持った一般の人々を影響力と権威ある地位に置くことです。訓練を受けた一般の人々は、私立学校やエリート大学で教育を受けた裕福な政治家とは非常に異なる世界観を持っています。コモンセンスは、すべての国の一般の人々のものです。なぜなら、彼らは正義の必要性を認識し、他人の眼から見て「偉い人」になることに関心がなく、公益のために仕えることを望むだけだからです。彼らは、お金持ちや支配者層、そして強力な企業だけに仕えるというイデオロギーに従ってビジョンを持たずに機能する官僚たちとは異なります。

実に、コモンセンスが私たちの社会で優勢になっていない理由の一つは、それが支配的な政府と浅はかな助言を受けた政治的指導者たちによって長い間奪われてきたからです。保守的な国家元首は前途にある変革に対して備えがありませんが、その理由は明白です。まず第一に、それは彼らのせいではありません。彼らは全世界の人々を食べさせ、何十年にもわたる破壊的な商業化を覆すことができる政策を実施するよう訓練されていません。第二に、あなた方がそれを頼んだなら、彼らは大変驚いて言うでしょう:「申し訳ありませんが、私は何十億ドルもの契約を諸外国と結んでいるのです。あなた方は私に、国益のためのこれまでの何十年もの努力を危険にさらせと言うのですか?!」そのような旧制度の政治家に、彼の政策の優先順位を変えるよう頼むのは危険な過ちかもしれません。なぜなら、あなたが了見違いの相手に公衆の要求に耳を傾けるよう頼み続けるなら、最後には暴力をもって彼らに請うことになるからです。そして暴力は、世界資源を分かち合う上で何の機能も果たしません。これが、旧政府が退かなければならない理由です。私たちはもはや彼らに投票するためにこれ以上時間を無駄にすべきではありません。そしてこれらの時代遅れな政治家たちが世界観を完全に変えるように抗議する意味はありません。なぜなら、彼らがそうすることは決してないだろうからです。ですから、彼らは公職から退かねばなりません!私たちは彼らを必要としないのです

私たちは、教条主義的権威者を、新鮮な人材 – 感謝、謙虚さ、知恵を持って人類に仕えることだけを目的とした一般の人々 – と置き替えなければなりません。なぜなら、賢明な一般の人々は、商業志向の政治家が決して気づくことのなかった自分たちが選ばれた理由を認識しているだろうからです。たとえば、非政府組織(NGO)で働く経験豊富な人々は、無私の奉仕の態度を持ち、さまざまな分野で必要とされる変革について正確に知っています。政府が実施すべき政策を打ち出すためにこの種の人々が必要とされます。そしてそれらの政策はすべて国連に提出され、経済的再構築と資源再分配の国際プログラムに策定されるべきです。世界中の数多くのNGOが環境の修復、飢えた人々への食料供給、貧しい人々の世話、より良い世界への道を整えるであろう政策を打ち出すなど、常に政府によって果たされてくるべきであった仕事を行っています。進歩的で人道主義的なNGOの提唱するものは実際、私たちの政府が志すべき最高のものを代表しています。

ですから、従来の政治家たちを取り除き、訓練された一般の人々を入れるべきです。そしてNGOの知恵が私たちの新しい政府政権の指針とならねばなりません。商業化の分裂的な法則に従う政府によって引き起こされた混乱を止めるなら、飢餓者はついに食すことができ、被害は徐々に修復され、残りは自然について行きます。各国家は自分たちに何が必要であるのかをすでに知っています。そして私たちが多くの人々の運動や活動するNGOの尊敬すべき思想家たちに耳を傾けさえすれば、必要な答えが与えられるでしょう。

*

これらの主張への反応として、多くの人々は、公衆の団結した声が赤貧の苦しみに焦点をあてることを期待することは理想主義的すぎると異議を唱えるかもしれません。たとえば、どこであろうと貧困によって引き起こされた飢餓を終わらせるためのデモンストレーションをなぜ私たちは街の広場でいまだ目にしていないのでしょうか。おそらく私たちにはその答えがわかっているのですが、これは熟考すべき重要な問いです:なぜなら、地球のどこかで人が餓死するのが当たり前のことだからです。私たちはそれに慣れ切っています;それは何十年も起こり続けてきました。

私たちが何をすべきか言うのは簡単です。それは、私たちが一斉に政府の面前で何百万人もの声の力を通して、何かがなされるまで来る日も来る日も平和的な抗議デモによって私たちのシンプルな要求を激しく打って出ることです。しかし、私たちが今行っている最もそれらしいことといえば、人々と食料の交換をしたり、チャリティに寄付したり、またはコミュニティ行事で食料を分け合うくらいです。そして、食料の分かち合いのアイデアを中心に生まれる多くの組織のほとんどは、遠方の国々で人が飢えている事実に触れることすらありません。なぜでしょうか?なぜなら、分かち合うという考えを、自国やコミュニティのレベルにとどめておく方がずっと無難だからです。私たちには、分かち合うことを全世界に適用すべきであるという見方をする傾向がほとんどありません。なぜなら、もしそうするなら、私たちは世界の最も貧しい人々と関連して自身の生活様式について内省したり、政府とその破壊的な政策に反対しなければならなくなるかもしれないからです。

貧困国の食料不安の実際の規模を知っていたとしても、私たちは自分たちの快適ゾーンから抜け出すことなく、むしろ自己中心的な限られたやり方で分かち合いのアイデアに応じることを好みます。何百万人もの人々が飢えで亡くなっているかたわら、私たちは食べものを分かち合うという名目でむしろ催し物を開くことを好みます。そのような食べものの分かち合いの活動に参加することによって私たちは良い気持ちになるかもしれませんが、実際には分かち合いのアイデアを「主義」や完全なファンタジーに貶めているのです。実際それは、私たちの自己満足的な無頓着さの延長であり、危機的な世界状況にとって何の意味もなく、人類の生存のために何も達成しないでしょう。自己満足的な無頓着さは水のようなものです;妨げられるとどこへでも可能なところに流れ込みますが、常にバランスを求めて以前と同じところへ戻ろうとします。私たちの自己満足的な無頓着さも同じです。なぜなら、私たちは常に安全性を求めており、私たち全員が、自己の恐怖心から隠れるところを探しているからです。自己満足的な無頓着さと恐怖は同じものです。なぜなら、一方はもう一方なくして存在できないからです。世界の緊張は極度に高まっており、思い切った改革なしではもうすぐ私たちに終わりが来るであろうにもかかわらず、私たちは皆大変怯えてこれから千年でも生きるかのように振る舞っています。そして私たち全員が、私たちの文明の危機に関与しているのです。生涯から生涯にわたって私たちが一緒に受け継いで再現して来た世界の問題から、誰も免れることはできないのです。

では、飢餓という残虐行為に関しては、誰に指が差されるべきなのでしょうか。政府は最も切迫しているところに食料を再分配することに関心がなく、そして大企業は食料を商品化して貧困者を社会から除外することで飢餓を引き起こしていることを私たちは知っています。しかし、おそらく政府や企業よりも私たち自身が責められるべきなのかもしれません。なぜなら、私たちは自分たちの無関心さゆえ、毎年永続するこの状況を防ぐためにほとんど何もしないからです。

残念ながら、最優先事項として、食料の剥奪を防ぐよう政府に要求する大規模なデモをもたらすことは一個人やグループが単一でできることではありません。私たちの集合的な認識だけが、飢餓を終わらせることが道徳的義務であり豊富にある食料を求めて人が死ぬことは許されないのだという世界的理解をもたらすことができるのです。つまり、豊かな世界の中での飢えからの不必要な死は、私たち集団としての自己満足的な無頓着さの最終結果を意味しているのです。そして、この残酷な事実から逃れることはできないのです。それは政府でも、企業でも、秘密結社による陰謀でもないのです。最も責められるべきは、私たちなのです。

では、分かち合いの原理が最終的には食べものとの関係から何を意味すると言えるのでしょうか。私たちがすでに確認したように、それは国際緊急プログラムによって飢餓を終わらせるための即時の行動を意味します。それはすべての男女子供がすべての場所で入手可能な食べものにアクセスできることを確かにすることを意味します。それは本当に、それだけ単純なことなのです。それは商品化の提唱者たちが私たちを信じ込ませているような複雑な状況ではないのです。私たちがシステムと呼ぶものは、その複雑な法律と政策を通じて社会にあまりの分裂を作り出したため、挙げ句の果てには誰もシステムが何であるのかをもはや真に理解していません。しかし、それは複雑に食料問題を考えなければならないという意味ではありません。なぜなら、共通のニーズに関しては私たちは人間として皆同じだからです。分かち合いの原理が食料分配に適応されるとき、それは少なくともこの世界で誰一人として二度と飢えにより死ぬことがないことを意味するでしょう。それは私たちの語彙の中で最終的に「分かち合い」という言葉がもはや「食べもの」という言葉と関連付けられなくなるまで、誰もが安全で栄養価の高い食べものを入手できることを意味するでしょう。

世界情勢に分かち合いの原理を実現することの真の重要性は、人類と自然にバランスをもたらし、この地球で神から与えられた進化過程を万物が続けていく権利を授かるようにするということです。したがって、世界の食料を分かち合うということは、最終的に飢餓を根絶するよりもっと意味のあることなのです。なぜならそれは、私たちお互いの関係と、私たちと自然界との関係について新たな世界意識へと導くだろうからです。もちろん、その意識は、不当な貿易ルールや不条理な農業補助金などの政府の政策の根深い変革に反映されなければなりません。複雑な商品化の過程から食料を解放するためには、最終的に無数の法律が消滅しなければならないかもしれません。長期的には、必要以上の食料を生産したり不必要に食料を無駄にしたりしないようによりシンプルに生活することを学ぶ必要があります。私たちが終りのない利益追求のためにますます多くの食料を生産し続ける限り、すべての人が食料を供給され育まれることを保障できないどころか、私たちはまったく甲斐のない目的のためにこの地球を破壊しているのです。

したがって、地球規模で食べものを分かち合うことの第一段階は、穀物やその他の不可欠な食料品の緊急再分配を必要とするでしょう。そしてその再分配プロセスから第二段階において、食べものとの関係に新たな質素さが必要となるでしょう。これにより必要なものだけを生産し、地球の自然なプロセスに害を及ぼすことがなくなります。次にこれは、明らかに農業企業の役割を必要とするでしょう;これらの農業企業はまた、世界世論の統一された力を通じて、現在の工業型農業へのアプローチを劇的に改革しながら食料の再分配において「公正な分担」に貢献することを促されなければなりません。

これらすべてが、最終的には政府間組織と新たな経済的取り決めによって十分な食料へのアクセスがすべての人に保障されるまで、前例のない方法で街頭で集結してデモを行い続けるという私たちの集合的意欲にかかっています。軍事に不当に費やされている税金を向け直すだけで、それをするための財政があることを私たちは知っています。食料品、専門知識、能力、その他必要なリソースがすべて整っていることを私たちは知っています。それにもかかわらず、私たちは何を待っているのでしょうか? 世界の飢餓を終わらせるためにかつてない行動を要求するために、皆で団結して政府の面前に出ましょう!

 


注釈

[1] これは2010年から2012年の間にピークに達した欧州ソブリン債務危機に続いて観察された。

[2] このような声明は物議を醸すように聞こえるかもしれないが、実際にはそれは国際人権法の基礎となっている。すべての政府は自国の国境内だけでなく域外でも人権義務を尊重、保護、履行する義務を認めている。このコミットメントは国連憲章、世界人権宣言、および他の多くの国際条約に反映されている。詳細については、経済的、社会的および文化的権利の分野における国家の域外義務に関するマーストリヒト原則を参照のこと。

[3] 世界人権宣言第25条(総会決議217 A):(1)すべての人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。   

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モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創設者である。 

編集協力:アダム・パーソンズ

Photo credit: Shutterstock

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