正義への叫び

Mohammed Sofiane Mesbahi

他人のために一粒でも慈悲の涙を流すなら、
永遠の生命が、目に見えるすべての星に
あなたの愛すべき心を語るだろう。

* * *

崩壊しつつある金融システムに関する熟練アナリストのすべての解説は、今日の世界で実際に起こっていることの本質を理解するのにはほとんど役に立ちません。経済を修復しシステムの成長を回復する方法についての無数の論説が書かれていますが、それらは現在終わりに近づいている持続不可能なシステムとしか関連を持ちません。私たちがシステムと呼ぶものは余りに複雑化し、それ自体が生きているかのようですが、最も洗練されたエコノミストでさえ、もはや何が起こっているかを理解していません。仕事を見つけて維持し、収入を得て日々なんとか生き延び、家族を養うのに必死な一般人に何らか意味のある言葉で話す政策立案者はほとんどいません。内輪の会議に出席する権力的な政治家の世界と、彼らが仕えるべき一般の人々の日常生活との間の分離は、以前にも増して顕著になっています。しかし同時に、起こっている出来事を理解するためには、はるかにシンプルな方法で物事を見ることを必要とする、非常に新しい何かが世界中で起こっています。

およそすべての国で起こっている抗議デモは素晴らしい光景です。しかし「システム」に反対する抗議に参加する私たち全員もまた、銀行家や政治家によって引き起こされた混乱に関与していることを認識することが重要です。例外なく、私たち全員がシステムの一部です。社会が自身の延長であることを認識しない限り、経済状況が悪化し続けると同時に、私たちの抗議デモは途方もない混乱と暴力につながる可能性があります。一方で、左翼と右翼の政党のどちらも、増大する社会問題と不平等に対する答えを提供することができません。システムは、あなたと私のような一般人、家族や子供を持つ男女で構成されています。そのため「システム」を攻撃しないことは不可欠です。それは互いに対立し合うことに等しいからです。

近代史において、多くの政府が善意をもってシステムを完全に変えることを試みてきました。この改革は常に政治的イデオロギーに基づいて強制されていましたが、イデオロギーがもはや必要とされない時代が来ました。資本主義、社会主義、共産主義の根底にある原理には本質的には何も非はなかったのですが、政府は信条の名の下に国民に対して強制的で傲慢な態度でこれらの原理を乱用しました。今日、ますます多くの人々が、世界中で非常に多くの苦しみと対立を引き起こしているこれらの政治的「主義」から解放される必要性に気がつくようになっています。新しい千年紀から10年以上経った今、自己を共産主義者、社会主義者、資本主義者と呼んだり、または、制服を着替えるように別のイデオロギーと置き換えることによって、あるイデオロギーを打ち壊せると信じたり、自由を獲得できると信じるのは無意味に見えるはずです。

現在起こっている暴動やデモを目の当たりにして、文字通り、人々の意識が高まっていると言えます。それは、何の見くびりなしでこのようにも言えるでしょう – ますます多くの人々が自分で考えるようになり始めており、そして何を考えるべきかを他者から指示されることにもう依存しなくなって、もはや「信条を信じる」ことをしていません。既存の教育システムは、イデオロギーが人間の自由を否定していると理解することに役立ちません;それは、自己の内で自由であることの意味を教えてくれません。しかし今日、人々はこれを直感的に自身で認識しています。すなわち、世界中で非常に劇的な変革が起こっているのです。

いわゆるアラブの春に注意を向けてください。何百万人もの人々が勇敢に、何十年もの間、彼らに信条とイデオロギーを強制してきた独裁者から彼ら自身を解放しました。ところが革命が繰り広げられた今、多くの異なる派閥が互いにあらゆる種類の新しい信条を強制しようとしています。エジプトでは、100万人が再び街頭で抗議デモを行ったときでさえ、軍隊が権力と特権に基づいた古いシステムを素早く再構築しようとしたのです。ズコッティ公園とセント・ポール大聖堂前ではまた、他の大衆抗議運動と同様に、群衆の中でも様々な信条を持って注意を惹こうと争っている多くの知識人の派閥がありました。私たちは惑わされないようにしましょう。民主主義は自由と密接に関係していますが、今日の私たちのいわゆる民主主義というものは、強制的及び支配的社会組織の形態です。民主主義の真の意味を知ることは、私たち一人一人が内なる自由を経験するまでは不可能でしょう。少なくとも、主要な政治家が社会的及び経済的問題に対する答えを持たないでいるとき、数年に一度選挙に行くだけでは十分ではないのです。

私たちが新しい運動の抗議者を支持すると同時に正義を求めて叫ぶとき、それが何を意味するのかを注意深く考察しなければなりません。緊縮財政の真っただ中、富を蓄積している富裕者について現在多くのニュースが報道されています。それは当然のことながら、銀行家と現代社会で神聖化されて来た抑制なき貪欲に対する正当な怒りをもたらします。しかし、どちらの罪が重いのでしょうか?銀行家のボーナスでしょうか?それとも、豊かな世界の中で数万人もの人々が毎日餓死しているという事実でしょうか?世界経済は低迷し、人々の声は高まっていますが、人が餓死しているのになぜ私たちの街の広場でデモンストレーションが行われないのでしょうか?

それは、私たちが異なる生活の間の相互関係を見ないからです。私たちは、非常に貧しい人々自身を私たちの兄弟姉妹として、あるいは世界を相互依存するひとつのものとして見るように教育されて来ませんでした。子供は自己や自己の本質と触れ合うことを教えられず、競争とストレスに基づいた機能不全社会でむしろ「偉い人(成功者)」となるために条件付けられます。大学では私たちは人類の文明の歴史、哲学、政治、芸術などについての数多くの本を研究するかもしれませんが、最もシンプルな人間的観点から他の人々に仕えることは教えられません。その結果、世界的及び集合的な意味で、私たちがひとつの人類であるということ、私たち全員が相互依存しているということ、そして自分たちよりも恵まれない人々の世話をする責任が私たちにあるのだということを理解していないのです。

ウォール街や他の場所で起こっている抗議運動はずっと以前に起こっていても良かったはずです。それがなぜ、今になって突然起こったのでしょうか?それは、富裕国の何百万もの人々が、経済危機の影響を感じ始めているからです。住宅ローンを返済できないときでも、それが不公平な状況であったとしても、なぜ私たちは自分たちより貧しい人々のことを考えないのでしょうか?私たちが米国やその他の富裕国で異常なほど多くの人々が相対的貧困に苦しんでいることを知っているように、貧困にはさまざまなレベルがあります – しかし、あなたやあなたの子供たちが食べるのに十分な食べものを手に入れることができないときのような貧困についてはどうでしょうか。あなたに住居も、もしくはお金も、あるいは死を防ぐための基本的な形の医療さえもないような貧困はどうでしょうか。私たちは皆、「人道に対する罪」というフレーズをよく知っていますが、なぜ国際社会は毎日飢えによって死んで行く数万人もの人々、または世界銀行が奇妙にも極貧者と呼んでいる14億人の人々に関してこの言葉を使わないのでしょうか。[1]

経済システムが崩壊しつつある今、すべての国がそれ自体を再構築し始めなければならず、私たち全員がそのプロセスに参加することが可能です。しかし、これは飢餓の終焉から始まることを理解せねばなりません。第一に、飢餓の問題に目を向けることなくして不正という言葉に目を向けることさえできません。それは、新しい家を買ったときのように、まず前住人が残していったガラクタを一掃しなければならないのです。そのガラクタが飢餓の問題です。家でお腹を空かせて待っている子供たちを放ったらかしにして、私たちは自分たちのために世界へ出て行き正義を求めて運動をすることはできません。世界は荒廃状態にあり、劇的な復興プロセスを必要としますが、私たちはまず、自分たちの子供たちである世界の飢える人々を世話しなければなりません。

9.11アメリカ同時多発テロ事件後、巨大な軍隊が1か月以内に陸、海、空を越えてイラクに送られました。その違法な戦争の酷い結果にもかかわらず、そのすべての人的資源と専門知識が、生命を奪う代わりに生命を与えることに向けられたとしたらどうでしょうか?地政学、防衛、または企業の利益を超えた優先事項として飢餓を根絶するために、世界の軍事資源が動員されたと想像してみてください。最近NATOはカダフィ大佐が国民を虐殺するのを阻止するために、数億ドルというお金を費やし効果的に空を切って飛びました。[2] これが必要な行為であったか同意するかどうかはさておき、問うべき別の問題があります:NATOが人々に食料を送るためにすべての飛行機と軍隊をアフリカに送らないのはなぜでしょうか。ベンガジではさらに多くの人々が、外部からの介入なくては亡くなっていたかもしれませんが、同時に、数万人もの人々が世界の他の地域で飢餓と貧困から亡くなっていたし、今も毎日亡くなり続けています。NATOがアル・シャバブがソマリアの人々から援助を逸らすことを妨がないのはなぜでしょうか?[3] その答えは誰もが知っています:なぜなら、そこには彼らにとって戦略的または経済的な利益がないからです。しかし知っていてもそのことは、街頭に立ち一斉に抗議し「なぜ何百万人もの飢えた人々を助けないのか」と政府に答えを要求するよう人々を動機付ける目標にはならないのです。

貧困からの解放のために街の広場で聖職者がデモをすることを妨げる鉄則がないにもかかわらず、教会でさえが飢餓という冒涜に対して世界の良心を揺るがす義務を怠っています。ロンドンのセント・ポール大聖堂の外で抗議者がテントを張っていたとき、多くの旗が「イエスなら、どうしているだろうか」という疑問を突きつけていました。キリストが今日、世界中の自由と正義のための大衆デモと共に動く「聖なる活動家」として現れたなら、教会はどう反応するのでしょうか。残念ながら、「活動家」として世界のために正しいことをしようと試みるごく数少ない人々に私たちがレッテルを貼るとき、活動家はどこか変わっていて、一般市民とは一線を画していると私たちは推測します。メディア及び広告業界は、私たちがそのようなレッテルを取り入れることを助長することにより、私たちに自分たちの社会的なアイデンティティを分裂させ、地球を悩ませている苦しみや広漠とした不平等との繋がりを感じられなくします。「常に飢餓は存在してきたし、これからも常にそうだろう」:と私たちに言わしめるのは私たちの意識内にあるその同じ分裂です。あるいはそれは、環境保護論者の警告に対してうなずきながらも「しかし、世界を変えることができると信じるのは世間知らずだ」と私たちに言わしめます。この意味で、活動家という言葉は実のところ「誰も耳を傾けない人」を意味するのです。

正義に対する理解もまた、認識を必要とします。つまり、ものごとを明瞭に見ること、自分で考えること、信条に対して信条を持たないことを意味します。古い秩序が崩壊し、政府が何をすべきかわかっていない今、私たちはもはや政治家だけを責めることはできません。私たちは、「それは政府のせいだ」と言うのを好みますが、世界の状況の原因として、私たち自身の行動の欠如と自己満足的な無頓着さについて私たちが責められるべきではないのでしょうか?中東で見てきたように、200万人が街頭に立って平和的にこぶしを振り上げるとき、政府は耳を傾けるか、辞任するかしか選択の余地は他にないのです。

*

これが、経済学者や政治家にとって何を意味するのか、最も簡単な言葉で理解を試みてみましょう。私たちの経済、社会、政治システムが完全に再構築される必要があることは明白であることから、政府の正しい責任は、誰一人として餓死することがないように、これらのシステムを特別に設計し直すことです。第一に、これは前例のない再分配の緊急プログラムのための国際協力を必要とします。そのようなプログラムは、正義とはまったく関係のない慈善活動に基づくことはできません。チャリティは、何十億もの人々が貧困に苦しんでいる今日のような世界では当然のことで重要ですが、その必要性は国民の自己満足的な無頓着さの悲しい象徴です。緊急プログラムは「飢えた人々を養うために最善を尽くそう」という既存の前提に基づくべきではなく、「これは二度と起こるべきではない」という理解の下に開始されなければなりません。

世界人権宣言第25条の中で人権として長い間謳われて来た通り、世界中のすべての人に食料、衣服、住居、ケアを与えることができる十分な資源があるのです。[4] 厳密な意味での正義の表現であるこの条項は、すべての国で法律化されなければなりません。ある国が欧州共同体に加盟する際に従うべき法律があるのと同様に、国連の人権条項は、加盟国に対して、どの国であっても、人が餓死するのを集合的に防ぐことを法的に義務付け、そして第25条が世界中の世論の力に裏打ちされた法の支配に変換されるべきででしょう。人々の声は国連で耳を傾けられ代表されるべきであり – それが、国連が存在する目的であり、それは人々のハートとマインドを代表するようになるべきです。これには必然的に長い時間がかかり、各国はそれぞれの伝統の中で成長し続けるべきですが、第1ステップとして、啓発された政治家と一般市民は、国連総会の支援の下での緊急再分配プログラムの開始を要求する必要があります。これは国連がこれまでに行った中で最も重要な取り組みになるはずです。

そのようなプログラムの戦略の細部に至っては、政府にとって交渉及び計画するには計り知れない挑戦となるでしょうが、それが大掛かりな任務であることは否定できない事実です。最近のトルコの地震やタイの洪水のように、人道緊急事態において相変わらずの事が何度も繰り返されています:十分な資源、十分な支援、十分な援助がありません。最大の軍隊を擁する最も裕福な国でさえ、ニューオーリンズの人々はハリケーン・カトリーナ後の状況下ですべてを自力で対処するよう放っておかれ、「ブッシュ大統領はどこにいるのか?」と世界に向かって叫んでいました。私たちが自分たちの利益を守りたいとき、あるいは戦争をしたいときはすべてが非常に速やかに進行します – 世界にはすべての装備、すべての武器、すべての人的資源、そしてすべての資金があります。しかし、貧困者の苦しみのこととなると、突然お金がなくなるのです。これは覆されねばならない傾向です。ですから、貧困、紛争、自然災害など、その原因が何であれ、人間の剥奪の防止は国際機関によって保証されなければなりません。それはすべての国からの寄付によって資金提供された世界的な緊急サービスのようなものだと考えてください。これをチャリティと同じような意味合いを持った「人道的」活動と見なすべきではありません。むしろ、これらのプログラムは私たちの改革されたグローバルガバナンス機関に恒久的に構造化され国際法に謳われるべきです。

このどれもが、比類のない公衆の支持の蜂起なしには起こらないでしょう。世界の問題の解決策は政党やイデオロギーによってもたらされることはなく、世界の人々の自由で団結したただひとつの声によってのみもたらされることが可能です。イデオロギーと信条の体系は、これから先の変革の中でこれ以上の役割を持ちません。事実、健全な革命は、人間の自由意志を執拗に悩ませあらゆる人種や文化の人々の間の愛の表示を妨げる、すべての「主義」やイデオロギーから解放されたいと思うことから始まります。信条とイデオロギーから自由になるということは、私たちのマインドに自己を知るための空間を自然にもたらし、そして代わりにそれは、私たちに自己を他者と同一視する能力、エネルギー、愛を与えてくれるでしょう。

しかし、資本主義へ反対するなど、どのような信条やイデオロギーに対しても、「アンチ・反」になることは無駄です。資本主義を正しく位置付けて、世界の資源を最も必要とされる場所に再分配するときが来ました。資本主義はとても自然にやって来ました。「これはあなたのもので、これは私のものです」と言うのは自然なことですが、「私たちが持っているものを分かち合いましょう」と言わなければならないときが来ています。分かち合いとは「共にある」ことを意味します。なぜなら、私たちが共にあるのだということと、お互いに助け合うために存在するのだという暗黙の了解なくして私たちは他人と分かち合うことはできないからです。この意味で、分かち合いの原理には、分裂するのではなく結束するという本質的傾向があります。

分かち合いの美は、それが政党や「主義」に属しているのではなく、世界の人々に属しているということです。それは、社会党や共産主義者、または他の誰のものでもありません。それは、お互いの間の本当に途方もない対立の原因となって来たイデオロギーと信条の痛ましい歴史からの解放をもたらすための仲介者です。分かち合いの原理が私たちの生存の基本でありながらも社会のあらゆるレベルにおいて悲劇的にも無視されていることを理解するとき、私たちは分かち合いが正義と平和への最も確かなガイドであることを認識するでしょう。その結果、私たち各人が、人類の大使としての自己を知るでしょう。なぜなら、すべての国を越えたところにひとつとなった世界の人々があるからです。

これはニューヨークや他のすべての都市で抗議している人々にとって何を意味するのでしょうか。これらの抗議者たちは、私たちが富を再分配する必要があること、特に軍需産業などの誤った手にお金が渡るのを防ぐ必要があることをよく知っています。どう考えても、戦争は止めねばなりません。誰ももはや戦争を望んでいません – むしろ、溶けて崩壊し続けている世界経済を抱えて、もはや戦争をする余裕のある国はありません。抗議者たちはまた、十二分に行き渡るだけのお金があるにもかかわらず、有力な一族や企業によってそれが溜め込まれているだけでなく、政府が浪費していることも良く認識しています。したがって、各国は富と資源を国民の間でより公平に再分配する必要があります。

しかし私たちはまた、最初は緊急時に、基本的な生活必需品を持たないすべての人々に、そして最終的に、もはや競争や物質的利益に基づかない新しい国際経済協定を通じて、資源を世界的に再分配する必要があります。これらの長期的な変革には、ビジョンのある思考と新しい種類のエコノミストが必要であり、グローバルガバナンス・システムを再構築するには何年も要するかもしれません。世界資源を分かち合うことにより、法律が大幅に変革され;すべてが簡略化されねばならないでしょう。正統派経済学者や権力的な政治家のアドバイスに耳を傾けるのに時間を無駄にすべきでないのはこのためです。彼らの理論は時代遅れで、来るべき時代には関係しません。分かち合いの原理が政府の政策に影響を及ぼし始めるとき、現在の経済システムは自然に変革するか、消え去ってしまうでしょう。一方はその複雑さにおいて分裂的であり、もう一方はその簡潔さにおいて結束的であるため、共存することはできないのです。

これから起こる変化の影響から逃れられる人はいません。ですから、システムに逆らって取り組むのではなく、一緒にシステムを変革しましょう。これには、私たちが本当にシステムを変えることができるということ、そしてより良い世界が可能であるという自信ある態度が必要です。そして、そのためには認識と一体感、そしてさらに多くの忍耐力 – 特に、粘り強さが必要です。私たちが見て来たように、政府は本能的に人々の蜂起を嫌います。それは即時に彼らの権力を危険にさらすため、最も平和的な形の抗議デモさえも阻止しようと警察を使った手段を講じます。ですから、私たちは続けなければなりません。さもなければ、変革は不可能なのです。

私たちはすでに強力な勢力となっており、 私たち自身を構造化し、ひとつの声として組織化しています。世界中のすべてのデモンストレーションは独自の創造的な方法で、以前と同じ生き方を続けることへの拒否を表現すべきです。しかし、私たちは最初に最も脆弱な人々の世話をしなければ世界を変えることはできません。つまり、すべての場所で、政府に飢餓の即時終結を要求しなければなりません。真の社会革命は、その中心に道徳性がなければなりません。そのため、すべての国で、生命を脅かす剥奪を終わらせることが私たちの最優先事項にならなければなりません。誰もがより大きな経済的分かち合いを求めて声を上げること、政府がこの統一的原理を世界情勢に実現するまで、私たちの要求の限界を押し上げ続けることが鍵です。これまでが常にそうであったように、今が、そのときなのです。

 


注釈

[1] この記事が2011年後半に書かれた当初は、1日1.25米ドル未満の生活で苦闘する14億人の統計は正しかった。世界銀行によると、7億3400万人または世界人口の10パーセントが現在1日1.90ドルに改定された貧困ライン以下で生活している。しかし、これらの数字は、特に「健康及び福祉に十分な生活水準」(世界人権宣言第25条1)の権利を満たすために必要な経済的収入を反映していないことなど、多くの点で長い間批判されている。たとえば、南アジアとサブサハラ・アフリカの人口の約90%を含めた、人類の40%以上が1日5.50ドル未満で生活している。基本的なユーティリティ、ヘルスケア、教育、保証へのアクセスなど、剥奪の他の側面が含まれる貧困の多面的な見方は、より憂慮すべき真実を明らかにしている:開発途上国の大多数の人々はいまだ、健康で尊厳のある生活をするための十分な手段を持たない。これらの問題の詳細については以下を参照:www.shering.org

[2] これは、米国とそのNATO同盟国が主導する2011年のリビアでの軍事介入を指し、表面上はリビア内戦中の出来事に対応して民間人を保護するためのものであった。この作戦は、リビアの権力の座から退陣させられた指導者ムアンマル·アル·カダフィ大佐が捕らえられ死亡した後、2011年10月下旬に終了した。

[3] 2011年、深刻な干ばつが東アフリカに影響を及ぼし、地域全体で食料危機を引き起こした。最大の緊急事態は、当時イスラム過激派グループのアル·シャバブの支配下にあったソマリア南部であった。多くの国際援助組織と国連機関は排撃されたが、その中でも残ったものはしばしば違法な賄賂を支払い、スタッフへの攻撃に耐え、戦士への食料供給の流用を受け入れることを余儀なくされた。ソマリアの人口の半分は危機の最中に飢餓に直面し、最終的には25万人以上が生命を失った。

[4] 世界人権宣言第25条(総会決議217 A):(1)すべての人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創設者である。 

編集協力: アダム・パーソンズ。

Image credit: geralt, pixabay

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