第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略

Mohammed Sofiane Mesbahi

長年の政治的怠慢の後、すべての国での止むことのない壮大な抗議デモを通じて、一般の人々の結集した善意だけが、豊かな世界の中の貧困を終わらせることができるのです。したがって、すべての人の十分な食料、住居、医療、社会的保障のために、抵抗最小限の道を選び、長期に渡って合意されてきた世界人権宣言第25条の人権を共に布告しましょう。これが、資源を再分配し、世界経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな道であると、モハメッド・ソフィアン・メスバヒは書いています。


「対立ではなく、真の私たちの姿を特徴づける
善意と慈悲に基づいて、
何千万人という数でデモンストレーションを
するべきときがきました。
各人そしてすべての人のハートには、
全人類の愛と知恵が
埋め込まれているからです」

* * *

パート1:政府の失敗
パート2:論理的根拠についての手短な記述
パート3:環境の問題
パート4:ハートを従事させる
パート5:新たな地球のための教育
注釈


パート1:政府の失敗

すべての人は、衣食住、医療及び必要な
社会的施設等により、自己及び家族の
健康及び福祉に十分な生活水準を保持する
権利並びに失業、疾病、心身障害、
配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による
生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。

母と子とは、特別の保護及び援助を受ける
権利を有する。すべての児童は、
嫡出であると否とを問わず、
同じ社会的保護を受ける。

世界人権宣言 25

 

今日の人類の最大の希望の1つは、世界中のすべての男女子供のために世界人権宣言第25条を実現することにあります。このシリーズ本の中で繰り返し主張されてきたように、[1] 第25条がすべての国で法の支配によって守られていることが不可欠でありながらも、それは現状からかけ離れています。特に若者は、抗議のスローガン、目標、ビジョンとして第25条を取り入れることが奨励されます。なぜなら、これらのささやかな規定が、私たちの困難な問題の多くを解決するための鍵を握っているからです。今こそ、すべての人の十分な食料、住居、医療、社会保障のために、長期に渡って合意されてきた第25条の権利を支持する止むことのない世界規模のデモンストレーションを行うときです。唯一、そうすることによってのみ、政府は歪んだ優先順位を並べ替え、最終的に分かち合いの原理を世界情勢に融合するよう駆り立てられるかもしれません。 

私たちの高度に複雑で合理的な社会では、このように単純な手引きは止むことのない反問や反論に遭遇しがちです。したがって、正しい人間関係に基づいた、公正で持続可能な平和的世界への道を照らしだすために、第25条の可能性をさまざまな角度から検討する必要があります。人類の問題の解決策が非常に単純でありながら、問題自体が非常に根深く複雑であるなら、私たちは明らかにこれらの問題を異なる種類のエネルギーと認識を持って新たに見直さなければなりません。人間のマインドは、過去の間違った教育方法によりひどく条件づけられ、誤り導かれてきたため、簡潔な真実を理解することは、私たちが内面的に自由で無執着であること、あるいは少なくとも、良識と生来の聡明さを抑圧し続けている「主義」やイデオロギーから自由であることを必要とします。

このように新しい注目の態度を持って、世界中の政府の第一義として、第25条に定められた普遍的人権を完全に実現することの意味合いを探求してみましょう。社会、経済、政治だけでなく、人類の成長と霊的進化の観点から、貧困を終わらせ、全人口の十分な生活水準を保証することの効果は何でしょうか。第25条の実現が、環境劣化やグローバル紛争を含む、相互連結する世界のすべての危機の解決をどのようにもたらすのでしょうか。そして、政府が人間の必要性に見合った規模で行動するまで、これらの基本的な権利を支持するために、なぜ何百万人という人々が集結し、非暴力的な抗議デモをくる日もくる日も行うべきなのでしょうか。要するに、地球を救うためのすべての答えがこの一連の最も基本的な要求から急速に生じるであろうことを知りながら、世界変革のための普遍的な戦略として第25条を提唱することによって、なぜ私たちは戦術を変えるべきなのでしょうか。

これらの重要な疑問を検討する前に、私たちはまず、政府がすべての国で社会的および経済的権利の完全な実現を保障できず、文字通り何億もの人々を必需品への十分なアクセスがないまま放置していることを初めに認めざるを得ません。世界の利用可能な莫大な富と余剰資源を考慮すると、政府がすべての人に十分な生活水準へのアクセスを保障できることは間違いありません。スカンジナビアや他の高所得国のさまざまな福祉国家で最もよく例示されているように、第25条に要約された人権は、20世紀の間に多くの富裕国ですでにかなりの程度で実現されてきたことも事実です。多くの最先進諸国で以前からの社会的保護制度が取り除かれたり、徐々に解体されたりしているにせよ、同時に、貧困国の人口の大多数派にとってそのような権利が存在したことはほとんどありませんでした。

広範な文献がこの状況の複雑な理由を調べていますが、直接の原因は簡単に要約することができます。ほとんどの国には大統領または首相がいますが、彼らの任務はすべての人の基本的ニーズを満たすことはでなく、むしろ大企業とのより多くの契約に署名したり、経済成長を最優先することだからです。「人類家族全員の平等で不可侵の権利」を支持するために他の政党と協力し合う代わりに、あらゆる犠牲を払ってでも権力にしがみつくかたわら、グローバル化された貿易と金融の商業機会に何よりも関心を持つ「政治的会計士」として、これらの指導者を見なすことができます。

したがって、世界の問題を可能な限り広範かつ率直に検討するために、第25条の最大の障害の1つは、政府の過失と、容赦なく利益を重視する事業活動の有害な慣行であることを私たちは認識するかもしれません。数え切れないほどの市民社会の報告書や本が、極度に貧しい、または恵まれない市民の人権への多国籍企業の無関心を列挙しており、これらの世界的なマニーメイキングの存在が「合法的な窃盗と破壊」と呼ばれるべき専門技能をどのように発達させたかを説明しています。これは、ある国の人々が所有する土地やその他の不可欠な資源を着服すること、労働者から搾取して生活賃金を剥奪すること、あるいは単に公的財源への税金の義務を回避することを伴うかもしれません。そして、巨大企業が多くの政府よりも強力であるこのような世界では、何千ものビジネス契約が危機にさらされるのなら、私たちの政治的代表者には道義に基づいた「宣言」のための時間などないのです。

確かに、今日の世界のリーダーの真のアドバイザーは、率直な指針を持った第25条ではなく、むしろどの国であろうとすべての政府の政策をますます決定するようになった商業化勢力です。[2] たとえ政府や政治家がすべての人の利益のために仕えようとしても、いずれは企業のロビー団体や金融勢力が彼らを反対の方向に押しやるまでに時間はかかりません。そして、善意の政治家が世界を変革しようとする過程において、おそらく世界が彼を変革するであろうことはほぼ間違いないのです – 利益、特権、競争心の激しい私欲の古いやり方に基づいた有害なシステムの完全なるパワーによって。

政府の歪んだ優先順位は、外交政策が基本的に第25条の権利でなく、覇権的目標や経済的優位性の猛烈な追求によって推進される国際レベルで最も顕著です。国家間の貿易は、主要な先進国の分裂的な地政学的戦略に反映されるように、より強い国がより弱い国を支配しようとする衝動に基づいています。世界中の何百万というすべての利益率の高いビジネス契約を追うことができたなら、国際情勢を定義し続けるすべての主要な緊張と対立の原因を理解できるでしょう。一国がアフリカからの分け前の一部を欲しがり;もう一国が南アメリカからの見返りの一部を欲しがり;また別の一国がアジアや中東のエネルギー資産の権利のために競争するなど – 常に、競い合う政府の間に不信の種を蒔き、グローバル戦争を扇動しています。詰まるところそれは、憲法や国際法に定められているように高潔な価値感を強力な国々が公言し、実際にすべての人の利益のために与え、援助し、仕える代わりに、他国から搾取し、奪い取り続ける傲慢な二枚舌外交政策です。

国連の発足以来、第25条の未実現と、特にアメリカの外交政策との間には明確な関連性があります。なぜなら、その従順な同盟国と追従国によって常に支持され、世界中で非常に多くの戦争と非常に多くの破壊をもたらしたのは、アメリカの横暴で利己的な野望だからです。ペンタゴン、C.I.A.、その他の米国諜報機関のグローバル計略や策動は、事実上、多くの貧困国や紛争に苦しむ国々に対する第25条の間接的な否定の事例です。世界政治は、大国による偶発的な貧困の創出に関する果てしない研究分野であり、「国益」や「国家安全保障」などの一応に正当な名目の下に隠されていることがしばしばあります。公式文書や政策上のレトリックで何が巧妙に述べられようと – 「外交政策」という言葉さえが過度の富の不平等の世界では分離と不正義を示唆しており、正しい人間関係の対極を象徴しています。自己利益の原理が臆面もなく支配する不平等な世界では、異なった国の人々と彼らの選出された政府の間に、正しい関係に基づいた外交政策が1つとして存在しないのです。

したがって、国内外で政治家が権力を維持できる唯一の方法が、大企業や有力な個人の利害関係者を優先することであるとき、貧困の撲滅と第25条の人権の確保に関心を持っていると公言する彼らを信じるなら、浅はかというものです。多くの場合、非常に貧しい人々やコミュニティに壊滅的結果をもたらす、多国籍企業による土地の着服、天然資源の搾取、不可欠な公共サービスの民営化のための契約に政府が署名し続ける一方で、その同じ国家のリーダーたちが不必要な人間の剥奪の存在を公然と根絶するために国際会議を招集するなら、実際、それは偽善行為です。2030年までにいわゆる「極度の」貧困を完全に根絶することはまともな道徳的熱望かもしれませんが、世界の指導者が極貧者の生活を向上させるというような無駄な約束をしたのはこれが初めてではないのです。[3] 官僚や政策立案者の最善の意図にもかかわらず、適切に言うなら、「商業化パラダイム」の状況下でそのような熱望を達成することはさらに不可能であり続けるでしょう。

人類がどれだけの間永続的な義務を無視してきたかに関係なく、貧困を根絶し、この地球にバランスをもたらす唯一の道は、世界の産物を分かち合うために世界経済を協力的に組織し、富を適切な場所へ再分配するということです。急成長する人口の中で持続する圧倒的規模の深刻な貧困を考慮すると、困窮している最も恵まれない国々へのこのような大規模な資源の再分配なくして、世界の善意の真の表現はあり得ません。

毎年決定的に重要な一年が過ぎるごとに、私たちが再び世界的な金融危機に遭遇するかしないかにかかわらず、予防可能な貧困関連の原因でさらに何百万人の人々が死ぬことになるのでしょうか。そして、一体どうしたら世界の最も裕福な政府は、余剰食糧やその他の物資を、緊急援助と食物を切実に必要としている何百万もの貧困者と分かち合ってくれるのでしょうか。そのようなことを達成するには、資金不足の人道支援機関への相当な追加資金の振り向け、さらには「他の」目的のためには常時待機する軍人や装備の行使さえを必然的に伴うでしょう。それは、確実に、政府、企業、富裕者、民間機関のためには何時でも自由になるお金と資源のほんの一部で達成することができるでしょう。

しかし、分かち合いのコモンセンスが経済的関係を統制するまでは、十分に養うことのできない大勢の子供と広大なスラム街に住んでいる誰もに、神のご加護がありますように。そして、そのような家族が完全な貧困に陥るのを防ぐという政府の誓いや開発目標を当てにしてはなりません。したがって、第25条は、世界の貧困撲滅に関する国際会議で政治家が脇手に見いだすだろう大きなトゲなのです。支配的な商業化パラダイムを彼らが追い続ける限り、10年または15年ごとに同じような会議が増えることが予測できます – その間、人類が生き残ることができればの話ですが。

さらに、チャリティの考え方が私たちの社会や文化に浸透することを許すなら、政府が飢餓と貧困の根本的な原因にいずれ取り組むだろうと信じるのは愚かなことです。この豊かな惑星で、私たちの中で最も恵まれない人々を生存するだけのために苦闘させたまま放置する一方で、国家が自国民の慈悲心を巧みに操作した結果でないなら、実際チャリティとは何でしょうか。すべての人に基本的な健康と福利を保証する手段を容易に与えることのできる物質的および経済的に豊かな世界でのチャリティの存在そのものが、尊厳を欠いています。議論の余地はあるにしても、貧困者の経済不安への政府の歴史的な無関心が、何世紀にもわたってチャリティの存在を生じさせてきました。この意味で、チャリティは真の分かち合い、結束、愛ではなく、社会的不正義からもたらされたものなのです。

人類の科学技術の進歩のすべてにかかわらず、地球資源を分かち合うために実施されている唯一のシステムは、「海外開発援助」の自発的な寄付です。しかし、市民社会の運動家によって長い間認識されてきたように、そのような援助は常に自己本位な政治的および商業的目的を通じてかなりの程度まで価値を下げられてきました。そもそもこれらの余剰食料やその他の資源は豊かな国によって蓄積されるのでなく、常に正しく分かち合われているべきであったことから、「人道援助」の継続的な存在が国々という家族としての私たちの共通性にとってどのように侮辱であるかをも観察できます。惑星的視点から、火星または金星からの人々が私たち地球人を助けてくれていたとしたら、人道援助について話すことは理にかなっているかもしれません;しかし、人類は、すべての人のニーズが無条件に(そして恒久的に)満たされることを保証するための生産物と能力を常に授けられてきた1つの相互依存する家族です。もし私たち自身の子供が餓死しかけていて、私たちが毎日何気なく楽しんでいるわずかな食料を彼らと分かち合ったとしたら、私たちはその行動を人道援助と呼んでいるでしょうか。それとも、自分たちが慈善行為をしているととは思わずに、彼らの生命と幸福だけを気遣う謙虚な愛の行為として、制限なく、緊急に彼らを助けているでしょうか。

この問いを認識と慈悲を通して考察することは、「人道援助」という言葉自体がどのように心理的に無意味で馬鹿げているかをあらわにし、それは、どのように人類が分裂し、頽廃したかについて知るべきすべてを物語っているのです。海外の極貧者へ輸送される必需品などの積荷に対して「米国の外国援助」などの表現を使うことは、どれだけ傲慢で下劣なことでしょう。発展途上国の労働力と天然資源をいつも決まって搾取する不当な経済慣行を通じて、富裕国がまず余剰の生産物を溜め込み、彼ら自身が引き起こした貧困を、また彼ら自身が緩和することを促進するために、これらの不正利益のほんの少しを再分配することに注目してください。したがって、援助の主流の概念が、善意と謙虚さの真の意味にどう反しているか理解できるでしょうか – 特に、すべての人々の利益のために生活必需品へのアクセスを可能にすべきであることが(実に、第25条に明記されているように)、政府間で長期に渡って合意されてきたにもかかわらず。チャリティという言葉のように、私たちの社会が最初から良識と正しい人間関係に基づいていたなら、そのようなフレーズは決して生まれていなかったでしょう。なぜなら、愛の心理的認識の中には「人道援助」のようなものは存在しないからです。

政治家にすべてやってもらうことを期待し、このような問題を彼らに丸投げしたままでいることが習慣となっている私たちが、その重要性を深く考えずにこの援助という言葉を受け入れているのはもっともかもしれません。しかし、極貧者と最貧国を搾取し続けながら貧困を終わらせることに関心を持っていると公言する政府の二枚舌を理解できるなら、私たちが立ち上がって彼らに問うときが来たのかもしれません:欠けている部分はどこにあるのか。豊かな世界において人を餓死させる中で、愛、思いやり、良識はどこにあるのか。おそらく、私たちは皆で、貧困の根絶についての政府サミットや秘密会議に押し入り、政治的代表者たちに一同に要求すべきしょう:「貧しい人々を助けることに本当に関心があるなら、拘束力のない開発目標を定めたり、単に不充分な外国援助を再分配したりする代わりに、なぜすべての国でより平等に世界資源を分かち合わないのか?」

そして、私たちが、飢餓の不正義が二度と起こらないようそれを根絶することに真に関心があるなら、同じことを自問すべきです:欠けている部分はどこにあるのか?永続する貧窮状態の中で生活する人々の基本的権利を擁護することへの思いやり、慈悲、懸念はどこにあるのか。私たちに代わって貧しい国々にもっと援助を送るよう政治家に圧力をかけることが充分なのか、それとも同胞である貧しい人々への私たちの愛が、私たちに政府の面前に出てこう言うことを余儀なくさせるのでしょうか:「この恥ずべき状況が存続できるわけがない – 最大の緊急性を持って、私たちの飢えた兄弟姉妹を救うときです!」どのような教育と条件づけがこのような事態を私たちに受け入れさせ、そして何が、私たちが世界の政府に問いただすことを止めているのでしょうか:欠けている部分はどこにあるのか

チャリティや外国援助に対する私たちの根深い、堕落的な態度の結果として、社会問題の改善と貧困者の支援に真剣に取り組んでいるチャリティ自体が、政治的になることを余儀なくされています。彼らもまた、貧困の原因をさらに永続させている政府の政策や企業の活動に反対せねばなりません。さもなければ、善意のある団体や市民によってチャリティに投じられるエネルギーが多ければ多いほど、より多くの政府が、世界的な緊急事態として飢餓者に食料を与える代わりに、戦争のためにより多くの兵器を生産するなど、有害な優先項目を追求し続けることができるのです。

私たちは、酷く不平等な社会秩序の中で、ありがたいことに大部分が善をもたらす勢力である慈善団体の尊ぶべき活動を批判しているのではないことを明確にしておきましょう。むしろ、私たちは、万人が利用できる十分な資源がある世界で – 真の分かち合いや正義とは対照的にチャリティの手段を通じて – いつの日か貧困を根絶することを誓う政府の不条理を包括的に観察しようとしているのです。私たちはいつの日か歴史を振り返り、21世紀のチャリティの実体を理解するだろうことを願います:つまり、政治的無関心と公衆の自己満足的な無頓着さの必然的でかつ究極的に不必要な副産物であるということを。

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混乱し、精神的に破綻した政治家を伴う機能不全社会において、繁栄、経済成長、第25条の意味の間に存在する関係について熟考することは有益です。生活様式が比較的裕福で恵まれた少数派の国々の中で、人口の大部分が忍び難い貧困で生活する多くの国がある世界で、繁栄するとはどういうことでしょうか。

人々が非常に「繁栄」している町を想像してください。そこでは巨大な倉庫で余剰食糧が腐り果て、ゴミ捨て場には高価な廃棄物が散らばっています。それにもかかわらず、隣町は非常に貧しく、第25条に規定されているような、予防可能な苦しみから解放された生活の権利を全員に保証するための十分な資源さえありません。地平線に潜む貧窮と悲惨さにもかかわらず、その裕福な町の市長が彼らの高レベルな経済成長と繁栄を誇らしげに称賛することは理にかなっているのでしょうか。市長が町の資源を隣町と分かち合うことを決断しないなら、遅かれ早かれ隣町は何らかの形で彼らのところへやってくるでしょう – 貧困にあえぐ町の野良猫や犬さえが、どのような手段を講じてでも裕福な町にかじりつこうとするでしょう。これは、世界の大多数派である貧困層が経験している剥奪に比較的無関心な富裕国が生活する北半球と、南半球の間で、国々が互いをどのように関係づけているかということからそんなに違っているのでしょうか。

ですから、テレビで政治家によって頻繁に繰り返される「繁栄」や「経済成長」などの欺瞞的で低俗な醜い言葉に対して心理的に気をつけましょう。人口増加と貧困のレベルが急速に上昇し、環境が絶えず荒廃させられ、略奪され、気候変動がすでに何百万もの貧しい家族にとって大混乱と破壊の原因となっているこの不幸な世界で、繁栄が危険と無秩序以外のものをどのようにもたらし得るのでしょうか。極端な世界的不平等の今日の現実の中で、どのようにこれらの言葉が醜く低俗で馬鹿げたもの以外であり得るのでしょうか。そして、不必要な貧困から何百万もの人々が死んでいくことを許し、さらに何百万もの人々に対して十分な栄養価の高い食べ物、きれいな水、適切な住居、さらには彼らを生かし健康に保つ最も基本的な形の医療を拒む世界で、これらの言葉がどのように道徳的意味を成し得るのでしょうか?

政治的指導者たちは国民の成功と繁栄を望んでいるのだと公言するかもしれませんが、世界が致命的なウイルスに感染しているときに、1国だけでどのように繁栄が達成され得るのでしょうか – それは、Covid-19と呼ばれるウイルスでなく、商業化勢力です。確かに、後者が社会におけるはるかに悪い疫病であり、不平等の決定要因です。それは他人を犠牲にしてまで成功するようあなたを条件づけるだけでなく、あなたも人類の集団的傲慢と無関心の一部となるまで、恵まれない人々に対して優越感をもつように影響を及ぼします。私たちが「システム」と呼ぶものは、今や富と成功の利己的な追求によって非常に深く特徴づけられているため、新しい思考の波を生み出してさえいます。それは自国の貧しい人々やさらには海外の恵まれない人々への憎しみとして、露骨に要約することができます。

したがって、商業化勢力によってほぼ完全に影を落とされ、混乱し、断片化した社会での終わりなき経済成長の追求は危険です。この状況でのそのような成長は、さらなる分裂、無秩序、哀しみ、そして最終的には暴力につながるだけです。現代のすべての欺瞞的なプロパガンダとマインドの条件づけの下で、経済成長の近視眼的な追求は、国民と国家の間の拡大する分断を意味し、「貧困者の真っ只中で富裕者をさらに裕福にし、より多くの億万長者をつくりだそう」ということを本当は意味するのです。このような状況での経済成長は、大企業ための私営の会計事務に等しく、その心理的意味は、豊かな世界におけるチャリティの概念と同じくらい馬鹿げたものとなってしまいました。

したがって、健全で公正な、または持続可能な経済の成長ではなく、「商業化の成長」を暗示するこの表現を使い続けることは政治家にとって深刻な誤りです。ますます不公平で分裂している社会において、それは何のための経済成長でしょうか?多くの国が今日ほどのレベルの債務を抱えていなかった近い過去においてさえ、貧困国だけでなく富裕国にも依然として広範な貧困と飢餓があったのです。ですから、私たちは政治的代表者に尋ねるべきです:どのような目的のための、誰の利益のための経済成長なのか?計り知れない苦しみと大混乱を引き起こし、今や内部から急速に溶け崩れつつあるシステムのためなのでしょうか?

商業化勢力に議題を乗っ取られることを許している間は、経済成長について意味のある話をできる政治家はいません。最も包括的で立派な意図を持った国家元首であっても、彼の近視眼的目的が「より多くの雇用を創出する」ことであるかどうかにかかわらず、現在のシステムのさらなる成長を促進することによって、危険と最終的な惨事を引き起こすでしょう。ここで再び、私たちは政治的代表者たちに尋ねるべきです:どのような目的のための、そして誰の利益のための雇用なのか?霊的、道徳的、経済的に打ちひしがれた人々の真っ只中に巨大なカジノ、私営のショッピングモール、高級マンション、そしてより多くの兵器工場を建設するためでしょうか?そして、使い捨て労働者に法律に基づいて最低賃金を支払う億万長者の利益のためでしょうか?

世界全体のニーズを網羅するために自国だけの懸念を越えたところに自分たちの焦点が拡大するべきですが、 分かち合いの原理に基づいた新しい経済的取り決めを通じてのみ、私たちは経済成長とまともな雇用創出についてなんら意味のある話ができるのです。それは、生存に必要な十分な食糧とその他の不可欠な資源を剥奪されている人々から取り掛かり始め、最貧困者の緊急なニーズを即刻確保する方向へ政府が優先事項を向け直すことと共にすべての国の間での資源のより公平な再分配を保証できる、改革されたグローバル統治システムを管理するよう政治的指導者を即時に義務づけるでしょう。

どの国の政府であろうと、すべての国民のニーズを満たすことに真に関心があるなら、(国家のバイブルとして第25条を通じて話すと仮定して)おそらく彼らは経済成長について賢明に話すことができるでしょう。しかし、そのような知恵が優勢となるには、富、資源、経済的機会が人口の間で公平に分かち合われることを保証するために、政府は即時に経済を再構築せねばならないでしょう。そして、資源の公正な分配を確保するための前提条件は、社会のあらゆる側面から商業化の爪を取り除き、公共支出を兵器やその他の有害な企業補助金から遠ざけることです。同時に、経済活動の指針となる原理が、住むのに適した地球での尊厳ある生活に必要なものをすべての人に保証することであるなら、各社会はもはや目立った浪費によって環境を劣化させ続けることはできません。なぜなら、明らかに、耐久性のすべての限界を超えて負担をかけられることのない、健康で自己再生する生物圏内でのみ、経済は維持できるからです。

しかし、より啓発された国家が第25条を法に定め、自国民の間で持続可能で公平かつバランスのとれた資源の分配に取り組んだとしても、他国の問題から切り離されたままでいようとする限り、彼らの満足と繁栄は短命に終わるでしょう。近隣同士の繁栄する町と貧しい町のたとえを思い出すと、遠方から国境を超えて入ってこようとする貧困者によって、国内で資源を正しく分かち合う国が悩まされるまで、そんなに時間はかからないでしょう。そして、懲罰的な移民規制と国家安全保障機構があるかどうかにかかわらず、問題は断続し、悪化するでしょう。

貪欲、利己主義、窃盗が金融・経済活動の原動力となっている、分断されながらも経済的に融合された世界において、健全な社会などというものはあり得ません。一国のみが第25条を最大限に実施し、それを実施する手段を備えた他のすべての国が抑制されない商業化の道を追求すると仮定したら、それは、 集合的に富を貯蓄し分かち合う国を除いたすべての国に問題があるという意味ではありません。それは、人類全体に何か問題があることを意味します。なぜなら、人類はその本質において一つであり、あるいは私たちが「生命」または「神」と呼ぶものの目から見ると一つであるからです。私たちは一つの霊的進化における一つの人類という家族です。これは厳密に、宗教的または「ニューエイジ」的な見解ではなく、多くの化学的研究分野で徐々に理解されつつある永遠の真実です。世界のすべての国は、グローバルな貿易、旅行、電気通信を通じて具体的または客観的な意味で相互連結しているだけでなく、鉱物王国から非物理的および最も高い霊王国に至るまで、私たちが惑星地球のすべての生命体と分かち合うワンライフの観点からもエネルギー的かつ主観的に相互連結しています。

直観的に理解することのできる、または不朽の知恵の教えの研究を通して認識できる、私たちの存在についてのこの啓示的な理解から、体の特定の部分が疎かにされることなく、人類が全体として大事にされなければならない肉体のようなものであることがわかります。[4]人体の片側がうまく機能しており、しかし反対側が疎かにされ病んでいるなら、病気は明らかに体全体の健康と幸福に影響を与えるでしょう。同様に、どんなに公正かつ健全に生きようとしても、一国たりとも他の国々から分離したままでいることはできないのです – 特に、商業化があまりの速さで激化し、社会と環境のどちらもこれ以上その重圧に耐えることができない世界では。

これが、この惑星の危機および過渡期の時代における政策立案のパラドックスなのです。すべての国で国民の利益になることが同時に比例して達成されねばならないこのとき、自国の利益になることを単独で行う贅沢をする余裕のある政治家はいません。したがって、単独で成せる国はあらずとも、協力と分かち合いの原理を通じて、すべての国が共に成し遂げることができるのです。世界問題からの脱出戦略は他にあらず、政府の準備の有無にかかわらず、それは緊急に達成されねばならないのです。この世界の190ヵ国以上のうち、第25条を最大限に実施しているのがわずか一カ国だけだということは、その国を「人類」と呼び、残りを無視しない限り、あり得ないのです。なぜなら、たった一つの人類は、不可分だからです。

魂の現れである独自のパーソナリティの中で人生の目的を遂行することが許されないなら – 世界資源を分かち合い、すべての男女の基本的権利を実現する理由が他にあるのでしょうか。これは、多くの生涯にわたる自己本位と無知と混乱の融合によって世界の善意や正しい人間関係についての私たちの理解がどれだけ堕落していようと、これまで常にそうであったし、そうあり続けるであろう人生のより深い現実なのです。人類が私たちの真の姿を反映し、私たちの真の霊的本質の中で結束するためには、活動家、従事する市民、および政治的代表者が、すべての国で第25条を包括的に保証するよう求めることが不可欠です。自国のためだけでなく、世界のすべての人々のためにも声を上げなければならないときが来ました。基本的ニーズがすでに満たされている恵まれた市民は、そうでない多くのグループに共感し繋がることにより、第25条と分かち合いの原理を私たちの共通目標として布告すべきでしょう。

北米、西ヨーロッパ、オーストラリア、その他の裕福な世界の地域のすべての人は、自問するために一時停止するべきです:私が当たり前に思っている基本的なリソースにアクセスできない他の人々はどうなっているのか? これらは、私たちの政治家が、海外だけでなく、国内の貧困の中で暮らす何百万もの人々についても使用すべき言葉です:他の人々はどうなのか?そのようにするなら、少なくとも私たちの国の余剰資源を分かち合い、私たちの政府が他の国々と協力して、貧困からの解放という永続的な目標を達成することを要求したいと思うでしょう。それは、「不法移民」の考えそのものが、「慈善寄付」、「人道援助」、「外交政策」、「国益」の現代の概念と併せて、世界の機能の仕方に関する私たちの理解に反するようになるまで、国が第25条と分かち合いの原理の同盟者となるときなのです。
 


パート2:論理的根拠についての手短な記述

愛さえが、それ自体の論理学を持っている。
そしてその論理学は、まさに第25条である。

* * *
 

これまでの追求では、すべての政府の間違った優先事項から、多国籍企業の完全な無関心、外交政策の目的の非人道性、正義を司るチャリティの根深い態度まで、すべての国で第25条の完全かつ永続的な実現を妨げる多くの複雑な要因を要約してきました。それでは、例外なくすべての男性、女性、子供たちの基本的なニーズを満たすことの最終的な結果を考えてみましょう。第25条を告げることが世界の救出と再建のための実行可能な戦略である多くの理由を理解するために、この問題について注意深く考察することが必要です。

すでに強調したように、万人の社会的経済的権利を保証するために必要な資金と資源は、すべての政府が国連とその関連機関を通じて機能し、予防可能な貧困関連の死の道徳的屈辱を緊急に止めるための努力を組み合わせていたなら、長い間、比較的短時間で利用可能だったのです。しかし、最も裕福な国の政策でさえ、国内の相対的貧困層のニーズを最小限に反映するだけであり、他国の最も排除され疎かにされている貧困者の利益に貢献することは遥かに少なく、過ぎゆく日々の中で回避可能な莫大な死者数がもたらされています。

世界の指導者たちが戦争のために僅か数週間で集結し、同盟国を募ることができるにもかかわらず、世界の飢餓者と貧困者を援助するのに十分な同盟国を募ることが決してできないというのは、何と驚くべきことでしょう。この堪え難い状況を緩和するための唯一の適切な国際的対応は、絶対的貧困を完全に根絶するための経済的分かち合いの緊急プログラムを提案した、1980年のブラント委員会報告で表明されました – しかし、これは歴史的資料の中に埋もれ、忘れさられてしまっているのですが。[5]

長年の政治的怠慢の後、すべての国での大規模で断続的な抗議デモを通じて、一般の人々の集結した善意だけが、そのようなビジョンを復活させることができるのです。おそらく、そうすれば、生命をさらに犠牲にしたり奪ったりするのではなく、むしろ大規模な生命救出のために必要な同盟国や軍事資源を招集する適切な政治家が指導的立場につくでしょう。私たちの中の最も恵まれない人々へのこのような前例のない慈悲心の噴出に続いて、おそらく選挙区民の人道的な要求に応えることなく、役職を続行できる政治的指導者はいないでしょう。おそらく、高価なネクタイとスーツ姿で影響力のある外交官を装い、一流の仕事を維持することにしか関心のない政治的会計士には、将来の役割はないでしょう。

私たちは世界中で起こっている貧困の不正義について考察しているのだということを忘れないでください。その大部分は主流メディアでほとんど報道されていません。生活必需品のない生活の結果、毎日少なくとも40,000人が亡くなっています。これは、十分な食料、きれいな水、適切な住居、医療、福祉の提供があれば簡単に防ぐことができます。[6]これらの悲惨にも疎かにされた人々を助けるために十分な規模で何も行われない一方、極度の貧困に対処するために繰り返される世界会議の光景をあとどれだけの間私たちは目撃したいのでしょうか。これらのハイレベル・サミットを組織するために費やされた何百万ドルというすべてのお金が、代わりに多くの失われた生命を救うことにすでに使われていることが可能だったことは真実ではないでしょうか。一方、第25条の人権を当然とする私たち特権的少数派は、世界の食料やその他の必需品を過剰に消費し、浪費し続けています。しかし、私たちは、政府が国の余剰資源を最も緊急に必要とするところへ再分配するよう要求しません。私たちのほんの僅かな配慮さえも値しないかのように断続している残虐行為に対して私たちの道義心を揺り起こすには、あといくつのブラント報告が必要なのでしょうか。

 

***

ここで、私たちの異議はさておき、人々の声によって第25条を実施するよう政府が真剣に余儀なくされることを想像し、そこから、この明確に達成可能な目標を達成することによる劇的な影響について考えてみましょう。当然のことながら、基本的な物資がより平等に分配され、不可欠な公共サービスにすべての人がアクセスできるように経済が構造化されない限り、すべての人が必需品を保証された尊厳のある生活はあり得ません。しかし、そのような常識的な理解は、法律や制度が私的利益と大企業の利益を生みだす可能性を支持する主流の政治的思考を支配するようになった市場勢力のイデオロギーと相いれません。

では、第25条がすべての政府と社会の存在意義となることを保証するなら、これらの確立された規則や構造にとってどのような結果がもたらされるでしょうか。その効果が社会的、経済的、政治的に変革をもたらすことは疑いの余地がありません。特に、商業化勢力について私たちが知っていることを考えるなら:その影響の下において第25条はほとんど無意味だからです。たとえば、世界で人々が餓死している一方で、企業がみだりに土地を剥奪し、食糧に投機し、余剰農産物を溜め込んだり破壊したりすることはもはや許されないでしょう。そして、政治家は、国の資源を体系的に分かち合うことですべての人々のニーズを満たすことに関心を持つようになることから、もはや国民の生活のあらゆる側面を商業化することはできなくなるでしょう。一定の時間が経過した後、利益追求を保護する多くの複雑な法律を覆すか大幅に改革するかして、真に道徳的で公正な新しい法律を作らねばならないでしょう。そして、それは、世界情勢の中で善意が繁栄することを可能にするでしょう。

経済法や政策の背後にある主な理由が第25条の人権を保護することであったなら、既存の世界貿易協定が本質的に偏っていて不当であることがすぐに明らかになるでしょう。これは非常に簡単に理解できます。なぜなら、もし私が貧しい国の大統領であり、すべての政府の決定を特徴づける国内法に第25条を制定していると想像すると、それらの法律は、何よりもまず先に、すべての家族に適切な生活水準を保証するよう私に命じているでしょう。その場合、遠方の都市や海外の裕福な消費者の利益のためだけに、自国の最貧の農民や労働者が安価で商品を輸出することにより搾取されることを許すことはできません – 農民がまず自分たち自身と自分たちのコミュニティを養うことができるよう貿易規則の変更を要求する必要があるでしょう。そして、第25条がすべての国の法律であり、グローバル政策の指針であるなら、不公正な貿易の条件を要求する多国籍企業が私を止めることはできないのです。

どの角度から見ても、利益、貪欲、抑えのきかない市場勢力の過度の影響が適切な国家介入や規制を通じて抑制されるなら、それがもたらすものは限りがないでしょう。容赦ない企業のロビー活動と合法的な窃盗から利益を上げるための圧力は、必然的に譲歩させられ、次第に弱体化するでしょう。したがって、第25条は、事実上、無情なほど利益重視の企業が直面し得る最悪の敵の1つです。分かち合いの原理に関連する規制と経済政策を通じて事業活動が違った経路をたどり始めるにつれ、富裕国と貧困国の両方で、さまざまな程度ですべての政府を駄目にしている永続的な腐敗も時間の経過と共に徐々に減少するまで長くかからないでしょう。国家統治が主にグローバル企業や裕福な個人のために機能するのではなく、真に共通善のために仕えているとしたら、権力に貪欲な人々が政治的領域に参入するどのようなインセンティブがあるのでしょうか。

各国での大規模な街頭デモの抵抗不可能な圧力によって、第25条の人権を保護するために行動する世界中の政府による影響を思い浮かべてみてください。発展途上国の極貧者が彼らの苦境に対する公衆の良心の目覚めを喜んで歓迎するであろう一方、彼らを助けるために地球の資源を再分配することの第一の効果は、政府の腐敗を露見させることかもしれません。この腐敗が続き、抑圧的な政治家が国民を代表して受ける援助を乱用する限り、責任のある党が解任され交代させられるまで、一般市民は蜂起するでしょう。そして、独裁的指導者が依然として暴力と国家の弾圧によって権力にしがみつくなら、国連の代表者を派遣して彼らの活動を監視し、犯罪の証拠を収集することが可能なはずです。国連が戦争を監視したり核兵器を捜索したりするために検査官を派遣するのと同じように、権限を与えられた国連機関が、寄付された援助が意図された目的に使用されるのを保証することを促進できるはずです。

さらに、一般の人々や貧しい人々のために機能する義務を長い間放棄してきた多国籍機関に対する第25条を実現することによる影響を予測できます。何よりもまず、これは世界の他の地域にひどい経済的「規範」を課すことで厳しく非難されている世界銀行や国際通貨基金などに関係するでしょう。第25条が新しい世界経済秩序の樹立の基盤となることを踏まえると、これらの組織は、大規模な資源の再分配、グローバル・ガバナンスの再構築、国際経済改革のプロセスを促進する上で重要な役割を果たすために、廃止されるか、完全に再考されねばならないでしょう。結局のところ、制度は、それを維持する人々がいなければ存続しません。そしてここで私たちは、特権のある富裕者や私腹を肥す大国の利益だけでなく、すべての人の福利への平等な関心を特徴とする、より啓発された人類文明の時代の始まりを考えているのです。

今日の分断された世界で第25条を実現することは、国際関係と支配的な大国の攻撃的な外交政策に、明らかに並外れた治癒的効果をもたらすでしょう。なぜなら、私たちが認識したように、すべての人々の基本的なニーズを満たすための協調した国際的努力は、軍事予算の大幅な削減とともに、急速な軍事活動の縮小を達成することに依存するからです。これは、他のすべての国の支出を縮小させ続けている米国だけでなく、多くの場合、医療、教育、または社会福祉よりもますます防衛費を割り当てている、貧困の発生率が高い発展途上国にとっても不可欠です。

さらに、私たちは以前、世界の政治が経済の分かち合いと真の国際協力とは反対の原理に広く基づいていることを検討しました。特に、米国や他のG7諸国の外交政策は、「商業化は人類が生きるための正しい道である」と世界に効果的に伝えており、多くの発展途上国で第25条がますます否定される原因となっています。したがって、世界情勢の持続不可能な軌道は、この神聖な条項を実現することが国民国家間の長期的な関係にとって何を意味するかを想像することを私たちにやむなくさせます。アメリカは最初から、偉大な帝国の覇権を行使することをやめ、世界の権力と支配の傲慢な追求を続けるのではなく、最終的にその豊富な資源を利用して世界の貧困をなくす道を切り開かねばならないでしょう。ロシアは、真の連邦独立国家共同体として平和に暮らすことを学び、軍事力と威圧的な国際的影響力を追求するのではなく、より大きな地域自治をもって進化することに集中せねばならないでしょう。同様に、中国はその拡大する経済的優位性を保証する政策として艦隊や兵器を増やすことをやめ、世界資源を分かち合うために他国と協力することによって拡張主義的な地政学を放棄しなければならないでしょう。

競合する政府間の経済的および政治的関係のこのような好転を見込むことは並外れて理想主義的であるように思われるかもしれませんが、世界情勢のこの操作方法が無限に未来へと存続する中で誰がわざわざ代替シナリオを考えるでしょうか。これらの高尚であるとされる外交政策は、近い将来、第3次大戦へと徐々に私たちを導いています – ますます枯渇する資源をめぐり激化する競争によるものではなく、極端な不平等の結果として。より道理をわきまえた政治家や外交官は、国々という家族がまもなく最終的な選択を余儀なくされることを認識しているはずです:これらの危険な状況を改善するために協力して分かち合うか、あるいは人類の不可逆的な滅亡を徐々に目撃するかです。

各国がどのように経済を再構築し、この不可欠な共通の目標に向けて他国と協力するかを考えると、世界中で第25条を告げることのこれらの多くの有益な結果を容易に予知することができます。政府がすべての子供と大人に十分な食料、医療、物質的安定性を保証することを正式に義務づけられるなら、その過程で他の多くの世界の問題が自動的に解決されていくかもしれません。これは理にかなったことであり、グローバル化の現代において、すべての人の経済的および社会的権利を保証するために必要となるだろう、国際的に調整された方策から推測することができます。

各国は間もなく、技術、知識、人的資源、制度能力、食品、医薬品、製造製品、その他の基礎資材や必需品など、自由に使える余剰資源の目録を作成することを余儀なくされるでしょう。最貧困国や地域へのこれらの資源の大規模な転送は、国連やその援助機関のグローバルネットワークを通じて、迅速に組織化される必要があるでしょう。あるいは、4、5年間速やかに続行する必要があるかもしれない短期間の緊急プログラムを監督するという明確な目的を持って、新しい国連機関が設置されるでしょう。そのようなプログラムに対する政治的意志がその近隣諸国を変革し始めているなら、北朝鮮でさえ参加するかもしれません。

この大規模な取り組みの開始時に、政府は1980年と1983年のブラント報告の推奨事項を再検討して改定するのがよいでしょう。[7] これらの無視された政策文書は40年が経過し旧式であるのは当然かもしれませんが、政治的態度とグローバルな経済活動の主要な指針として第25条を実現することの意味についての卓越した概要が依然含まれています。批評家は、これらの提案が当時の正統派経済学の想定によって制約されていたため、今日の相互連結した危機の範囲に対処するには不十分なままであると指摘するかもしれません。しかし、1981年にカンクンサミットが真剣に受け止められていたとしたら、現在までに第25条は、社会と政治的、経済的、社会的制度の振る舞いを統治する各国の効果的な一連の法律として十分に確立されていたはずです。[8] 

世界中で政府の目的がこのように変革された場合、国連はその本来の任務を遂行するために民主的に改革され、最高の国際的権威として再び権限を与えられなければならないでしょう。疑いなく、再構築された国連システムの下で世界経済ガバナンスを統合するという画期的な課題は、21世紀の未解決の必要条件として残ります。各国は、第25条の法律を独自の民主的な方法で、最も適切な方法に従って実施する必要がありますが、すべての国が世界レベルで任務を遂行する方法についての不可侵の規範として、国際議会がこれらの法律を監督する必要があります。

これにより、国連は、平和を維持し、弱者を保護し、協力的な国際関係を促進するよう加盟国に本質的に要求する卓越したグローバル機関としてその名に真に恥じないものとなるかもしれません。第25条の基本的権利を支持する上で主要な役割を果たすためにさまざまな機関が強化されるなら、世界人権宣言の他のすべての条項が最終的に適切に考慮され始めるかもしれません。私たちは、比喩的な意味で、第25条を人間の尊厳の最高法として認識するようになるかもしれません。その実現は、誇りを取り戻した概念としての「人権」の始まりを示すでしょう。このように、国連の創設ビジョンの美と約束は、そのなくてはならない未来の可能性を再び喚起することで、すべての道理のある人によって新たに認識されるかもしれません。

しかし、これは「私は依然として権力を持ち、常にそうであるだろう」というイリュージョン(幻想)に象徴される過去の古い競争的で国家主義的な有り方の遺物である安全保障理事会とその不相応な機能と権力とは何の関係もないでしょう。国家利益に関係するときのみ、主要な先進国の大統領や首相は国連に従い、そのシステムを自分たちの目的のために操作しようとします。しかし、すべての国の最も恵まれない人々の利益のことになると、まるで加盟国に対する国連の義務はもはや存在しないかのようです。安全保障理事会は、真の国際平和または安全の探求とは何の関係もありません。むしろ、それはメンバーが著名な政治的会計士によって代表されるプライベートクラブのように機能し、そのメンバーは全員、世界のパイの将来の分け前の大きさに応じて、その決議に賛成または反対票を投じます。そして、その憲章の第1章に述べられている国連の本来の目的と理念とは対照的に、この時代遅れの理事会の国家安全保障ゲームを特徴づけるのは、地球資源の最大の分け前をめぐるあの絶え間ない奪い合いなのです。安全保障理事会は最初から決して設置されるべきではありませんでした。それは国連総会が真に民主的なグローバルフォーラムとしての地位を確立できるようにするために(拒否権の廃止と共に)解散されるべきでした。その一方で、戦争の現実も、権力政治、国家の利己主義、そして完全に商業的または物質主義的な目標の追求における弱者からの搾取を合法と想定することを基盤に、維持され続けるでしょう。

読者は、自分たちでこの方向性の推論を簡単に拡大するかもしれません。第25条に対する驚異的な国民の要求は、すべての有益な結果、つまり世界的な経済の再構築と真の国際協力、政府間関係を特徴づける緊張と紛争の大幅な緩和、そして国連の真の運命に合致して最終的な安全保障理事会の解散につながるでしょう。国々が世界資源を公平に分かち合いあい、それによってテロや紛争の経済的根源を排除するのであれば、安全保障理事会にどのような長期的必要性があるのでしょうか。

このように見ると、現在の社会経済秩序に代わる唯一の選択肢は、世界中の善意の人々の結束した声に見いだされるということです。したがって、私たちに「代替手段はない」という印象を暗に与えているのは、平均的男女の広範な自己満足的な無頓着さなのです。分かち合いの原理が持続可能な未来のための新しい経済システムの基礎となるべきことを受け入れるなら、第25条はその原理を反映し、それを世界情勢に実現するよう呼びかけます。真実は、極度の人間の剥奪を終わらせる緊急性に対する認識がすべての世帯で感じられ、最も緊急な懸念として一般の人々のハートとマインドに育まれるまで、本当は他に選択肢はないのです。

これが、より平等で持続可能な社会を心に描く度量を持つ思想家にとっての苦境なのです。なぜなら、世界中の人々がその展望を受け入れ、その実現のために協力しない限り、それは決して起こらないだろうからです。このことだけで、なぜ第25条が私たち全員が探し求める代替手段を握り、なぜそのシンプルな規定が私たちを直接的、必然的、そして一見奇跡的に代替案へと導くことができるのかを説明しているのです。やがて、第25条を実現することが、多様な経済的解決への直接の入り口であり、自由と正義への最も確かな道であることがわかるかもしれません。しかし、その未知の可能性は、この一つの目標に情熱的に集中した、すべての国における根気強い不断の大規模なデモンストレーションを通じてのみ生命を与えられ、明らかになるのです。 

 


パート3:環境の問題

 

私たちは環境を救わなければならない。
しかし、
私たちから私たち自身を
救うのは誰だろう?

* * *

   

世界的な人々の運動として第25条を布告することへの異議のひとつは、環境の持続可能性の問題と、それが環境問題の緊急性を無視することを意味するのではないかということです。これは考察すべきもうひとつの重要な問題です。なぜなら、現在人類は明らかに、前例のない規模の2つの世界的な緊急事態に直面しているからです:これは、大気汚染と環境劣化、そして飢餓と貧困、不平等、社会的排除のレベルの高まりです。では、第25条を実現することによって、これらすべての相互連結する体系的な危機の解決策をどのように提起できるのでしょうか。

この疑問への答えが、現時点で主流の考え方から程遠い結論だとしても、それは理論的かつ単純な演繹的推論によって理解することができます。私たちが自分たちで考察すべき前提があります:それは、豊かさの中の貧困という不正義を是正することなく、気候変動や環境危機に取り組むことは決してできないということです。ここが、さまざまな生態系の問題の解決の起点です。そして、これもまた、心理的、道徳的、霊的な観点を含んだ多くの角度から熟考されるべきです。

これまで、第25条に対する公衆の支持の膨大な高まりが、政府の支出の優先順位の大幅な変更にどのようにつながるかについて検討してきました。たとえば、国の軍備予算から公共サービスの提供や社会福祉への補助金の再配分と並んで、発展途上国への無制限の援助などです。第25条を布告することは、私たちがこれまでに見聞きしたものとは異なった範囲と規模の再分配を本質的に必要とします。国家の富と資源の共同蓄積を通じて、そして世界的および全国的に、人間のニーズに応じたこれらの再分配を通じて、他の多くの危機的な問題も同時に解決される可能性があります。

たとえば、第25条が何十年も前に世界のすべての地域で実現されていたなら、その結果として、アルカイダやISISなどの特定の過激派やテロリストのグループが存在するに至ることは決してなかったかもしれません。貧困国のすべての家族が社会で信頼と安定のための物質的な基盤をすでに与えられていたなら、若者の間で暴力的な宗教イデオロギーへの受容性もなく、(結果的にもはや完全に頽廃していないだろう)政府と戦い転覆させる理由もなかったかもしれません。そして、大規模な資源の移動、広範な農業改革、世界経済構造の大幅なリストラを通じて飢餓と極度の剥奪を終わらせるための緊急プログラムがすでに開始されていたなら、政府は実際に国際協力の真の利益を現実のものにしていたかもしれません。したがって、彼らは遥か昔に、真の協力だけが達成することができる、人類の未来に迫り来る他の脅威の解決に着手して、最終的には戦争への意欲を放棄し、炭素排出を制限し、環境を癒すための協調的で最大限の努力をもたらしていたかもしれません。

実に、私たちが世界資源を分かち合い、世界の貧困、特に飢餓を根絶していたなら、おそらく今日の環境問題は最小限に抑えられ、世界の開発パターンが非常に異なったより持続可能な経路を辿っていたことでしょう。多くの点で、環境の哀れな運命は、1981年のカンクン・サミットの後、集結した政治指導者たちがブラントの提案に合意できなかったときに封印されました。これは、将来の歴史家がその後起こったことすべての分岐点であったと認識するかもしれません。[9]マザーアースが話すことさえできたなら、集結した国家のリーダーたちに言ったかもしれません。「なるほど、あなたがたは協力することを拒み、私が信頼の中惜しみなく与える豊かな富を分かち合いたくないというのですね。では、あなたがた自身の行動の結果を私のせいにしないことです!」

レーガンとサッチャーと彼らの仲間はサミットを見下げていたかもしれませんが、彼らが去った今、ブラントの行動への呼びかけを無視した彼らの決定がもたらした結果に対して私たち全員が生き証人となり、商業化勢力を解き放ち、分断、貪欲、利己的な競争の彼らの分裂的な道を追求することを選んでいるのです。それから現在までの間、歴代の政府は市場勢力の影響力が生活のあらゆる分野に蔓延ることをますます許してきました。彼らは皆一緒に、共通善のために統治する責任を放棄し、代わりに世界市場の気まぐれに彼らの決定権を丸投げしています。そして彼らは、国連とその創設ビジョンに事実上背を向け、代わりに国際法を嘲笑する安全保障理事会を通じてパワーゲームを追求しているのです。これらの複合要因の必然的な結果は、環境の激変の加速であり、2つの緊急事態が人類の将来の見通しを脅かす今日に至っています – それは、不平等と気候変動です – カンクン・サミットの時点で私たちは主に前者に集中することができたはずでした。

政治的指導者たちが持続可能でより平等な世界の長期的なビジョンを持っていると仮定し、利己的な観点からさえ、環境問題の激化を防ぐために貧困の根絶を優先することは依然として理にかなっているでしょう。とりわけ、貧困が過去60年または70年の急速な人口増加の背後にある根本要因であることは良く知られています。この傾向が今世紀を通じて予測通り続くとすれば、特に発展途上国で増大する資源の消費とその結果としてのCO2排出量の増加という点で、環境に深刻な影響が及ぶであろうことは明らかです。富裕国の人々が地球資源の大部分を消費し、したがって環境に最大の影響を及ぼしていることは事実ですが、断続的な人口爆発が資源基盤や生態系に耐え難い負担をもたらす可能性があるという事実も否定できません。しかし、すべての家族が十分な生活水準を享受するとき、人口レベルが減少し、安定することを示す十分な証拠があります。事実、極貧状態で生活する人々がしばしば大家族を抱えるのには非常に哀しい理由があります。主に、子供たちの何人かが – 栄養失調や予防可能な病気で早期に死亡しなければ – 高齢の両親を援助するだろうという希望です。発展途上国におけるこれらの根深い文化的態度は、すべての市民が、第25条に要約されているように、政府が常に基本的な人間のニーズの充足を保証するという完全な信頼と確信を持ってのみ初めて変革され得るのです。

20世紀にすでに起こった世界の人口レベルの劇的な上昇を目の当たりにして、政府がこの事態を永続させている状況を改善することに心底打ち込んだだろうと想像するかもしれません。もしそうであったなら、彼らは必要なすべての国際援助と人口プログラム支援と併せて貧困、病気、栄養不足との闘いに最大限の配慮を払っていたことでしょう。地球環境への負担だけでなく、社会不安、大量移住、そして潜在的に壊滅的な将来の紛争の拡大という観点から、この難解な問題に内在する時限爆弾が原因で、貧困と人口の相互に関連する増加が現在非常に危険な点に達しています。

それでも、長期的な是正措置という健全な方向に努力を投じるどころか、私たちの政府は商業化の不毛の道を追求し続けてきました。ここに、世界が非常に混雑している本当の理由があるのです。これは、現在すべての先進国の大都市だけでなく、発展途上国でも経験されています。貧困が、人口増加傾向の背後にある唯一の根本原因なのでしょうか。それとも、世界の人口の急速な増加を邪悪に味わう商業化勢力によってそれは引き起こされているのでしょうか – すべて、企業利益と経済成長を促進するという名目で。

この一連の推論は、国連の創設以来、私たちが世界資源を分かち合っていたなら、どのように人口レベルを持続可能な割合に保つことができていたか、そしてそのことが環境の状態に遠大な結果をもたらしていたであろうことを理解するのに役立つかもしれません。一方では、21世紀末までに、110億人以上が無理強いされ、劣化した惑星に住むという悪夢のような展望はもはや存在しなかったでしょう。同時に、経済的な分かち合いへの真のコミットメントは、前述したすべての理由から、破壊的で搾取的なビジネス慣行に直接的な挑戦をもたらしていたことでしょう。国際的な緊急行動プログラムを通じて貧困を緩和する過程で、多国籍企業がより人道的で、社会的に善意のある、環境に配慮した方法で機能しなければならないことは避けられません。  

これが、株主に対する受託者責任の一環として、直接的または間接的な手段で気づかずに環境を破壊することを余儀なくされている企業幹部を含む、私たち全員の利益のためであることを誰が否定できるでしょうか?第25条を緊急に実現しない限り、これらの大企業が猛烈な破壊活動を加速するのを防ぐ方法は他にあり得ないのではないでしょうか。なぜなら、彼らが過剰な利益率を上げ続ける唯一の方法は、自然界をさらに破壊することであり、彼らのより良い判断に反して、地球の生物圏内の恐ろしく酷い影響を彼らも目撃し始めているからです。まるで利益への動機が地球と人類そのものを憎んでいるかのように見えます。これらの愚純な商業化勢力が世界情勢に支配的な影響力を持っている限り、環境が人間の生活に適さないほど劣化するだろうことは確実です。一方、普遍的な社会的保護のように、世界の富を分かち合うためのささやかな提案でさえ、ますます理想主義的で達成不可能、最終的にはユートピア的になるでしょう。

それでも多くの善意の人々は、飢餓と貧困の非常事態にも対処しなければ、今日の世界の環境的非常事態の解決はあり得ないことを認識していません。したがって、膨大な数の貧窮化した人類の基本的な権利を私たちが見落とし続けるなら、マザーアースの権利のために戦うことがなぜ意味をなさないのかを認識することを試みてみましょう。前述したように、環境には自然と人間の2種類があり、それぞれが相互に依存しています。森林、海、大気などは、私たちが通常自然環境の全体として理解しているものですが、人間環境の全体の健康も、この世界で起こっているすべて誤りの原因要因として考慮すべきです。

この理解に基づくなら、深刻な貧困に苦しんでいる何百万人もの人々は、最悪の人間環境災害であり、恥ずべきことに長年容認されてきた後、私たちのより広範な生態学的問題の結果を決定しました。したがって、環境保護論者は重大な判断の誤りを犯しました。なぜなら、1950年に時計を戻し、第25条を迅速に実施して人間環境の健康を回復することができたとしたら、今日の地球の健康ははるかに安定していたであろうからです。富と資源は、万人の基本的ニーズを満たすために、より公平に分配されていたことでしょう;完全利益主導型勢力は、必然的に適切な場所に退けられていたでしょう;グローバル・サウスの国々の人口レベルは最終的には安定し、減少し始めていたかもしれません;そして、再構築された国際経済は、先進諸国において、よりシンプルで持続可能で平等主義的な生活様式をもたらしていたかもしれません。

私たちは確かに、世界の問題を環境保護主義者のせいにしているのでも、彼らの重要な取り組みを見くびっているのでもなく、なぜ殆どの人々が貧困と環境問題の間の因果関係を見落としているのかについて共に理解しようとしているのです。この地球に莫大な規模で貧困が存在するなら、環境問題が確実におよそ不可思議な形でそれに続くことは可能ではないでしょうか。そして、広く行き渡った貧しい家族の現実が酷い天候状態の現実に反映されているということが可能ではないでしょうか。なぜなら、人間の貪欲、無関心、無知に基づく利益と権力の追求以外に、この豊かな世界で貧困をもたらしているのは何なのでしょうか – それは、経済成長と消費主義の名の下に地球を略奪することへ多国籍企業を導いたのと同じ要因ではないでしょうか?

注意深く見ると、環境と貧困の危機の間には不可分の関係があります。これは、「気候変動」、「貧困」、「人口増加」をそれぞれの角に、そして「商業化」を中心に置いた三角形として表されるかもしれません。制御されない商業化を通じてさらなる利益を上げる過程で、さらなる貧困が、大気中のさらなる大混乱とともに生みだされます。そして、貧困レベルが増大すればするほど、世界人口も同時に増大するのです – それは商業化勢力を強力にし、これらの自己破壊的な傾向を激化させ続けることになります。

 

この判断によれば、人々が団結して第25条を要求しない限り、商業的利益の追求は自然環境を破壊し続けるでしょう。世界の産物が分かち合われない限り、何百万もの人々が飢えていると同時に余剰食糧が腐るままに放って置かれる限り、そして人類という家族がその最も貧しいメンバーの苦しみを見落とし続ける限り、この惑星の生態系と気象パターンに不均衡が生じることは避けられません。なぜなら、貧困の不正義、人間の搾取の不正義、そして私たち皆の地球の産物を溜め込み、分かち合わないことの不正義に対処せずに環境問題に対処することはできないからです。したがって、「飢餓」という言葉や私たちの世界での分かち合いの欠落に言及することさえせず、気候と生態系の危機について一般の人々に認識をもたらすだけで十分なのでしょうか。それとも、広範な人間の剥奪に十分な注意を払わずに、環境問題に取り組むことを試みれば試みるほど地球の健康がますます悪化していることを考えると、それは私たちの無知を特徴づけているのでしょうか?

道徳上の理由だけでも、世界の飢餓に取り組まずして環境問題に取り組めると信じるのは嘆かわしいことです。なぜなら、世界を救うために行動すると同時に、貧困者を救うことができない理由はないからです。現在、気候変動や環境破壊を阻止するための多くの大衆動員が見られますが、命を脅かす貧困状態の即時終結を要求する世界規模の活動はどれくらいの頻度で見られているでしょうか。それでも、違法な戦争を阻止しようとするために、または世界のほとんどの指導者が無視しているように見える生態学的大惨事への認識を高めるために私たち自身をグローバルに組織できるなら、第25条への要求の中で統一され、「他の人々はどうなるのか?」という態度に動機づけられた国際的な抗議デモを組織できるはずです。

毎年貧困関連の原因で亡くなっている約1,500万人が、私たちの日常生活であまり懸念の対象にならないかたわら、なぜ気候問題が私たちの家庭でそれほど重要になっているのかを、おそらく私たちはじっくり自問すべきでしょう。[10] 私たちにとって、どうしょうもなく貧しい人が今日一切れのパンを口にすることより、自分たちが明日きれいな空気を吸うことの方がより重要なのでしょうか。そして、グリーンピース創設以前でさえ、何百万もの人々にとって飢餓が日常の現実であったことは真実ではないでしょうか?壊滅的な気候変動を防ぐために、私たちには10年残されているかもしれませんが、栄養失調から徐々に死んでいく貧窮した子供には、何年どころか何日残されているのでしょうか。これらの問いは、この人の反応の欠如をかつて理解したことがなく、これからも決して理解しないだろう筆者から、抗議の精神を持って提起されているのです。貧困の屈辱は、現代の環境問題よりもはるか昔から存在していましたが、何かしら奇妙な理由で、天候だけが世界的な公衆デモで声を見いだしているのです。それはまるで環境にはグローバルな運動の中でファーストクラスを与えられているかのようですが、貧困者には座るクラスさえありません。そして非常に貧しい人々自身が自分たちの苦境について声をあげることは滅多にありません – いつもの通り – 自分たちの運命を受け入れるか、極貧の中で黙って死んでいくよう強く条件づけられているのです。

アフリカ、アジア、その他の貧困の発生率が高い地域全体で悲惨な気象パターンが続いているにもかかわらず、富裕国が地域の環境をバランスの取れた状態に戻すことに成功できるとすれば、これはすべて私たちを不穏な認識に追いやります。なぜならそれは、私たちがそれらの人々について考え、彼らを助けるよう政府を駆り立てるのか、それとも現在定番となっている自分たちの偏狭で無関心、自己満足的で無頓着な生活様式を続けていくのかということだからです。事実、環境問題は、遠方の国々の極度に貧しい子供たちの将来などへの配慮が殆ど皆無の、主に、私たち自身と私たちの将来、そして私たちの子供たちの生活についてのことなのです。私たちは子供たちに環境に良いことを考え、プラスチックや空き缶をリサイクルするよう教育しますが、毎日栄養のある食事の恩恵さえ受けず生活する何百万人もの子供たちについて考えることを教え損なってきました。富裕国の子供が家で空ビンを1本リサイクルする度に、その瞬間、おそらく2人以上の子供が世界のどこかで貧困関連の原因で亡くなっているのです。

もちろん、環境問題について認識を高めることは、この惑星が破損状態にあり、人類からの十分な対応が殆ど始まっていないため間違いなく重要で、称賛に値します。しかし、おそらく私たちはもう一度自問すべきでしょう:流行りの理念について他の追従者に影響されたのでないなら、なぜ私は世界の飢餓の永続的な現実よりも気候変動に関心があるのでしょうか。誠に、私はこの1週間に家庭のゴミを何度リサイクルしたのでしょうか。そして同時に、貧困の結果として不必要に亡くなったまさに数十万もの人々について何度考えを巡らせたのでしょうか。もしあなたがそれらの貧しい人々が亡くなる前に、環境状態について話したとしたら、彼らがこう答えたであろうことは確かです。「私には森林やCO2排出量について考えられない。私はただ食べ物、きれいな水、医療、まともな住居、そして生活の糧が欲しいだけです。」

繰り返しますが、誤解のないようにしましょう。環境の非常事態について人を教育することは確かに正しいことだからです。しかし、私たちはまた、これが分裂した道徳的に非難されるべき世界でどのような種類の教育であるのかということを自問せねばなりません。商業化がすべての主流政党の議題を乗っ取り;崩壊する経済が無数の家族にとっての苦難と絶望を引き起こし;国際緊張が不安と鬱病の異常発生をもたらし;そして、貧困から何万もの人々が世間の注目を搔い潜ったところで死んでいるとき、私たちはどのような種類のより良い生活を期待できるのでしょうか。世界がこの同じ非道な道を進み続けるなら、私たちは一体なぜ環境の健康を取り戻したいのでしょうか。富裕国に影響を及ぼすかもしれない移りゆく気候パターンに関する無限のデータへのアクセスはありますが、どれだけの人が飢え、暗黙に貧困で苦しんでいるのかという確かな統計すらありません。おそらくこれは、礼儀正しい会話において、世界の最も暗い片隅で貧困から死に続ける人々の惨事について殆ど一言も発せられないかたわら、環境に関する公の議論は道徳的で教養があるとされていることから、驚くべきことではないのです。

今でさえ、非常に多くの天候の混乱と金融危機の真っ只中で、国々は、飢えた人々を養い、病人を癒し、剥奪された人々の世話をし、同時に、暴走する気候変動を防ぎ、環境を修復するという努力を結集させることができるのです。そのようにすることは、これらの問題が存在し続けてきた限りいつでも可能だったのです。しかし、今日、政府がこの比類のない目標を達成できる唯一の方法は、適切な政治家が選出され、世界の人々が彼らの背後で団結することです – そしてこれが、最も深刻な問題なのです。

世界の問題を最も包括的な観点から観察すると、気候危機は、私たちが利益、富、権力を集団で崇拝することによって人間の知性が間違った方向に進んでしまった結果であると言えるかもしれません。その結果は、環境コモンズに対する一般化した無関心ですが、この機能不全の現実には誰もが関与しています。確かに、私たちは皆、その根本的な原因をつくった自分たちの共同犯罪のために、生態学的崩壊の罠に捉えられています。その罠とは、「この惑星を救うための時間はほとんど残っていない」と信じる一方で、私たちは自然界の破壊を激化させているプロセスに最初からずっと一役買っていているということです。不十分な教育様式とその結果としての自己知識の欠如のために、私たちは自分自身や人生の目的を知りません。したがって、物質性への自己投影を通して偏狭で自己本位な方法で「幸せ」になりたいという願望に簡単に影響されます。そして、商業化勢力は、クリスマスや他の季節の祝祭での過剰消費の熱狂によって最も下劣な表現で例示されるように、あらゆる方面でお金を稼ぐために私たちの無知と服従を食い物にすることに卓越しているのです。保障と幸福に対する心理的な要求を通じて、私たちは皆、他人より優れた「偉い人(成功者)」になること、そうでなければ、大きな家での豪華な生活様式、贅沢な休暇、そしてたくさんの物質的な所有物を欲することを余儀なくさせる社会的条件づけの影響を受けやすいのです。

これが、限られた地球資源をめぐる激しい競争に基づく外交政策と併せて、世界中の何百万ものビジネス契約と利益追求活動を特徴とするグローバルな全体像にどのようにつながるかを理解できるでしょうか?これらはすべて継続的で壊滅的な影響を環境に及ぼします。個人は、成功者になることを熱望するよう教育されており、国家レベルおよび国際レベルの両方で表現される、利己的な態度と他者に対する特定の無関心へ至ります。そして、その蓄積された私欲は、多国籍企業の誇りと喜びであり、過剰消費の大衆パターンと自然環境の劣化につながります。

結局のところ、熱帯雨林伐採、貴重な鉱物の露天採掘、化石燃料の不断の掘削などの背後にある駆動要因は政府でも企業でもありません。むしろ、破壊が起こっている他国の人々への影響にもかかわらず、この必然的な破壊をもたらす過剰消費の生活様式を欲するように教育されてきた各国の人々です。筆者が他の執筆で指摘しているように、アメリカン・ドリームの物質主義的で自己本位なアイデアは、現在世界のほぼすべての国に輸出されており、商業化と同義であるだけでなく、環境破壊とも同義である社会的条件づけの一形態を象徴しています。[11] 

私たちが集団でどのように地球を破壊しているかについて省みるなら、この問題のより深い原因は、社会の中で私たちがどのように共存し、相互に作用しているかということに源を発していると気づくかもしれません。なぜなら、人々が喜びを失い、強い条件づけを受け、創造性を欠き、人間関係において心理的に互いに分離され – これらすべてが環境と大気内に深刻な不均衡をもたらす – 世界に私たちは生まれ落ちているからです。したがって、貧困と悲惨さの真っ只中で裕福になり成功するという一般的な動機も、自然環境の中で感じられる混乱の原因となっているのです。これは、社会問題をあらゆる面で解決しない限り、なぜ地球の生態系を癒すことができないのかということを理解したいなら、秘教的ながらも不可欠な洞察です。言い換えれば、環境に影響を与えるのは私たちが行うことだけでなく、考え感じることでもあります。なぜなら、私たちの思考と自然界の間には複雑な関係があるからです。

あなたがもしうつ病や麻薬中毒者の部屋に入り、それが感情的なレベルであなたの内面に良くない影響を与えるとしたら、大衆としての人々のすべての良くない思考や感情が自然や世界の気候条件に有害な影響を与える可能性は確かです。そして、人類が現在生み出している考えの主旨は何でしょうか。それは他者の福利への永続する無関心と混ざり合った、利益、パワー、富の盲目的崇拝以外の何でしょうか。貪欲はそれ自体が不均衡を表しており、個人内で表現されるすべての貪欲、利己主義、無関心の総計から推定すると、気象パターン、海面、植物や動物の行動など、私たちの周りの生命に与える影響を推量することができます。

したがって、生態系の破壊を引き起こしているのは多国籍企業の世俗的な活動だけでなく、収益性の高い取引を行うための何百万もの事業経営者のアイデアと動機そのものでもあります。同様に、他国に兵器を販売する強力な政府は、遠方の地域で戦争と死を永続させていることだけでなく、世界中の人々の意識に恐怖と鬱病を拡散していることにも責任があります。これは最終的にはこの惑星の大気と生態系内の混乱に反映されます。ヨルダン川西岸とガザ地区周辺のアパルトヘイト壁でさえが、自然環境に多大な悪影響を及ぼし、私たちの分断された世界で猛威を振るう心理的鬱病、苦悩、憎しみをあらゆるところに浸透させます。人類のための聖なる進化計画があるとしたら、そのような壁はその対極を象徴しており、20世紀後半に建てられた最も醜い記念碑の1つと見なされるべきです。人間はライフ生命)であり、すべての思考、意図、行動は全体と密接に関連しているのです。[12]

人類が不朽の知恵のこの永久の真実を受け入れるまで、私たち全員が、社会的危機と環境的危機の両方の存続に何らかの形で責任があるのです。多国籍企業体が自然に与える破壊にまさに無関心であるように、私たちもまた、飢餓やその他の貧困の病気で死ぬ危険にさらされている何百万もの人々に集団的に無関心です。大企業が利益のために自然を事実上忌み嫌っているのなら、私たちも個人的な幸せと快適さを追求するために私たちの最も貧しい兄弟姉妹を事実上忌み嫌っているのです。したがって、私たちは全員、自己本位、無分別、傲慢、無知、無関心の点で本質的に同じなのです。しかし、私たちは人為的な飢餓と貧困の問題をあまりに長い間無視してきたため、今や貧困は社会の混乱と環境の災害によって私たちを悩ませるために戻ってきています – なぜなら、この地球で起こるすべてのことは霊的に相互に関連しているからです。

商業化が私たちの動脈に入り込んで以来、ここ数十年で気候が突然悪化し、人類がかつてないほど激しく資源を消費し始めたことにあなたは気づいていますか。通りが急速に混雑していること、ホームレスと貧困が日ごとに悪化していること、私たちが世界のすべての苦しみ、痛み、道徳的堕落からますます混乱し、疲れ果てていっていることに気づいているでしょうか?そして、私たちが共同で維持するこの機能不全のシステムが、自己複製する巧妙なメカニズムを現在発達させ、もはやその分裂的プロセスの一部でありたくなくても、その中に私たちを無理やり捉え続けていることにあなたは気がついているでしょうか。ならば、気候変動は、すべての哀しみ、不正、貪欲、不平等、そして何よりもこの地球に蔓延する無関心から生まれた、今日の社会で公然と目撃できる不秩序の反映であるという真実を知ってください。それらのすべてを覆すなら、あなたが生きるている限り、そしてそれを越えて健全な環境が続くでしょう。飢餓と貧困に無関心であるということは、完全な内なる静寂の中で真っ青な空を見つめ、気候がその威厳の中で四季を保ち、愛に溢れた海がその子宮へ流れ込む川を決して拒むことのないところの、神から授かった自由の瞬間をあなた自身に拒むことなのです。

 

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環境危機の第一の原因が私たちの意識との相互関係に根ざしていると理解すると、人類の問題はすべてビジョンと愛の欠如の結果であると単純に結論づけられるかもしれません。自国民の声に耳を傾けていないのは政府だけでなく、自分たちのハートの声に耳を傾けていないのは私たちです。そして、これが世界の未来を脅かす最も深刻な公害であり、大気中の二酸化炭素排出量よりも深刻です。なぜなら、それは良識と道義に対して私たちを盲目にする、ハートの属性への公害であるからです。裕福なエリートは貧困者の剥奪を生み出す状況を根絶する代わりに、貧困者自身を根絶することで対処されるべき社会的公害のようなものとして常に見なしてきたことを私たちは知っています。しかし、私たちも、何百万人もの人々が不必要に、そして豊かな世界で人為的な原因のために貧困で死んでいるという事態を受け入れ続ける限り、ハートの属性を無視しているのです。

絶望的な貧困の中で長年生活する人の心理に私たちは一体どれだけ共感するのでしょうか。余りの貧しさに十分に養う術もないまま多くの子供を産み、生きる可能性を得る前に彼らの多くが死んでいくであろうことを知っているということは、あなたがすでに政府に失望させられ、社会に忘れ去られ、人類自体に事実上見捨てられたという意味です。そのような男女の心には激しい喪失感と唯一絶望的に貧しい人だけが体験し得る恐ろしい孤独感があります。つまり完全に不必要とされ、内面的に無価値であり、神に裏切られたという感覚です。これが、私たちの中で最も恵まれない人々の苦しみに対する人間の無関心の有害な影響です。なぜなら、あなたが絶望的に恵まれない境遇にいるとき、そして悲惨さと絶対的貧困の中で生活しているとき、それはあなたを魂のない人間であるかのように感じさせるからです。あなたには人生に何の目的も見ることができません。あなたは自分を好きでも嫌いでもありません。そして、感じることのできる唯一の感情は、決してやってくることのない助けを求めて泣き叫ぶあなたの心のそれなのです。

これが、世界中の多くの未開発地域の極貧の村や都市のスラムで、日々何百万もの人々が耐え忍んでいる心理的現実なのです。私たち自身は親切で物惜みがなく、善意と高潔な意図で満ちているかもしれませんが、そのような貧困を経験したことがなければ、政府の福祉や公的支援の希望もなく、この先2週間食べ物もないということがどのように感じられるか及びもつかないのです。私たちの集団としての自己満足的な無頓着さと無関心の影響は、私たちが想像するよりもはるかに深刻で、自分たちの文化的態度および従来の社会規範におけるその本当の意味合いをまだ把握していません。不必要に飢えて貧窮したそれらの人々に背を向けることは、彼らの魂の神聖な目的の不可侵性を事実上拒むことであり、霊的に進化する神から授かった権利を彼らから剥奪するということです – これは私たち全員が犯しているすべての罪の中で最大の罪なのです。

今述べられたことを黙想し、話し合い、コミュニケーション、グループ活動の中で今何をすべきかを直感的に理解するために、第25条の内容についてもう一度考えてください。あらゆる経歴のすべての人が、経済的、社会的、芸術的、さらには化学的な手段を通じて、飢餓と貧困の大昔からの過ちを緊急に正すためのこの偉大な文明的試みにおいて役割を果たすことができるのです。私たちの考えや行動主義で最も顕著であるべきことは、私たちの家族に影響を及ぼすかもしれない環境問題だけではなく、地球環境と貧困の危機の間の相互関係についての認識です。したがって、私たちは、世界資源を分かち合うことがあらゆるレベルで人類の問題に対する唯一の解決策であることに気づくかもしれません。

街頭に出て、気候変動に取り組むよう政府に対してデモ行進することは、世界の貧困者に食べ物を提供し保護するよう要求することとは大変異なります。なぜなら、後者は、恵まれない人々への慈悲心から生じる私たちの意識的認識の変革の始まりを表すからです。それは、一時的に自分の生活と自己本位な懸念を忘れて、心からの共感的懸念を通して「他の人はどうなるのか」と考えることです。それは、すべての世界の問題の全体的な関連性を感知することであり、その理解から、願わくば社会正義と気候正義の両方の世界規模のデモンストレーションに私たちは同時に参加すべきです。究極的に、それは、人類はひとつであり、そして正義自体は分割することができないと知ることであり、したがって、飢餓は天候の混乱や深刻に病んだ地球の観点からも世界全体に影響を及ぼすことから、それ自体を不正義として認識するということです。

世界問題の相互関連性を理解するということは、私たちがすでに善意、良識、そして正しい人間関係への高まる認識を備えていると仮定して、人類の大使として話し行動する責任を認識することも意味します。誤用された人間の知性がこれらの言葉のシンプルな意味を何千年もの間曖昧にしてきたため、唯一私たちのハートだけがこれらの不十分な言葉の重要性を真に説明することができます。たとえば、グローバルな経済の分かち合いと協力を通じて人間の生命をリサイクルする重要性を子供たちに教育することなしに、環境保護のために家庭の廃棄物をリサイクルすることの重要性を彼らに教育するだけでは十分ではありません。そうしなければ、私たちは彼らの意識的な認識をそのリサイクルコンテナに制限しているのです。これは、あたかもそのコンテナが他のすべての世界問題に繋がるパンドラの箱であるかのように、環境問題が最初にどのように発生したかを彼らに教えない限り、そのコンテナは私たちの惑星を救うこととはあまり関係ないのです。これはまた、親が子供たちを自分たちのような人類の大使になるように導くために模範を示すことができるように、商業化が環境に何をしているのか、そして彼らの政府が世界に何をしているのかについて自分自身を教育しなければならないことを意味します。

したがって、今日の学校教育のプログラムの中心に、すべての国ですべての人の基本的ニーズを確保する必要性についての理解があるべきです。これは、食料、医療、住居、社会保証への長年確立されてきた権利だけを指すのではありません。第25条を定義する2、3の文章に私たちの理解を限定するのでなく、行間を読みましょう。なぜなら、私たちが直感を使うなら、不断の抗議デモの中でこれらの普遍的な権利を支持することはまた、私たちの道徳的な責任とひとつの世界のビジョンへの新しい認識を意味するからです。環境のための世界的なデモンストレーションを通して起こっていることは、実際人類はひとつなのだという新たな認識の象徴であり、それは世界意識の始まりと私たちの長い分裂した過去の来るべき拒絶を表しているのです。この点で、気候変動は、私たちが私たちの内在する一体性および相互依存の重要性を最終的に理解するように、惑星規模の共通目標のために世界の人々を一つに結ぼうと試みている偉大な霊的教師なのです。しかし、飢餓と絶対的貧困を撲滅させるための世界的なデモンストレーションがないという事実は、私たちがまだ間違った方向に進んでいることをも意味します。今日までまだ、世界資源を分かち合うことが、環境破壊を覆し、よりシンプルな生活様式を開始し、万人の共通善に基づいて持続可能な経済を確立する唯一の道であることに私たちは気づいていないようです。

 


パート4:ハートを従事させる

世界変容という概念は、目と知性の
ためのものですが、世界変革は、
ハートがその知恵を解き放つ
魂の錬金術です。

私たちは何も変容させるつもりはありません;
すべてを変革しようとしているのです。

 

* * *

 

私たちは今、第25条が今後の決定的な時期になぜ最も重要であるのか、そして世界変革への責任が従事する一般市民の団結した声になぜ依存しているのかといういくつかの重要な理由を探ってきました。今日私たちが直面している不平等、環境、安全保障の危機の程度の深刻さを考えると、政府が突然現実に目覚め、世界をより安定した軌道に導き始めるだろうと信じるのは世間知らずであるかまたは愚かなことでしょう。返済不可能な国の債務や経済的混乱にもかかわらず、無意味な戦争と破壊的な地政学的計略に何十億ドルもが注ぎ込まれ続けています。一方、ほとんどの国家元首の政策は、公有財産の残りのすべてをさらに商業化しています。

世界経済に深刻なダメージを与えたこれらの民間金融機関への国民による経済救済措置を必要とした世界金融危機の後でさえ、国際連帯の教訓はまだ学ばれていません。各国は経済的な分かち合いの真の精神でやっとお互いに助け合い、協力する代わりに、再び残りの部分には背を向け、地球の苦しみに対する真の懸念の欠如を示しました。[13] イスラエル政府がパレスチナの人々に対して行っていることからたとえを引用すると、彼らの隣国の抑圧を、多国籍企業やその利益主導の暴虐と一緒に強力な国々が世界全体に課している服従と比較するかもしれません。弱者や発展途上国に課している苦しみに彼らを目覚めさせるものは何でしょうか。また、哀れな同胞たちを良識、優しさ、愛情をもって扱うという簡単な教訓をいつ学ぶのでしょうか。



悲しいかな、イスラエル政府がその「平和プロセス」という二枚舌のフレーズのカバーの下で続く侵略を終わらせると信じるならまさに騙されやすいということであるように、既得権益団体が法の範囲内で他者から盗んだり搾取したりすることを突然やめると信じるなら、私たちは惑わされているのです。世界情勢におけるこの永続的な行き詰まりを終わらせるための2つの希望があります:神の介入に対する願望的で受動的な懇願か、または何百万人という人々が団結して次のように言う大衆の一斉の目覚めのどちらかです:「いい加減にしてくれ!もうこれ以上絶対にごめんだ!

前者の可能性にもかかわらず、統一された人々の声が政府の決定に影響を与え、破壊的な現在の世界の方向性を変えるために必要な力と地位に達するには、満たされるべき特定の前提条件があります。まず第一に、世界中の街頭には、第25条の人権を圧倒的に支持する何百万人もの人々の姿が繰り返し存続し、それが昼夜を問わず無期限に続く必要があります。確かに、もしあなたの身体に深刻な問題があるとしたら、あなたは1日だけでなく、治癒過程が自然な経過を終えるまで非常に長い期間入院するでしょう。同様に、人類の身体は危篤状態にあるため、無数の善意の人々が街頭に集まり、世界の未来がそれに依存するかのごとく – 文字通りそうなのですが – 政府の優先事項の転換のために平和的に抗議することが唯一の治療法なのです。その瞬間が到来し、同様の要求がすべての国とさまざまな大陸で受け入れられるとき、おそらく、各首都の何百万人もの人々が、毎日、毎週、彼らの数を増やしながら声を揃えて集まると真剣に思い描くことができます。



この点で、警察が強制的に立ち退かせていなければ、セントラル・スクエアでキャンプを張っているかもしれないさまざまなオキュパイ抗議者に私たちは感服しなければなりません。これらの断固とした活動家は国の人口の僅かを占めるだけであるため、権威者が彼らの希望と熱望を打ち消すことは比較的簡単で、彼らはすべての同胞市民の任務を勇敢に果たそうとした不満をもつ孤独なグループとなってしまいました。しかし、もし人口の大多数が第25条に基づく絶え間ない抗議デモに参加し、警察も抑圧または封じ込めることができないほど人数が断続的に増え続け、莫大数に膨れ上がったとしたら、政府はどうするでしょうか。

権力層の政治家、警察や世界の裕福なエリートは新しい抗議運動が現れるたびに注視していることは間違いありません。彼らは次のように考えて自分たちを安心させ続けています:「彼らはきっと大人しくなって、結局は前回と同じように引き上げ、また業務平常通りとなるだろう。」ですから、これまで抗議したことのない家族や児童、公務員など、あらゆる分野の人々がこの非暴力的な抗議の復活に参加するという段階に達する必要があります。その時点で、警察でさえが政府の方を向いて、言うかもしれません:「我々はあなたたちとではなく、人々と共にあります!」

 

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私たちは各自の政府に何を要求すべきかを今明確にすべきです。これは、国内で最低賃金を引き上げることや発展途上国への援助を増大すること以上のことなのです。微々たる「最低」賃金をめぐる永続する戦いは、人間の搾取、企業の着服、公衆の無関心の長く暗い歴史を反映しており、その決定的な表現における第25条とは実際の関係は何もないのです。不平等に分配されている社会のど真ん中で、私たちは今日の社会でどのように動くことができ、さらには必死に生活する貧しい大多数派のために、かろうじて最低限の生活水準しか要求できないのでしょうか。

先に示されたように行間を読むことができるなら、第25条は、利己主義、貪欲、盗みに基づく古いやり方の終わり、良識の始まり、そして善意、分かち合い、正義、つまり、正しい人間関係に基づいた新しい生き方の始まりを実際は意味しているのです。これは、イデオロギーに基づいてではなく、基本的な尊厳と道徳の観点から、国内および世界の両方であらゆる形態の貧困を根絶するという国民の決意に従わずに、選出された指導者が在任し続けることはできないことを意味します。

私たちが推論したように、第25条の人権がすべての政府によって確固として保証されるなら、それは拡大する商業化の完全な支配;多国籍企業の理不尽な略奪と破壊;そして、侵略と権力政治を前提とする外交政策の狂気への対抗手段(解毒剤)となるでしょう。これらの商業化の物質勢力を人格化できたなら、世界中で第25条を要求する何百万という人々の真っ只中で頭を悩ませている彼らを私たちは思い浮かべるかもしれません。彼らは互いに囁きます:「今回我々は本当に危ういようだ。」

したがって、第25条を人々の大義として告げることは、抵抗最小限の道であり、それはすぐに多くの肯定的な結果と、現在私たちが予測できない新しい社会的解決につながるかもしれません。前の章で説明したように、環境正義の点からでさえ、すべての人のためのそのシンプルな必要条件の中に、昔からの革新的な活動家のすべての要求が埋め込まれているのです。

今日の多くの若い活動家は、政治的および経済的変革のためのマニフェストによって問題を複雑化しています。 それは、世界中の何百万人もの人々と永続する抗議活動を行うことで私たちが「システム」と呼ぶものの力を弱めるのではなく、それを模倣し、その難解なプロセスにまるで従事しようとしているかのようです。あなたと私が生まれる前からずっとそうであったように、システムの分裂的な複雑さは極度に古く有害であることを忘れないようにしましょう。したがって、システムの代表者と彼ら独自の条件で交渉しようとすることは無益であり、終わりがありません。政府を内部から改革しようとする善意の政治家自身が「内部から改革」されがちであるように、システムを変革しようとする孤独な活動家も、最終的にシステムが彼らを変革してしまったことに気づくかもしれません。

したがって、抵抗最小限の道を選び、第25条を共に告げましょう。これが、資源を再分配し、グローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確実な方法であることを知りながら。そのような要求は、私たちが探しているすべての答えをそれが秘めていることを知る安心の中で、私たち自身の創造的方法で表現することができます。ひいては、分かち合いへの呼びかけが現在初期形態で表わされている富裕国を含め、グローバルな活動家の多くの既存の要求がすでに世界人権宣言に統合されていることを私たちは認識するかもしれません。この点から、アクセス可能な社会住宅;施設と交通機関の公的管理;医療と高等教育の無料提供;または公正な課税によるより平等で再分配された社会などの課題のための多様な運動を観察してください。分かち合いの原理が、これらの予備的な線に沿って各国で制度化されねばならないことは間違いありません。そして、人々が自国の社会でこれらの課題の推進に熱中するのは当然ですが、私たちの問題は本質的に他国の問題と同じであることも認識しなければなりません。なぜなら、私たちを結びつけ、抑えきれない国際勢力にするのはその認識だからです。

この新しいグローバルな認識は、事実、第25条を布告するための人々の戦略のエッセンスです。なぜなら、それは1つの国だけでなく、常に多くの異なる国で同時に示されるべきだからです。人類の問題を解決するために惑星規模のグループワークが必要な時点についに私たちは到達しました。それは明らかに国際的な範囲に及び、厳密に国内的または一方的に取り組むことはできません。したがって、私たちの第一の責任は、第25条の意味について行間を読むこと、そしてその認識から、他国が追随することを求めるという明確な意図を持って、自国全体を動員することです。

私たちの全体的な目的は、第25条が各国の一連の法律として制定されることであるという事実を認識すると同時に、それは、そのような法令がどのような方法で制定されようと、世界のすべての政府がそれらの法律を確実に遵守するように国連に権限を与えることを意味します。社会保護の保証を解体し、多くの人々の不可欠なニーズの充足を犠牲にする有害な政策を政府が追求し続けている大多数の国では、現状が明らかにどのように逆であるかを私たちは指摘しました。しかし、第25条が強制力のある法制度で適切に確立されたら、おそらく警察は一般の人々の平和的な抗議デモを抑え込む代わりに、政治家を逮捕しなければならないでしょう – 一般人の多くは、国連によって常に保護されているべきであった基本的人権を守るために戦っているのです。

この理解に沿って、世界変革のための正しい戦略は、すべての国民のための公共の福祉を保護することに通常失敗していると知られている自国の政府だけに呼びかけることではありません。同時に、私たちはまた、国連に世界の人々を真に代表するよう呼びかけねばなりません。これは、その呼びかけの効果が永続するためには大陸間規模で表明されなければなりません。つまるところ、政府が他国によって抑圧されているとき、それは国際司法裁判所に訴訟を提起する機会があります。しかし、そのような機会が、世界で最も貧しい家族や個人にとってどこに存在するのでしょうか。当然のことながら、グローバル経済の国際的な崩壊に続いて政府が裕福な金融機関に救済措置を施しているときでさえ、彼らが自分たちの貧困の不正義のために頼れるものはどこにもないのです。

ですから、世界の人々のハートとマインドを代表し、忘れ去られ死にゆく貧しい人々の深刻なニーズを支えるのに役立つ国連が必要です。私たち自身が常に十分な生活水準にアクセスしてきたとしても、私たちが最も大切にしている公共機関や社会サービスを政府が攻撃しているときに、誰に不平を言うつもりでしょうか。たとえば、私たちは私たちの生活のあらゆる側面をさらに商業化している自由貿易協定や民営化に熱心に反対するかもしれません;しかし、政府が私たちの基本的な権利と自由を支持する代わりに、企業のために機能しているとき、私たちはどのようにより平等な社会を作るつもりでしょうか。

これが、私たちが世界人権宣言の条項を持って取り組む必要があるもう1つの理由です。なぜなら、これらの共通に合意された達成基準は、世界の人々がそれらの人権宣言を断続的に支持しない限り、実現されることはないからです。おそらく、そうするなら国の指導者たちは最終的に彼らの選挙区民の言うことに耳を傾け、それに応じて忠実に行動し始めるかもしれません。それがほとんどの既存の政権の指導者の1人である可能性は非常に低いですが、したがって、私たちは国連をすべての人類の真の大統領として、そして世界の貧困者を救済するための最高の希望として見るべきです。世界の特定の地域で紛争が発生し、即時の解決策が見つからない場合、国際社会の明白な意志を代表すると想定される平和維持軍として国連の青いヘルメットが入り込みます(彼らの駐留がどのように無力なままであっても)。では、国連が世界のすべての市民の明白な意志を代表し始め、それによって、第25条を実現するという人々からの使命に基づいて行動するために、公的支持の世界的なほとばしりを通して権限を与えられていると想像してください。もっとも確実に、国連がワシントン、ブリュッセル、北京、モスクワ、その他のすべての政府本部に次のように言うために使者を送るまで、それほど長くはかからないでしょう:「私たちはずいぶん長い間待ちました – 世界の餓えた貧しい人々を食べさせ、保護するときが来ました。」

若者たちは、この行動指針を聞き入れることは世界中の注目をひきつけ、私たちがかつて見聞きしたことのない社会的雰囲気の中で起こる並外れた結果をもたらすであろうことに間もなく気づくかもしれません。私たちの熱望は、国連とその基本的な目的に新たな命を吹き込むことです。何百万人もの人々が、第25条のために不断に日夜を問わず毎日でも、何ヶ月でも、そして何年でも抗議するなら、国連総会への相当な権限付与と安全保安理事会の漸次の弱体化を私たちは最終的に目撃するかもしれません。以前に推論したように、改革され完全に民主的な国連システムは、再構築されたグローバル経済の管理を監督するにあたって主要な役割を担っています。しかし、国連憲章の第55条に明白に説明されているように – この点で、その意図された機能は、安全保安理事会の拒否権の制約から解放され;企業の支配下にあるブレトン・ウッズ制度の影響から解放され;そして、はるかに大きくより信頼性の高い収入源を通じて、資金調達の制限から解放されるまで果たされることはあり得ません。国連は米国、中国、フランス、ロシア、英国の政治や企業の利害関係者の所有物ではなく – 私たち万人のものです。これが、「すべての人の経済的・社会的発展」を促進することにおけるその存在の想定された目的です。

この観点から、アメリカの若者は、国連本部の周りに集まって第25条を布告する代わりに、なぜウォール街の外で抗議デモをし、「99%」の権利を宣言していたのかを自問すべきです。「我々は99%だ」と宣言することは結局のところ何の結果ももたらしませんが、私たちが第25条を要求するなら、貧困者が最終的にそれを聞きつけ参加するでしょう – そして、そこに解決策があるのです!アフリカ、アジア、南アメリカの遠隔地にいる非常に貧しい人々にオキュパイ・ウォール・ストリートについて話すと想像してみてください。彼らはあなたの国家的懸念にどのように反応すると思いますか?グローバル経済がどのように機能するかを彼らに説明してください。彼らはおそらくあなたが何を言っているのかわからないでしょう。クレジット・デフォルト・スワップや量的緩和策の意味を彼らに説明してください。彼らはおそらく一言も理解しないでしょう。貧しい村やスラム街には、「資本主義」という言葉さえ聞いたことがない人々が大勢います。しかし、あなたが第25条の内容を彼らに読んで聞かせるなら、そのとき彼らの目が輝き、すぐに理解するであろうことは確実です。なぜなら、そのそのときあなたはあなた自身の生活についてだけでなく、彼らの生活についても話しているからです。

これらの不平等や不正義の問題は、知識人によって流用され、過度に複雑化される以前は、常に貧困者のものでした。世界の複雑な問題は貧困者の問題でもあることから、私たちは彼らに代わって話をするつもりなのか、それとも彼ら自身が話しをするよう招くつもりなのでしょうか?最も恵まれない市民は、どんなに困難で不当な境遇にあっても、口を閉ざしたまま生活することに慣れています。しかし、彼らの貧困の無意味さを非難する何百万という人々によって表現される変革への呼びかけを聞くとき、彼らはすでに知っていたかのように頭の中で新しい現実を見るでしょう – なぜなら、彼らに関する限り、第25条は遥か昔に実現されているべきだったからです。

これを自分自身で理解するには、知的にまたは自己満足的な目を通してではなく、内部および心理面で貧困の現実を見なければなりません。これは、第25条がそれ自体の中で代替となる経済社会のパラダイムをどのように表しているかを理解するために、霊的にも感情的にも貧しい人々と「共になる」必要があることを意味します。何百万人もの善意の人々がこのように心を従事し、貧困の終わりを要求するとき初めて、その代替案は活気に満ち溢れ声を発するのです。それに続く政治経済改革は大変迅速に起こるため、富と権力の集中が進むことで富裕層がますます豊かになるなどの多くの良くない世界の動向が覆され始めるでしょう。これは、各国が世界の最も貧しい地域に不可欠な資源を再分配することに協力し始めるとき、人類がいわば深呼吸をする時間を僅かながらも与えるでしょう。

人類は長い間、赤十字やオックスファムのような非政府組織の活動などを通じて、さまざまな方法で第25条を世界中で実施することを求めてきました。しかし、これらの断片的で惜しみのない努力は、豊富な資源を完全に活用し、割り当てられた役割を断固として果たすよう政府を義務づけるために、世界の大衆がそれらの非政府組織を確固として支持しない限り決して十分ではないでしょう。だから貧しい人々を参加させましょう!他の国々も参加させましょう!良識を参加させましょう!私たちは無駄に抗議し、僅か数千人が正当な目標のために従事しているデモに参加することにうんざりしているのではないでしょうか?では、一緒に第25条を告げて、どうなるか見てみましょう。なぜなら、あなたが貧困によって引き起こされた人々の苦しみを終わらせるために街頭に立ち続けるなら、国籍が何であるか、どこに住んでいるかに関係なく、何百万人もの人々が参加する可能性があるからです。特に、その時が最終的に来たなら、たぶん首都にいる観光客でさえ、ガイドブックを放り投げてあなたの側に立つでしょう。世界のどこであろうと貧困は貧困であり、あなたの社会的地位が何であろうと、また出生地がどこであろうと不正義は不正義です。

したがって、豊かな国だけで「99%」を称賛することは、間違った表現であり間違った戦略です。それは、不正義が西洋化され、残りの人類に属していないことを意味しているかもしれないからです。非常に貧しい人々の大多数は、2011年と2012年に多くの国を一掃したこれらの占拠抗議についてまだ聞いたことがありません。そして、彼らがそれらの国々のさまざまな目標に共感したとしても、それは彼らが関与するところではありませんでした。しかし、貧困を終わらすために抗議することは、誰もが役割を担う世界的な呼びかけです。ですから、第25条を布告することによって貧しい人々に訴えかけ、それによって壮大な軍隊を作りましょう。自国での社会正義の必要性について話すだけでなく、すべての人の基本的ニーズの即時の充足を確実にする緊急性について国際的に話し合いましょう – 私たちが知るように、分かち合うべき十二分の資源があるのですから確実に達成できます。

私たちのキャンペーン活動において、この簡単な事実を創造的に説明する方法はたくさんあります。たとえば、各国で食料の余剰がどれだけあるか、またはどれだけの食料が不必要に浪費されているかを明確にする常識的な統計を調査することができます。あるいは、利益の不可欠性に妨げられることなく余剰資源を貯蓄して再分配する新しいグローバル経済の取り決めによって、政府と市民社会が各人にいかに迅速に生活必需品を無条件で提供できるかを示すことができます。したがって、そのような革新的な考え方と数え切れないほどの直接的行動を通じて、私たちは政府に「国連の人々である私たち」を尊重し、耳を傾けるよう求めることができます。最終的に、ブラント報告書に含まれる中心的な提案は交渉のテーブルに戻るでしょう:他のすべての優先事項を越えた優先事項として、絶対的貧困を排除することにより飢餓と栄養失調を根絶するための緊急プログラムのために。

 

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前述の推論を考えると同時に、「資本主義」や「システム」と絶えず戦うことによって世界を変革するのは不可能であることにも注意しましょう。 「資本主義」という言葉自体が誤解を招き、分裂的です。現実には、私たちが積極的に対立することのできる「システム」と呼ばれる実体のようなものは存在しません – 世界には、よこしまな意図を持って、アイデアの背後に隠れたり、主義を乱用したりする人々がいるだけです。資本主義は単なるアイデアであり、原則であり、法や政策を巧みに操作して私腹を肥やす裕福な政治的エリートによって、彼らが理解することのない、そして彼らとは何の関係もない、多くの場合「民主主義」や「自由」の名の下に、4、5世紀の間乗っ取られてきました。

ですから、他の人々が世界問題について資本主義を指さして、システムを非難するとき騙されないようにしましょう。なぜなら、資本主義の原理は不正義、不平等または超富裕層と同義ではないからです。私たちがシステムと呼ぶものは、それを作り、維持してきた人間の意図以外の何ものでもなく、その主力は野望、貪欲、利己主義、さらには残酷さによって特徴づけられます。したがって、システム全体の大部分が不公平で、利己的で、無関心で、しばしば残酷です。世界の金融危機と不正義を見るとき、私たちが目にするものは資本主義ではなく、人生の霊的な目的に対して無知で、常識のみならず自己愛さえも欠如した特定の個人の動機の結果です。お金、パワー、そして地位を追い求める人が過度に目につきますが、人類に仕え、他人の福利を守ることに真に関心のある人は僅かです。

これは、筆者が資本主義を擁護しているということではありません。それどころか、社会主義や共産主義の原理についても同じことが言えます。原理としての資本主義は本質的に何が悪いのでしょうか。何も悪くないのです。原理としての共産主義は本質的に何が悪いのでしょうか。この本質的に霊的な理念が独裁政権や権力に飢えた指導者によっていかに歪められ、頽廃させられてきたにせよ、それに非はないのです。資本主義と共産主義の原理のどちらも、社会組織の真の形態に近いものではまだ実証されておらず、分かち合いの原理が正しい人間関係に基づいて世界情勢に実現されるまで、それらの表現は常に機能不全のままでしょう。

したがって、政治的に関与している人々がこれらの誤解された言葉や名称に自己を投影することは無駄です。なぜなら、世界問題について責められるべきは原理でなく、唯一人間自身であるからです。システムは単に人間の思考と行動の産物であるため、資本主義やシステムではなく、唯一人間が変わるしかありません。システム自体は存在せず、人だけが存在します。それでも、私たちが作りだした社会は余りに分裂していて不当であるため、私たちは自分たちの不満や不幸を奇妙にも「システム」のせいにします。これは、辿り着くには誤った、潜在的に危険な結論です。

私たちは派閥政治や終わりのない対立を特徴とする人類の古いやり方に従ってではなく、社会主義と資本主義の根底にある原理を別の観点から、より霊的な理解をもって見る必要があります。支配者層に「対立」し、それを別の「主義」に置き換えたいとする政治運動は、社会のすべての人の共通の懸念を前進させることに決して成功しないでしょう。さらに端的に言えば、それは、社会主義者、共産主義者、自由主義者などになることに興味がない最も貧しい人々自身を包含することは決してないでしょう – 彼らは家族を養い、安全で、尊厳のある生活様式を享受したいだけです。したがって、資本主義や腐敗したシステムに反対することで、階級闘争や社会的疎外を何百年にもわたって引き起こしてきた古い分裂プロセスに携わっているのです。

それはまるで、学説や原理を殺すことが不可能であるにもかかわらず、活動家が頭の中で資本主義を擬人化し、ナイフで殺そうとしているかのようです。私たちは何が起こっているのかという真実を理解することしかできません。それは実際には「資本主義」とはまったく関係のない商業化勢力によって引き起こされた戦争です。したがって、あなたが資本主義と戦おうとするとき、あなたは現状を維持するエリートに効果的に挑戦したり関与したりする代わりに思想と戦っているのです。そしてそうすることで、あなたは彼らと同じように分裂的になる危険にさらされます。せいぜい、当局は彼らを「反資本主義者」と呼ぶそれらの抗議者たちを一瞥して、考えることなく彼らを一掃するでしょう。なぜなら、そのような行動主義は、人口の少数派や、多くの場合、過激派だけで成ってきたからです。しかし、最悪の場合、既存の社会秩序に「反対」するどのような大衆運動も、最終的には暴動、混乱、暴力的な蜂起につながり、さらにひどい社会的および政治的結果をもたらす可能性があります。

したがって、二極化した現代社会で「革命が必要だ」と主張することは、気狂いじみた無謀な提案です。なぜなら、革命という言葉は敵という言葉を肥やし、その敵という言葉は対立という言葉を肥やすからです。そして、「対立」するという内なる態度は、精神的な盲目さと利己心を肥やします。「私はあなたに対立する」という考えの心理的な片われは、頑固さ、傲慢さ、暴力であり(内部で表現されようと外部で表現されようと)、それは必ず人々のハートを荒ませ、個人レベルと社会レベルの両方で分裂と対立につながります。革命という言葉は、あらゆる点で来たるべき時代には無効であり、今こそ、協力、善意、分かち合い、世界的な結束、そして十分な良識に基づく新たな摂理のときがきているのです!

私たちが資本主義の代替となるものを社会の原理として求めることの無益さを理解し、代わりに世界問題の根本原因である現在の教育方法の代替となるものを支持することを願います。私たちが世界のどこに住んでいても、どの言葉を話していても、そして社会組織の外部形態がどのように違って見えようと、人類は万人のニーズが基本的に同じである一つの相互依存する家族なのだという教養ある認識をもって、正しい人間関係の観点からすべての子どもたちが人生の初めから教育される必要があります。正しい教育はまた、分かち合いの原理と協力が経済構造および社会関係の基礎となるべきだという共通の理解を要します。なぜなら、実に、この基本的な認識は、次の章でさらに探求するように、定着した社会的分裂を解決し、イデオロギー的思考の対立的様式を解消するための最初のステップを表すからです。

十分な数の人々が自己を再教育し、「左翼」や「右翼」などの無分別な言葉によってしばしば要約される「主義」の蔓延する条件づけを彼らの意識から抹消するなら、新しい政治時代がすぐに始まることが可能です。私たちのマインドは、すべての多様な形態の主義の条件づけと自己投影を通して、何世紀にもわたって拘禁されてきため、人間の創造性と自由を最大限に抑圧してきました。何世紀にもわたって、この人間の自由意志の甚だしい侵害の最も有害な結果に常に苦しめられてきたのは一般の男女であり、主に世界情勢の支配を争っている主要な宗教的および政治的イデオロギーによって課されています。

私たちは、資本主義や社会主義、あるいは他の認識されているイデオロギー上の敵に「対立」するという自分たちの一般的な心理的態度を熟考することによってのみ、問題の巨大さを理解し始めることができます。それでも、これは今後数年間で人間の関係を促進しなければならない新しい意識を理解し始めるための実り多い出発点です。「対立」という言葉が私たちの語彙と思考の中で「同意しない」という言葉に決定的に置き換えられるべきであるかたわら、私たちは、「左翼」「右翼」「資本主義」「社会主義」「無政府主義」「自由主義」などの言葉への自己投影をマインドから放棄することから始めるべきです。「私はあなたと対立する」と考えることは常に敵意や暴力をもたらしますが、「私はあなたに同意しない」と考えることは、不必要な対立なしに対話と解決の可能性を暗示します。さらに重要なことに、包括性と結束の考え方は、霊的な観点からあなたと私との間に本当の分裂がないことを暗示しています。これは、たとえ私たちの社会的態度やマインドの観念化がお互いに異なっていても、私たち全員が人間として神の平等性の前では本質的にどのように同じであるかということを認識するのに役立つかもしれません。物質界で私たちがどれだけ分割されているように見えても、人類は本質的に永遠に一つであり、最も高い霊的な意味で私たちの間に分離はあり得ません。したがって、対立する政治的イデオロギー間に和解できない衝突があるように思われる場合、永続的な解決策は、ある「主義」が別の「主義」に勝つことではありません。究極的に、それは私たちの共通の人間性が普遍的に受け入れられることによってのみ見いだされるのです – それは、内なる自己の本質に入り込んだ新しい教育を必要とします。

人間関係に対するそのような態度は、人口の大部分がハートを通してより霊的に考え、自己に対して意識的になるように教育されるなら、社会を変革する可能性があり、これらの提案は感傷的でも世間知らずでもないのです。今日の資本主義は、「唯一ひとつの人類がある」ではなく、「唯一ひとりの私がいる」という態度を持つ裕福な個人によって大部分が維持されていることがすぐに明らかになるでしょう。資本主義についての今日の理解に心理的に密に近づくことは、実際には、その多様な社会組織の形態が、貪欲と愛の欠如によってどのように特徴づけられているかを観察することです。人がそのことに対して意識的になり、それに応じて意図を変えるとき、資本主義もまったく同じように変革するでしょう。国内外で資源を分かち合う過程を通じて、必然的に資本主義は次第に支配的でない純粋な表現形態をとるでしょう。最終的に、私たちが資本主義と呼ぶものは、とりわけ不可欠な物資やサービスの普遍的提供を保証する社会的に管理された経済条件下での新しいイノベーションの非営利ベースの分かち合いによって定義づけられるでしょう。

おそらく、私たちの意識と社会全体を変革し始めるための最後の選択肢は一つしか残っていません。終わりのないデモンストレーションの中で第25条を布告することによって、私たちは最終的に、資本主義と社会主義の両方を、分かち合い、正義、そしてグローバルな協力の時代のための各々の適切な形態に変えるための扉を開くかもしれません。しかし、第25条は、社会主義や資本主義自体の原理とは何ら関係がないという事実をよく考える価値があります。霊的観点から、第25条は、尊厳と自由の中で進化するすべての個人の運命を意味する正しい人間関係の原理のみに関連しています。

私たちのイデオロギー的傾向や好みが何であれ、資本主義に対立して立ち上がることは、思想と戦う思想に帰着する不条理であることを少なくとも認識しましょう。代わりに、最も包括的な方法で私たちの政治的な違いを超越することができる1つの要求を布告することによって実際的になりましょう。私たちには何千もの異なった孤立した目標ではなく、ひとつの統一された要求が必要です。さらに、第25条を布告することは、人類全体を1つに結び、リーダーとしての未開拓の可能性を実現するようすべての人を招く一方で、資本主義と戦うことは、非政治的な大衆を遠ざけ、広範にわたる参加を制約します。何百万人もの人々が「対立」のエネルギーなしに結束するときに何が起こるかを発見して、私たちは驚くかもしれません。なぜなら、それは傍観者に大変なインスピレーションと歓びをもたらし、最終的には何百万人もの人々が参加するだろうからです。世界問題の複雑な様相のすべてとそれについて執筆され続ける本のすべてにかかわらず、最終的に、その解決策がいかに簡単であるかを私たちは発見するかもしれません。

解決策は、知的成果や複雑な学術理論を必要とせず、一般の人々のハートが、第25条の人権を中心に展開する、自発的で絶え間ない、信じられないほど巨大なデモに従事することを必要とします。献身的な活動家は、あの「革命」という脅威的な言葉を完全に避け、代わりに、かつて起こったことのない世界規模の人々の統一への保証されたルートであるハートの軍隊を形成するという観点から考える必要があります。古いイデオロギーや主義でなく、ハートを介して話すときが来ました。「不服従」、「対立」、または「反」などの言葉を通して世界を変革することはできません。しかし、私たちはハートからハートへと新しい摂理のためにコミュニケーションをとることによって、想像を超えて世界を変革することができるのです。すべての社会の大部分がこの集団的努力に参加し、第25条を根気強く要求するとき、それらの動員のエネルギーは、主に無意識にですが人類が現在準備している新しい地球の啓示をもたらすでしょう。ハートが従事した世界的な集まりの響きと、日々断続的にデモを行う何百万人もの人々の献身を通じて、世界を「どのように」変革すべきかという問いへの答えは自然と明らかにされ、それらの変革が起こることを止めるものは何もないでしょう。

私たちの腐敗したシステムの最大の敵は、人間のハートであると正確に言えるでしょう。なぜなら、ハートの特質は非常に簡素でありながらも、共通の目標の中でハート同士が結びつくとき、驚くほど強力になるからです。私たちがハートをこめて子供たちの世話をしたり家族を守ったりするのと同じように、何百万もの家族と極貧者が経験しているおそろしい貧困 – 現時点でその中の多くの人々が飢餓や予防可能な病気で死ぬ危険にさらされていること – への認識と確固とした懸念を大衆抗議デモに融合させる必要があります。ほとんどの活動家や革新的な思想家は、結集した共感的な善意の力を世界的な変革の必須条件として認識していません。しかし、一般の人々のハートの目覚めなくして、特に主義と商業化の戦争によってあらゆる側面から犠牲にされた人類の進化のこの決定的段階で社会を新たに立て直す望みはないのです。

革命について話されねばならないのなら、それをハートの革命としましょう。それは、アラブの春とそれに伴う蜂起についての政治的言説の中で依然明らかな古い主義の条件づけからはほど遠いものです。私たちがここで考察している世界再生のための戦略は、主に権威主義的で腐敗した政治体制の統治を終わらせることに関係した、2011年からエジプトや他の中東諸国で起こった大衆蜂起とは違うのです。抑圧的な支配者に対するそのような抵抗は、その特定の国の人々の大義です;私は同情するかもしれないが、それが自国で起こっていない限り、私が関与することはなさそうだ。しかし、どこであろうと世界の貧困の根絶を支持することは、すべての国および世界の人々の大義であり、それが成功するためには、世界規模のハートの革命を必要とするでしょう。

この見解はまた、活動家が熟考し、理解することを試みるべき中心的なジレンマを浮き彫りにします:変革と正義のために戦うことは間違いなく必要であり、称賛に値しますが、主義とイデオロギーによって条件づけられたマインドと戦うことは状況をさらに悪化させ得る危険な試みです。その条件づけのメカニズムに宿るのは、無数に繰り返されてきた人類の過去の過ちです。そのため、私たちは「対立」する態度なくして、ハートの属性を通じて正義と新しい生き方を求めなければなりません。

新しい形態のグローバルな積極行動主義のためのそのようなガイドラインは、漠然としたまたはユートピア的考えとしてではなく、どのように戦い、実際に勝利するかについての現実的な戦略として理解されるべきです。現在、多くの活動家がもう一つの世界を創造する可能性を断言していますが、必要な規模の社会変革は、ハートとマインドの属性を調和させずして実現することはできません。人間の知性はその後、ついに正しい方向に動き始めるかもしれません – もはや利益、イデオロギー、または自己利益でなく、私たちの中で最も恵まれない人々を第一に考慮した、私たちの最高の集合的利益に向かって。

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今日最も必要なものは、革命ではなく、私たちの日常の思考や行動の中で明示すべき良識であり、簡素さであり、そして知恵です。第25条を布告することは、これらの資質を私たちの抗議活動にもたらす直接的な方法であり、象徴的にそして文字通り、富裕者と貧困者の間の緊迫を和らげ、両者を話し合いへと招くことができる程でしょう。今日、正しい考えに沿っているように見える霊的革命さえを呼びかけている人々がいますが、実際には、人間関係が欲望、混乱、無知、そして主義やイデオロギーへの自己投影に基づいているときに、私たちの意識の突然の啓発を求めることは無駄で非現実的です。

西洋でのヨガの教えの導入に例示されるように -「スピリチュアル」なものならすぐに取り入れられ商品化されるとき、私たちのこのような分割された物質主義的社会でどのような霊的革命を起こすことができるのでしょうか。したがって、最初に社会全体で心理的および社会的変革を経験せずに霊的革命を起こそうとするのは絶望的です。しかしそうするなら、ハートの同盟を通して私たちは真の自己の姿を知り始めるかもしれません。地球上のすべての人が、尊厳、信頼、自由を持って生きるために必要なものを手にするなら、地球規模の霊的革命を求めることができます。そうでなければ、その革命を擬人化できるなら、それは言うでしょう。「あなた方全員のもとに来たいのはやまやまですが、あなた方がまずあなた方自身の問題を片づけるまでそうすることはできないのです。」

不平等の拡大、壊滅的な紛争、気候の激変によって破壊される世界で、今なお自己の霊的革命を達成しようと奮闘する多くの人々がいます。しかし、このような状況下では、私たちのいわゆる悟りは、この時代の深刻な霊的危機に頑なに気づかない個人としてのみ達成することができます。私たちはアシュラムや修道院に逃げ込み、何年も孤立して瞑想に耽るかもしれませんが、果てしなく続く社会的混乱と環境の激変の時代が世界に差し迫っているとき、彼らは何のために瞑想しているのでしょうか。その上、飢餓者に食べものを与え、最も貧しい人々に仕えることもまた、霊的な救いへの道ではないのでしょうか。21世紀に豊かさの真っ只中で飢餓の犯罪が続く限り、- 少なくとも「他の人々はどうなるのか?」という態度で私たちが第25条の布告をもたらす集合的な意識変革を自ら起こすまでは、個人的な霊的革命について何も話されるべきではないのです。

世界中で人々がデモをしているという事実は、それ自体が、人類はひとつなのだという歓喜に満ちた認識を通して実現される霊的またはハートの革命の一形態であり、これらのデモンストレーションの音そのものが、この地球で最初の真の霊的革命を構成するように磁化されるでしょう。このように世界的な蜂起が絶えず起こることで、人々に非常な尊厳と力が与えられ、私たちがまるで常に兄弟姉妹であったかのように、そしてそうすることを選択していたらまるで信頼が常にそこにあったかのように、言葉、人種、階級の障壁なくして互いを見るでしょう。そのとき、他者への認識、新たに発見された思いやりのある相互尊重、そしてもちろん私たちが愛と呼ぶエネルギーから生じるこれまで未知の性質であった不思議な驚異が男性と女性のマインドに起こるでしょう。そして、そのとき初めて、私たちは自分たちを人類の大使と呼ぶことの意味を知るでしょう。

2011年以降、多くの抗議野営地で私たちがすでに目撃してきたものは、この浮上する新たな意識の小さな兆候ですが、同じ統一した要求のもと多くの国が蜂起するという私たちのビジョンと比べて、これらの以前の出来事は取るに足らないものになるでしょう。近年の大衆占拠や平和的な蜂起で、人々がグループとしてやり取りするとき、彼らがどのように振る舞うかをあなたは観察したことがありますか。それがたとえ仮設図書館で本を共有したり、無料で食べ物を配ったりするだけのことであっても、「わたし」という考えなしで皆と一緒になって他の人々に奉仕することに喜びがあるのです。これらの活動家は通常、およそすべてを分かち合い、その表現において感動的、創造的および治癒的な生きる喜びと連帯感を体験します。したがって、このような行動を単なる「ヒッピーじみたもの」と見なすべきでしょうか。それとも、それはあなた自身がすでに感じているかもしれない正しい人間関係に基づく新しい時代の始まりを意味するのでしょうか?

私たちがこれまで目撃してきた出来事は、違った生き方を実現するための無意識的な訴えかけであり、それはこれまでに見たこともない普遍的な規模で起こるであろうことの徴なのです。一度に何百万人もの人々が経験し、表現する、そして世界のすべての国で何ヶ月にもわたって長期化する、このハートが引き起こす驚異の完全なる解放をどうか想像してみてください。私たちは、最大限に開花した地球でのこれほど深く感動的で歓喜に満ちた光景をかつて経験したことがありません。すでに起こっているリーダーなき抗議デモの散発的な波は、実際には「私たちはより良い世界が欲しい」と言っているわけですが、あらゆるところで人々が直感的に掴もうとしているこのより良い世界をどのように開始するかについての指示が今与えられたのです。

第25条を告げることは、世界資源の分かち合いが私たちの文明危機の明白な解決策であるという包括的な認識を生みだすのにも役立つかもしれません。これらの2つの概念 – 第25条と分かち合いの原理 – の間には相互依存関係があり、それは従事するハートと大衆の善意による継続的な世界規模のデモンストレーションを通じて実現されるでしょう。その関係は、大衆へのアピールの欠如にもかかわらず、常にシンプルでした。なぜならそれは、私たちが秘める神聖な可能性の永遠の真実を最終的に認識するまでの数え切れない人生を通じての長い旅であるからです。の愛や生命の中ではすべてがシンプルです。人間だけが無知、貪欲、そして主義への執着を通してすべてを複雑にします。

象徴的に、第25条はそれ自体の中に答えと代替案を握っていると述べましたが、それは、人類が一つとなり、世界規模の心理的・社会的・霊的革命の真っ只中で大声でそれを要求するとき明らかになるでしょう。そのとき、私たちは最も予想外の啓示を体験するでしょう:それは、人類はひとつであり、それゆえ人生は貴重な贈り物であり、真に生きるに価するということです。ひいては、第25条が分かち合いの原理への帰途へ私たちを導き、世界の再建を開始できるようになるまでそう長くはかからないでしょう。

 


 

パート5:新たな地球のための教育

 

真実を知りなさい。
あなた方一人一人が世界の父であり母です。
それゆえ、
あなた方の最高の霊的熱望は、
人類の一体性の隠された事実を
体現することにあるのです。

 

* * *

もう一つの世界が可能であると断言し、真に信じるなら、闇雲に振る舞う政治家、自分たちの集団的な無関心と自己満足的な無頓着さ、そして私たちが真実と自由への道を見つけることを妨げているすべての主義について私たちはどうするつもりでしょうか。私たちはいつ、批判、恐怖、非難でなく、歓びと善意をもってお互いを見るつもりなのでしょうか。短い人生でたとえ一度でも、私たちはいつ、通常と違った日を経験するつもりなのでしょうか。繰り返しますが、答えは、愛と知恵を通して自己知識を発達させることを助ける新しい種類の教育なのです。これは、私たちがどれだけ長くそれを否定しようとしてきたとしても、地球に自由をもたらす人生の真実、人類は一つであるという啓示から始まるのです。したがって、今日私たちには革命でなく、正しい教育が必要なのだと言うことは正しいのです。なぜなら、すべての人がわかち合わなければならない一つの惑星の資源の限界内でより簡素かつ平等に生きることを私たちが学ばない限り、第25条を永続的に保証する希望はないからです。

世界中で第25条の完全な実現を保証する法を維持するには、新しい教育方法が緊急に必要です。人類は、主義と私たちの本質についての何世紀にもわたる誤った考えによってあまりに条件づけられているので、そのような教育がなければ、どのような法律も長くは続かないでしょう。しかし、「良い教育」と称されるものが、パーソナリティーの自己投影や成功の認められた尺度を達成するというグラマー(幻惑)に基づいた機能不全社会では、私たちには一般的に正しい教育が何を意味するのかまったくおよびもつきません。その結果、私たちの学校や大学は、この惑星と他の人間を破壊することに卓越した権力の立場にある多くの「高学歴者」を生み出してきました。これは、生命そのものを支える天然資源を急速に消費し、極度の貧困と富が第三次世界大戦の種を蒔くほど拡大している社会に関連して認識されるべき否定できない事実です。すべての首相、大統領、またはチーフエグゼクティブ全員がいわゆる良い教育と呼ばれるものを受けたにもかかわらず、これらの悲惨な動向を常に永続させているのです。

特権階級の子供が学校に行くとき、その子供は正しい人間関係の点から教育されるのでなく、むしろ人生の意味と目的についての何世紀にもわたる誤った理解によって洗脳され、条件づけられる一方で、最近では、悲惨にも商業化勢力によって汚染されているのです。世界をより良い場所とすることに崇高な熱望を燃やす成熟過程にある青年は、彼が社会へ「恩返し」するか、または公共心に富んだ使命を追求する不動の大義をもち続けたとしても、最後には、これらの勢力に条件づけられてしまっているだけでなく、完全に汚染されたマインドを持って彼の教育を終了する運命にあるのです。私たちは皆、どのように考えるべきかを私たちに命令し、成功を達成するよう私たちを洗脳し、野心を私たち中に培養し、そしてその結果私たちを分割し、究極的に自己に対する無知と乱用をもたらす教育の子供たちなのです。今日私たちが知るところの教育は、多くのオルタナティブ・スクールや霊的志向の学校やカレッジにおいてでさえ、成功した「偉い人」となるようプログラムされたロボットを大量生産する工場のようになりつつあります。したがって、私たちは皆、私たちを誤り導いて操作し、私たちの存在の本質について意識的な認識を拡大することのできない教育にさらされています。代わりに、それは私たちに、貪欲、利己主義、そして最終的には他人と地球の苦しみへの無関心につながる個人主義的な野心の感覚を植えつけます。

人類は不滅であり、一つの進化において不可分ですが、それでも、物質性への誤った自己投影、誤った条件づけ、そして誤った教育方法の結果として、無数の人々が自分たちがあたかも社会の一部ではないか、またはどういうわけか世界が彼らの敵であるかのように感じる程沈んでしまっているのです。活動家がしばしばシステムが彼らに対立していると思い込むのと同じように、極貧者はしばしば彼らが人類家族というものの一部ではないように感じているのです。その一方で、「良い教育」を成し遂げ、商業化の腐敗した術に準拠することによって高い社会的地位を達成した個人は、「私は成功に値する一握りの人間だ」と書かれた旗を自己の潜在意識へ掲げるように条件づけられているのです。

より霊的で包括的な展望を通して世界の状況を見ると、どのような一流の学校や大学においても適切に教育されている人は誰一人いないと私たちは結論づけるかもしれません。商業化を中核として選んだ機能不全社会では、子供を霊的、心理的に健全な方法で教育することは事実上不可能です。私たちが実際に生み出しているのは、内なる自己の教養ある認識を通じての「良い教育」ではなく、組み立てラインにのった「良い消費者」です。私たちは無限の製品やサービスの消費者となるよう育てられているだけでなく、私たち自身の人生の不注意な乱用を通じて自分たち自身を消費するように導かれているのです。自分自身で考えず、自己知識を備えておらず、愛情のある認識の中で生き行動するよう教えられておらず、外に向かって商品を消費し、内に向かって自己を消費するであろう人、それは彼が自由で悦びのある人間ではなく、「自己が商品」としてより良く述べられるという意味です。環境の中で私たちに授けられているすべてのエネルギーや美によって創造的になる代わりに、私たちは内なる認識の欠如を通して半睡眠状態で無頓着なままでいることを好むのです。それゆえ、私たちは最も貴重な人間の属性を「消費」または消散させ、無意識のうちにじわじわと霊的飢えに苦しんでいるのです。

私たちは、政治的、経済的、社会的、環境的、感情的に – 思いつく限りのあらゆる方法で自己を消費しています。これには、持続不可能な大衆消費パターンによる自然界の無知な乱用から貪欲、自己憐憫、鬱病、寂しさ、中毒性の薬物摂取に続く心理的な自己破壊に至るまでのすべてが含まれます。私たちは、自己の内外で起こっているすべての苦しみに無関心であるため、「自己消費」までしています。これが、その疲労と不安の中で、変わることなく毎日が同じように感じられる理由です。なぜなら、気づいているかどうかにかかわらず、私たち全員がある程度自己の人間性を消費しているからです。そして、このすべての内なる混乱と自らに課した暴力の真っ只中で、それでも私たちは捉えどころのない幸福を絶えず探し求めています。多くの場合、私たちは余りにも頑なに探し求めるため、自らの生命を犠牲にする必要があると信じるほど哀しみと痛みに圧倒されるのです。それは、自殺行為による自己破壊という最後の悲しい試みと見なすことができます。

一般的に、私たちの政治的リーダーは、信念、主義、無知の世界に生きるように自己を誘導している私たちと同じように、正しい人間関係の意味について混乱し歪んだ見解をもっています。現代社会のすべての不平等と惨めさに囲まれた政党のリーダーは、自己知識、謙虚さ、シンプルな愛ある意識の欠如によって人類がそれ自体をどのように分割したかということを本当は反映しています。上記のような言葉は、上位と下位、率いる者と従わなければならない多くの者という低俗な意味合いを含んだリーダーシップという言葉の今日の理解の対極にあります。なぜなら、追従するプロセスの中で、人間は自己の霊性、創造性、そして持って生まれた叡智を否定することによって、広く行き渡った自己満足と無関心の状態に落ち込んでしまっているからです。物質的な富と権力の利己的な蓄積を偶像化する道徳的に退廃した文化では、政治的リーダーシップはさらなる混乱と社会的分裂をもたらすだけであり、さらなる抑圧、暴力、そして広範な苦しみにつながるだけです。

分裂的な主義を私たちの疲れた人生と子供たちに授けようとするために、すべての政治的候補者がどこからともなく現れるところの、ひとつの人類のアイデアと存在自体を否定する低俗なゲームに政治がどのように化してしまったかを日常生活の中で目撃する一方、私たちはどのような種類の民主主義について話しているのでしょうか。主義に追従することはそれ自体が低俗な行為であるため、権力の座に飢えた政治家に時間を費やす代わりに、「ああ、政治か。その言葉さえ聞きたくない!」と言う多くの人々を誰が責めることができるでしょうか。左派または右派の政党を密接に追っている他の多くの人々も、一般的に、正しい人間関係と私たちに内在する霊的結束の観点から考えることができず、 最近の政権争いで彼らが選んだ政党が他のすべての政党を打ち負かすのを見ることにはるかに興味があります。彼らもまた、政治家と同じように低俗なゲームの一部であり、とりわけ、自分たちの税金の引き下げや、自分たちの金融投資の増大を助けるかもしれない新しい指導者に忠誠を誓うことによって自己満足的で偏狭な人生のあり方を強化するなら。人生と自己知識は、私たちが「私の人生」または「私の権利」と呼ぶそれらの自己中心的な箱の中だけに限定された私たちの意識にではなく、常に正しい人間関係を通して私たちの認識の成長に基づいてきました。私たちは生涯を通じてこの現実を認識することを拒否し、一つの政治的主義を別の政治的主義に置き換えることによって社会がより良く変わることができると信じ、自分自身や他人を繰り返し欺いているのです。

この混沌とした時代において、大きな選挙戦は国内でさらに多くのストレスと分裂を生み出します。そして心理的なレベルでは、投票の行為そのものが、その社会の拡大する不和と霊的断片化を表しています。これは、普遍的な選挙権とより良い民主的表現をめぐる多くの歴史的苦闘をはねつけようとしているのではなく、より包括的で霊的な知覚能力を通じて、民主主義とリーダーシップのこれらの問題を考察しようとしているのです。経済が崩壊し、商業化による人と自然の乱用が蔓延し、環境が余りに急速に劣化して最後にはこの惑星に住めなくなるかもしれないとき、私たちは誰にそして何のために投票しているのでしょうか。

右や左の主義に単に投票するだけの行為は、この大混乱の中からさらなる痛みと分裂をもたらすだけです。それは、私たちが自己満足的な無頓着さを放棄し、意識的認識を拡大し、自分たちで世界の状況を変える責任を担うのをまだ拒否していることを意味します。そもそも私たちが彼らに投票すること以外何もしなかったのなら、これらの問題を彼らのせいにすることはできないのです。この点で、政府は私たち自身の今の状況を反映しているだけでなく、それはまた、私たちにとって然るべき状況を反映しているのです。選挙運動の贅沢で不穏な空騒ぎへの参加を拒む、無関心で疎外された投票棄権者も含み、政府と投票者は完全に同一です。しかし、非常に長い間、私たちは不適切な教育、つまり誤ったリーダーシップの考えに捉えられてきたため、これが社会が機能できる唯一の方法であると考えているようです。私たちは正しい人間関係を実証する違った生き方を想像することすらできないように思われます。正しい人間関係なくして、世界情勢に調和や平和はあり得ないのです。

今日私たちが目撃しているように、競争心の激しい権力に飢えたリーダーがいる限り、対立と社会的分裂が絶えることはないでしょう。そして、これらのいわゆるリーダーに追従し続ける人々がいる限り、私たちの生来の霊性、創造性、自由への無意識の否定が絶えることはないでしょう。しかし、主義に条件づけられたマインドがなく、愛があり、信頼があり、他の人々を尊重する念があるところには権威もリーダーシップもなく、指針があるだけです。現在の形態のリーダーシップは、ハートの叡智を持って考えることのできない追従者以外の何者をも生み出すことはできませんが、真のリーダーシップは指針を与えます。実に、誰もが正しい教育を通じて自己知識を備えていたなら、指導者に投票することはおよそ不可能となり、政党はこれ以上必要なくなるでしょう。投票ではなく、彼らの知恵と包括的な態度への市民の承認を通じて選ばれた、共益のための代表者として政府の立場で仕える任命された人々のグループが単に存在するだけとなるでしょう。そして、そのような代表者の最初の義務は、すべての人々が常に基本的な物質的ニーズを確保することを保証すると同時に、彼らが魂の意識の中で成長し、彼ら自身の霊的進化の中で人類への奉仕を通じて自分自身を導くことを可能にする教育を保証することでしょう。

草の根の社会運動に結集する若者たちは、来るべき時代を定義するだろうこの新しい様式を感じ始めており、すでに明確なリーダーシップ構造や中央集権的な権威なくして自然に出現しています。なぜなら、彼らは、主義ではなく、従事するハートを通じてコモンセンスの観点から考えることを自分たちで学んでいるからです。大衆のエンパワーメントや参加民主主義の多くの実験を通じて、彼らはこの啓示的な真実をすでに見出しています:つまり、すべての人の意識が、大多数派の最大の利益のために協力するように誘導されるなら、社会を統治するリーダーは必要ないということです。このように、すべてのグループメンバーは、社会正義と正しい人間関係の追求の中で、自己のリーダーシップの可能性を実現するために備えられるのです。

しかし、この新しい意識は、それが挑戦するシステムの性質のために大きな問題に直面しています。システムは主に、自己利益、競争、派閥政治の古いやり方によって支えられています。少数派の特権的な裕福層と強力な既得権益者を含んだ各国の多くの信奉者からのあの分裂的なシステムへの確固たる支持を過小評価しないようにしましょう。では、善意の人々は、彼らのアイデアや活動を指揮するリーダーを外部に求めることなく、世界中の何百万もの人々の支持をどのように得ることができるのでしょうか。この大規模な市民参加を開始するための正しいアプローチについてこれ以上繰り返す必要はないはずです:それは、私たちのハートを活性化させ、不断のデモンストレーションを通じて第25条を布告することによってより多くの人々に訴えかけることを要求します。私たち自身が大規模な協調した抗議デモを組織化しない限り、より良い世界が投票箱を通してもたらされると信じるなら、私たちは悲しくも間違っているのです。なぜなら、彼らがたとえ試みたとしても、私たちのために仕事をすることができる政治指導者は存在しないからです。そして、なぜ私たちは、自分たちよりも恵まれない人々のことを考えるように国を教育しようとしない政治家に投票すべきなのでしょうか – 特に、それが私たちの生活を支配する力を政党に与えていることを意味するなら。

これらの所見が、主流の民主的プロセスから私たちの支持を撤回するべき指示として理解されるべきではありません。しかし、確実にあなたも、国政選挙が危機的な世界情勢に何ら違いをもたらすのか自問したことがあるのではないでしょうか。政治家への投票と家庭のゴミのリサイクルを比較することができます。どちらの活動も必要であり、称賛に値するものですが、それ自体では悲惨な世界的動向を巻き返すためにほとんど影響はないのです。プラスチックをリサイクルすることは、地球温暖化の影響を緩和するのに十分なのでしょうか。そして、あなたの投票は、世界中の飢餓と貧困を終わらせるのに十分なのでしょうか。

私たちが自問すべき本当の問題は、なぜ政府が世界を救うことに失敗しているのかではなく、なぜ私たちが選出された代表者が適切な行動を取るように彼らを駆り立てることができないのかということです。今日の世界の指導者が人類全体の最高の利益を促進することを真剣に望んでいると仮定して、政治家が不道徳で腐敗したシステムの支配を一人で克服できないのは当然のことです。しかし、私たちが投票する男性や女性に最大の懸念として飢餓の即時終結を支持しなければならないと私たちは何度要求したのでしょうか。第25条の観点から、真の大統領または首相とは、貧困者自身に仕えるために投票箱ではなく、人間のハートによって選出された人々だけです。これには、とりわけ、政府が重要な役割を果たすことを怠っている一方で、医療、住居、食糧、その他の必需品を提供するために最善を尽くす何千もの非政府組織の献身的なワーカーが含まれます。

さらに、1日1ドル未満で生活する人の視点から民主主義の意味を見るのは有益です;生き残るための日々の闘いの中で、投票は何を達成するのでしょうか?「私の投票は私の力であり私の権利です」とあなたは言うのか、それとも、「民主主義などどうでも良い。私はただ食べたいだけだ」と答えるのでしょうか。富裕国の国民として、減税、年金の増額、移民抑制などについての利己的懸念の中で私が余りにいき詰まっているかもしれないため、私が持っている唯一の自由は、ビジネススーツ姿の狡い政治家から授けられるのです。それは、私が選んだ政治的主義に投票する自由です – それが私たちが意味するところの民主主義と自由のすべてであるのなら。しかし、人里離れた村またはスラム街の絶望的な貧困者として、二枚舌の政党の候補者によって賄賂を渡されたり強要されたりしない限り、私が投票を求められることはほとんどありそうもありません。たとえば、私がインドに住んでいるなら、国が毎年400億ドル以上を兵器に費やす一方で、最大の栄養不足人口を抱えるにもかかわらず、私は自国を世界最大の民主国家と呼ぶことになっているのです。あるいは、おそらく、私が裕福な政治家から授かった唯一の自由が、政府の支援なしに貧困で死ぬことであるところの、サブサハラ・アフリカのどこかの人里離れた紛争に苦しむコミュニティでは民主主義という言葉を聞いたことがありません。

したがって、この問題を真にグローバルで包括的な観点から、そして人類の神聖な平等性の霊的見解を通して考察するなら、どのような民主主義について私たちは話しているのでしょうか。資本主義者が民主主義について話しており、社会主義者が民主主義について話しており、今日、ファシストさえが民主主義について話しています。しかし、栄養失調で死にかけている人に投票する自由を誰が与えるのでしょうか – 他の政党を選出するための票ではなく、生きるための票を?これは、自国だけでの正義と「私の権利」のための闘いだけに焦点を合わせる代わりに、私たち全員がその人に与えるために戦ってくるべき票だったのです。私たちが認めたように、世界の飢餓者が生きるための票が政治家によって与えられることはないでしょう;それは、第25条に対する一致した要求を通して街頭に立つ人々によってのみもたらせ得るのです。そして、そのような票が私たちのやる気のなさや無関心を通して与えられることはありません;それは、私たちのハート、慈悲、良識が関与することによってのみ与えられるのです。しかし、極貧の恐ろしい現実が何十年にもわたって存続してきたにも関わらず、私たちがこれまでそうすることをできずにいたのは本当ではないでしょうか。そうであるなら、私たちは恥を知るべきです!

自分たちが立ち上がり行動すべきだと考える代わりに、「行動を起こさない政府のせいです」と言う人を注意深く観察しましょう。私たちの霊的結束と相互関連性の観点からこの心理的傾向を認識するならば、人々が貧困で死にかけているときに政治家を非難する行為そのものが、内部で自己を人類から切り離しているということです。私たちの集団的無頓着さは、私たちが特定のウィルスを「貧困者の病気」として表現するとき、それとなく露呈されている程です。それは、貧困者はどこかしら私たちとは異なり、彼ら自身の軽率さによって引き起こされたそれらの致命的な病気への責任があたかも彼らにあるかのようです。大部分が治療可能な病気の大発生は、本当に貧困者のせいなのでしょうか。それとも、それは政治家のせいなのか、あるいは私たちが知ることのないそれらの人々の予防可能な苦しみに対する自分たちの無頓着な態度ゆえ、本当は私たち全員が咎められるべきなのでしょうか。実に、もし私たちが一緒に、第25条がすべての国の法律として制定されるよう要求していたなら、私たちはずっと以前に発展途上国での病気と健康格差の根本原因に取り組むことができていたでしょう。すべての国のすべての市民に適切な住居、医療、衛生設備、良好な栄養摂取があれば、多くの致命的疾患は過去数十年において復活するのではなく、歴史の彼方に消えていたかもしれません。

このような内省は、コモンセンスの点から考えることの意味と、国際関係を統治するために分かち合いの原理を提唱することの意味を理解するのに役立つかもしれません。なぜなら、これは単純なアイデアや理想郷的提案ではなく – 本当の人生が存在するところだからです。貧しい人々を支援しようとする多くの援助組織は、第25条を布告するという人々の戦略に従った同情的な世界規模のデモによって彼らの努力が後押しされない限り、常に仕事に圧倒され、最終的には彼らの取り組みへのやる気を失ってしまうでしょう。絶え間ない苦闘と貧窮状態の中で生きる何百万人という貧困者が世界中にいます。彼らの多くが、彼らの状況が変わり得るという希望が与えられ招かれさえするなら、外に出て長期間抗議する準備があるのです。

だから、街頭に出ましょう。そして、どのような行動をとるべきかこれ以上問うのは止めましょう。この最重要の目的を達成するために、話し合いの場ですべての政党と協力するという誓約に加えて、飢餓と貧困の根絶が彼らの第一の議題でない限り、どの政治家にも投票するのを止めましょう。これが世界変革への常識的な行動方針ですが – 政治情勢の中で正常さを目覚めさせるために極端な手段が必要なこの段階にまで至ってしまったことがどれほど奇妙で悲しいことでしょうか。人類は大きな機能不全の家族のようであり、その多くの子供たちが虐待を受け、愛されることなく、最終的には舗道に立って両親に抗議することを余儀なくされていると想像してみてください。その壊れた家族の何と悲しく衝撃的な訴えであり、私たちのこの分裂した惑星で起こっていることに対するなんと悲しい見方でしょう。

豊かさの中の飢餓の惨劇など想像もできないほど進化した非常に霊的に進化した惑星に私たちが住んでいたとしましょう。では、私たちは、地球の生活を特徴づける大きな分裂、繰り返される紛争、そして不必要な苦しみをどう理解するつもりでしょうか。おそらく、この美しく豊かな世界に宇宙船を着陸させる必要すらありません;人々が遥か下方でお互いにどのようにやり取りしているかを観察するのに巨大な双眼鏡を覗き込むだけで十分でしょう。街頭で暴力的な抗議デモが見られたとしたら、「そこへ行くのは止めなさい!」ということを意味するでしょう。なぜならそれは、政府と市民の間に存在する亀裂と地球全体に浸透した霊的な不均衡を象徴するからです。しかし、分かち合い、歓喜、善意を表現する絶え間ないデモンストレーションに何百万人もの人々が集まっているのが見えたなら、ついでそれは「見続けなさい!」ということを意味します。なぜなら、もはや分裂したままでいることを望まず、貧困に喘ぐ同胞たちのために立ち上がっている人口の大部分によって明らかにされるように、結束した群衆は、新しい時代が到来している惑星的進化を象徴するだろうからです。ひいては、その惑星がその家族関係の性質と目標を完全に再評価し、最終的にその政事と世界経済の取り決めに分かち合いの原理を実現するのは単に時間の問題でしょう。

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要約すると、一点に向かって集中する世界の危機を解決するための主に2つの解決策があると見定められるかもしれません。第一に、もはや利益、競争、自己利益に動機づけられなくなった新しい形のグローバルな交流を通じて、国家間で不可欠な資源を分かち合う必要があります。そして第二に、私たちはこのより協力的で思いやりのある、よりシンプルな生活様式を維持するために必要な意識をもたらすことができる新しい教育をその間に開始しなければなりません。

21世紀において、人類はすでに私たちの相互関連性と結束の意識を非常に多くの方法で示しています。たとえば、それは商品やサービスのグローバル化された貿易(ただし、現在の形では不均衡で不公平)や、私たちの国際統合と関心の共通性を明らかにする世界的なコミュニケーションやスポーツイベントで目撃することができます。また、私たちの本質的な連帯性は、大規模な人命の損失を伴う自然災害に続く悲しみと寛大さのほとばしりに表されています。新しい教育は、私たちの惑星の相互依存性に関するこの初期の理解に基づいて構築されねばなりません。これにより、すべての国のすべての人が、正義、平和、正しい人間関係の達成に関連して世界の資源を分かち合うことの意味と重要性を認識するようになります。

子どもたちは、学校のカリキュラムの一環としてこれらの方針に沿って教育を受け、常にひつの人類の観点から考えることによって、各国の全体に対する独自の貢献と、各個人の固有の平等性と創造的可能性を理解する必要があります。社会科学、自然科学、人文科学、芸術などを理解するために学校教育が必要であるように、若者が「この世界において私は誰なのか」ということについて理解するのを助けることができる愛と知恵に基づいた種類の教育もあるのです。これにより、自己認識を通じて人間関係の中でマインドを平穏に、そしてハートを常に目覚めた状態に保つよう子供を訓練することができますが、そのような教育が取るべき具体的な形態について正確な詳細を与えることはこの本の範囲を超えています。学習と発達の形成段階において、いかなる種類の宗教的信念、政治的イデオロギー、または「主義」も子供の心に押し付けられるべきではないと言えば十分でしょう。さらに、若者に自己中心性なしで他人のことをどのように考え、利益創出と個人主義的競争の優位性が過去の遺物となった世界でどのように公益のために仕えるべきかを教える特別または補完的なシラバスをすべての学校で導入すべきです。

この形式の教育がどのような速度で導入されるかは、世界規模で行わなければならない経済および政治の同時改革に決定的に依存します。このため、学校の授業には、分かち合いと協力の原理が持続可能なグローバル経済システムの基盤をどのように成すかということに関する基本的な教えを最初に含める必要があります。すべての子供たちは、人間同士そして人間と自然環境の主観的な相互関係を理解し、世界の蓄積された富、資源、技術、知識を国家間でより平等かつ自由に分かち合うことの結果として生じる重要性を理解するように手引きされるべきです。家族の中でお互いが持っているものを自然に分かち合うように、国々という家族は、余剰資源が何らかの形の世界的な備蓄に託され、利益や貪欲ではなく分かち合いに基づいて、必要に応じて再分配されるようにその行政を調整しなければなりません。

このような率直な概念はこれ以上単純であり得ず、いつの日か、すべての人々と国家の間の正しい関係の意味についての最も初歩的な導入を表すかもしれません。分かち合いの原理の最も真の表現が将来の国際経済システムの基礎になると信じることができれば、おそらく、時代遅れのイデオロギーや主義にもはや条件づけられていない最年少世代の誰1人として、最終的に学校を卒業するときトップの政治家になるという野心を募らせることはないでしょう。しかし、子供が成長して大統領や首相になったとしても、彼は自国が他のすべての国と平和に暮らせるようにする方法を正確にわかっているでしょう。

これまでの考察を振り返ることで、私たちは再び、世界の問題は非常に複雑でありながら、解決が非常に簡単であると推測するかもしれません。私たちのコミュニティ、社会、国際情勢の中に分かち合いの原理を体系的に実現することにより、グローバルな経済的枠組みの再構築と簡素化が必要になるでしょう。それはまた、このよりシンプルで啓発された社会秩序を維持するために、正しい人間関係に基づく新しい教育の発足を必要とするでしょう。これはすべて、それに緊急に続かねばならない政治的および経済的変革に必要な基盤となる第25条を集団で布告することから始まります。この理解から、第25条は「人権」の実現を求めているのではなく、まさにこの地球上での正しい人間関係の始まりを求めているのです。これらの基本的な条件が何世代にもわたって万人のために堅固に確立されるとき、第25条はもはや言及されることさえなく、「常識の条項」として歴史家によって思い出されるだけかもしれません。

そのような変革が世界を席巻しているとき、正しい人間関係を内向きおよび心理的にそして社会全体で外向きに教え込む、この新しい教育様式を開始するよう人類は自由に鼓舞されるでしょう。これらは、個人とその個人の社会環境の両方に関して考察すべき2つの正しい関係の形式です。なぜなら、人が自己と正しい関係にあるとき、その人は他人との正しい関係へと自然に導かれるからです。内面の熟考と外面の観察を通してこの事実上の現実を確かめることにより、第25条を実現することの計り知れない重要性をさらに再確認するかもしれません。なぜなら、私たちが発見するであろうように、第25条は破壊的な自己消費の騒乱に最終的にバランスを再びもたらすであろう分かち合いの原理の影であるからです。したがって、それは私たちお互いと自然界との関係において、よりシンプルで持続可能な、そして平和的な生活へのドアを開くでしょう。

正しい人間関係の意味を考えるとき、偉大な医師あるいは惑星規模の心理療法士として分かち合いの原理を想像することも役立ちます – それは、飢えた人々に食糧を与え、病人を癒し;破損した家族を修復し、精神的健康を回復させ;コミュニティを再構築し、自信と創造力を取り戻すために個人を育成するなど、考えられるあらゆる方法で癒す力を持っています。したがって、あなたが個人またはグループとして自分自身を癒したいなら、分かち合いの原理を世界情勢に実現することを提唱し、あなたのエネルギーのすべてを使って第25条を布告することにより人類に仕えてください。それが、分裂と呼ばれる病の集中を自己から分散させ、正しい人間関係に基づいて新しい地球を確立するための役割を果たす方法です。

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提案されたやり方で、何百万人という人々に街頭に集まるようどのように納得させることができるのかとそれでも読者は問うかもしれません。その疑問に対して筆者は、そのような質問に答える責任は読者自身にあるとしか言うことができません。これらの重要な大衆抗議デモを「どのように」もたらすかについては、世界変革のための人々の戦略として第25条を布告することの意味と可能性をあらゆる側面から個人的に検討することを推奨する以外、これ以上の指針を与えることはできないのです。1人の個人が時宜を得た瞬間に、「99%」のパワーを宣言するというアイデアの火つけ役となったように、口火を切ることがすべてです。そして、そのときは近しです – 事実、それはずっと以前から来ていたのです – 世界中でデモンストレーションをすることにより、国連内で第25条を復活させるときが。

「どのようにして」というこの疑問にはまた、大変簡単に答えることができます;あなたにはあなたのハートを目覚めさせる以上のことは必要ないのです。なぜなら、各人そしてすべての人のハートには全人類の愛と知恵が埋め込まれているからです。富裕者が世界を見直し、内部で観察するなら、「なんてことだろう。あらゆるところに沢山のお金と富があるのに、多くの人が貧困で死んでいる!」というそのありふれた観察自体が、従事するハートを通して実現される知恵の始まりを表しているのです。そして、その人が人間の苦しみを和らげるために自分の富を分かち合うことを誓うなら、その行為自体がこの世界の愛と知恵の小さな現れを象徴するのです。ハートの属性は常にシンプルでありながら、計り知れないほど賢明です。それは、私たちの自己満足的な無頓着さ、無関心、マインドの条件づけのすべてにもかかわらず、人間としての自己の真の姿を認識するよう私たちを導くことができるからです。したがって、私たちのハートの特質を解放するためにきっかけが必要なら、それは、「飢餓と貧困をこれを限りに終わらせよう。なぜなら、今そのときがついにきており、十分な人々が参加するなら本当に可能だからです!」と話す、条件づけから自由になった叡智の輝きなのです。

ほとんどの善意の人は強く条件づけられており、危機的な世界の状況に気づいていないことは事実です。人間の剥奪の圧倒的な程度を知りながら何もしないことさえ、残念ながら私たちの条件づけの一部です。したがって、「どのようにこれが始まるのか?」という問いに対して、「あなたの直感とより多くのコモンセンスを使うことによってです!」と言う以外に何が言えるでしょうか。人類の大部分が現在この呼びかけを聞く準備ができているので、私たち全員が同じ目的のために戦っているのだということを認識し、私たちのハートを従事させ結束しましょう。第25条に、生きる喜び、創造的である喜び、人類が1つであることをついに認識する喜びをもう一度私たちにもたらしてもらいましょう。

私たちはあまりに混乱した局面に達しているようであり、この「どのように」という問いは、政治派閥や無数の推論的理論からの無数の相反する答えの中で失われています。「もう一つの世界が可能」だと宣言する活動家は、惑星規模の変革のための包括的で実行可能な戦略をもたらす上で、このすべての多様な考えの舵をとることができません。もう一つの世界が可能だとというのは本当かもしれませんが、(主義やイデオロギーから自由となった)コモンセンスと膨大な数の人々のハートの参加なくしてその実現は不可能です。しかし、私たちはあまりに長い間自分たちのハートに耳を傾けることを拒否してきたので、世界情勢は破局の頂点へ急速に近づいており、神の介入しか私たちを救うことができないようです。私たちの現代文明は、それ自体の傲慢さと無謀さによって、気候さえがほとんど修復不可能な段階に至るまで窮地に追い込まれています。

やや不適切にも、世界の無数の教会、シナゴーグ、モスク、寺院の宗教的な長老たちは、死にゆく貧しい人々を救うために、この緊急のメッセージを広めることをいつでもできたはずです。特に、キリスト教会にとって、群衆を集めたり、神聖な主義へ避難することにすべての時間を費やす代わりに、豊かな世界の中の飢餓の不正義について不断に話し続けることがなぜそれほど難しいのかを私たちは問うかもしれません。なぜなら、マリアとイエスを排他的に崇拝するのでなく、世界を癒すために彼らの会衆を教育することによって、彼らがキリストの教えの現代的な関連性に注意を払うかもしれないからです。[14]どのようにハートを従事させ、他人に奉仕するかを、教会は初めから人類を常に教育すべきだったと議論することができます。それは、その恥ずべき歴史のすべてのドグマ、分裂、スキャンダルの真っ只中で、教会が大部分放棄してきた役割です。今まで常にそうであったように、政治家および聖職者の両方が権力や個人的特権の考えに動機づけられているとき、彼らの間に心理的な違いはないのです:神の目から見て「選ばれた者」となることを神父が切望する一方で、歴史に名を残すことを政治家は切望します。どの政治家であろうと神父であろうと、分かち合いの原理を通じて、人間の苦しみを癒すという目標に彼らの人生を捧げることができていないなら、真の公務についても、イエスの名において慈悲心についても何もわかっていないと言って過言ではありません。

予言されているようにキリストが現代の世界に戻り、テレビ画面で劇的に彼自身の臨在を宣言すると想像してみてください;政府と全人類への彼の神聖な助言は、全体的にどのようなものでしょうか。は資本主義を解体し、社会主義的な代替案をもたらすことについて複雑な学術用語で話すのか、それとも私たちのハートが他者のことを考えて即刻飢える人々を救うよう呼びかけるのでしょうか。は私たちに隣人と、そして自分たちのコミュニティ内だけで分かち合うよう助言するのか、それとも正義、慈悲、正しい人間関係に基づいて世界資源を分かち合うよう助言するのでしょうか。おそらく、の助言は人類の問題についての彼の完全な知識にもかかわらず非常に明白で簡単なものであり、第25条は対立する主義と商業化勢力にとらわれている分裂した世界への矯正手段であるとは賢明に理解しているでしょう。

しかし、どれだけの人がのシンプルな助言に従うと思いますか。どれだけの人が分かち合い、世界を救出するというの謙虚な指示に憤慨するでしょうか。そして、ペンテコステの普遍的な経験の中でキリストの愛に包まれたとしても、どれだけの人が胸が張り裂けるようなの言葉に無関心で居続けるのでしょうか。これら3つの反応すべての中で、私たちが最も懸念すべきは最後の反応です。意義を唱える人は少なくとも自分で考えており、考えを変える可能性がりますが、3番目の自己満足的で無頓着な反応は、社会に浸透し、何千年もの間人類の進化を妨げてきた根深い無関心を表しているため、はるかに厄介です。今では、神々は人間の人間に対する不人情さには慣れていると私たちは推測するかもしれません – しかし、歴史が繰り返すのを可能にする私たちの自己満足的な無頓着さと無関心に彼らが慣れることは決してありませんでした。らの神聖な観点から、おそらくこれが、血まみれの紛争と目に余る不正義が代々受け継がれ永続する本当の理由です。

残念ながら、これらの想像は、社会全体を統合するためのいくつかの主要な前例が、大きな戦争または完全な経済崩壊によるものであるとき、不吉な結論に導きます。世界を変革するために、私たちは第一に、同じ善意のある目標に無数の人々のハートを従事させねばならないというのが本当なら、歴史はこの巨大な任務を開始できるかもしれない2人の世界の救世主が実際にいることを示唆しています。宗教に傾倒する多くの人々が偉大なメシアやマハディの突然の帰還を期待している一方で、過去の古い利己的および競争的なやり方の断続がもはや可能でなくなるためにはグローバル経済の完全な崩壊が必要なのだと合理的に結論づける人々もいるようです。確かに、人々が互いに助け合い、持っているものを分かち合うことによって生き残ることを余儀なくされるとき、社会関係において心理的に分離、分割されたままでなく違った生き方が可能であることが容易に理解できます。私たちが困っている誰かとただニシンの缶詰を分かち合うだけでも、そのギブアンドテイクの簡単な行為の中に歓喜の動きがあるのです。さらに、選択の余地がなく分かち合うそれらの人々は、その必然的な結果がいかに短命であろうと、またはいかに小規模であろうと、彼らのコミュニティ内で平和の香りを予想外に感じとるかもしれません。なぜなら、分かち合いの原理は、それがどのような状況下で適応されようとも、コミュニティ・レベルから国際レベルに至るまで、常に歓喜と平和に関連しているからです。

したがって、私たちは多分、自分たちの条件づけを振り払い、恵まれない人々の苦しみへの無関心を克服し、不可欠なリソースを絶えず剥奪されている何百万という人々の苦悩に対して私たちのハートを目覚めさせるために、世界規模の恒久的な経済崩壊を必要とするのです。おそらく、私たちは一緒に立ち上がって正しい道を歩み始める前に、集合的に転倒しなければならないのです。なぜなら、私たちは、ハートへの道理ある訴えかけによってではなく、常に劇的な要因と大惨事を通して行動に駆り立てられるからです。言い換えれば、人類が必要とするものはただ愛ではなく、私たちが長年示してきた懸念の欠如と無関心が原因となった恐るべき危機かもしれません。

それでも、私たちはまだ古い考え方に非常に強く条件づけられているため、経済が以前の成長状態と見せ掛けの安定性に戻ることができると思い込み、物質主義的で偏狭な生活様式へ再び舞い戻るかもしれません。今日でも、デモ行進や社会運動の多くは、すべての人の平等な利益のための世界変革に関するものではなく、富裕者と貧困者の間の痛切な格差を維持する体系的な不正義についての考えは皆無であり、むしろ以前の生活様式を政府に取り戻させるために戦っています。そのような態度は、どれだけ一般市民が政治家と同じくらい社会の問題について責められるべきであるかを再びあらわにしています。なぜなら、公衆意識全体に浸透している同じメンタリティを政府が常に反映しているからです。政治家は、彼らが推進するイデオロギーが何であれ、一般的に彼らの意図に誠実であり続ける単なる人間であり、対立するさまざまな政治的主義への部族的な固守を通じて、彼らの二極化した思考を維持するのは大衆であることを忘れないでください。

この事実にだけでも私たちの時代の最大の危険があります。なぜなら、いくつかの社会で異なった分派が権力の座にあり続ける者を退けようとするなら、世界経済の大きな崩壊が最終的に暴力と革命につながる可能性があるからです。また、公衆の暴動は、主要な政治家と支配的な経済勢力の全面的な支持の中、ほとんどの国でこの出来事に備えて巨大な国家機構が事前に準備されていることから極度に危険だということを忘れないでください。したがって、国際経済システムの次の崩壊の後、十分な人々が政府に暴力的に抗議するなら、広範な社会動乱やさらに多くの内戦の勃発を予想できます。2011年以来、中東に痛々しいほど見られてきたように、さまざまな派閥や「主義」が独裁的リーダーシップに反対するとき、彼らが最終的に互いに戦い始めることは避けられません。

不安定な世界情勢に新たな方向を与える唯一の平和的な方法は、非常にシンプルであるため、今一度繰り返す必要があります:すなわち、イデオロギーや個人的な自己利益を考えずに、ハートの特質を大規模な世界的な集まりに従事させることです。なぜなら、活性化された人間のハートは無限に賢明で、「対立」することができないからです。先駆的な若者はすでに世界に氾濫しているこの新しいエネルギーに同調しており、彼らは「これは私のものであり、あなたのものではない」、「あなたは黒人で私は白人」、「それは私の国の利益にならない」、または「あなたは毎日を同じように生きねばならない」と話す古い意識から離れるときがきていることを知っているのです。多くの若々しい活動家の激しく革新的な見解は、私たちの長く恥ずべき過去を代表する人々によって認識され、非常に注意深く耳を傾けられないなら、社会にさらなる危険を突きつけるにもかかわらず、この迅速に出現し統一する意識は私たちに未来に希望をもつべき多くの理由を与えてくれます。

決算の日は近しです。したがって、私たちはこのより包括的な時代をどのように開始するつもりでしょうか。社会主義を使うつもりでしょうか。あるいは無政府主義を使うつもりなのか、または宗教を使うつもりでしょうか。それとも、政府が世界資源を分かち合うことに全力を傾けるまで、数え切れない人数で平和的に結束するつもりなのでしょうか。一度のデモンストレーションでは決して成功しないでしょう。別々の日に100のデモンストレーションをしても、おそらく、そんなに多くを達成しないでしょう。しかし、第25条の実現を一貫した基盤として、世界中で同時に起こる何百万もの無数のデモンストレーションを毎日止むことなく続けたなら?それで十分かもしれません。

 
 

頼むから、数多くの人生の中で
一度は、結束しよう。

 


注釈

[1] このシリーズの出版物の完全リストは以下を参照:sharing.org/studies 

[2] Cf.商業化:分かち合いの対極」、分かち合いの原理についての考察、Troubadour Publishing, 2020

[3] 2015年、国連加盟国の193ヵ国すべてが、17の相互に関連する目標を含む持続可能な開発のための2030アジェンダを批准しました。持続可能な開発目標(SDGs)または「グローバル目標」として知られるこれらは、「あらゆる形態の貧困を終わらせ」、「誰も置き去りにしない」という多くの称賛に値する目的を持ったターゲットと指標の詳細なリストで構成されています。ミレニアム開発目標と呼ばれる前のものとは異なり、SDGsは、多くの野心的な環境目標を含みながら、グローバル・ノースとサウスの両方の国々に適用されます。しかし、市民社会グループは、今日の危機のより深い構造的原因に挑戦しなかったとして、SDGsを厳しく批判しました。また、それらは、資源をより平等に国内および国家間で再分配する必要性を明確に反映していません。世界経済の後退、開発援助の減少、国連活動の縮小、多国間協力からの撤退という現在の状況では、SDGsが、宣言された変革のビジョンを達成する見込みはほとんどありません。

[4] 不朽の知恵は、宇宙のエネルギー構造、人間と自然の意識の進化、そして「正しい人間関係」に重点を置いた私たちの生活の霊的現実に関する古代の教えを指します。それは、時代を超えて芸術と科学にインスピレーションを提供しながら、主要な宗教的伝統の根底にある秘教的または隠された教えをつなぐ黄金の糸として説明されてきました。何千年も前からのこの教えは、人々自身の生活や経験の中で活発に表現されているその漸進的に啓示的な性質のために、「古代」ではなく「不朽」と呼ばれています。過去1世紀にわたって、これらの教えの顕教的な形式は、神智学協会の創設者であるH・P・ブラバツキーによって一般に公開された後、後にアリス・A・ベイリー、ヘレナ・ローリッヒ、ベンジャミン・クレームなどの著作を通じて西洋に広く広まりました。

[5] ウイリー・ブラント、北と南:生存のための戦略(ブラント委員会報告)、日経新聞社、1980年;Willy Brandt, Common Crisis, North-South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission, London: Pan 1983.

[6] 世界の貧困の真の範囲は、一般的に平均的な市民には知られておらず、主流メディアによって過小報告されています(無視されていないとしたら)。世界銀行の現在の推定によると、2015年には世界の人口の10%(7億3400万人)の収入が1日1.90ドル未満なら極度の貧困と定義される状態で生活していました。同時に、南アジアとサハラ以南のアフリカの人口の約90%を含め、人類の40%以上が1日5.50ドル未満で生活していました。正確なデータを入手するのが難しい、回避可能な貧困関連の原因で亡くなる膨大な数の人々についてはさらに知られていません。2012年、STWRは、栄養価の高い食品、安全な飲料水、適切な医療などの不可欠な商品やサービスへのアクセスが不足しているため、毎年1,500万人が死亡していると推定しました。この見積もりは、世界保健機関の数値に基づいていました(疾病および傷害の地域推定、死因別死亡率:2008年の地域推定)。これは毎日40,000人に相当し、その大部分は低中所得国で発生し、大部分は予防可能であると考えられています。他の国連組織(国連人口部やユニセフなど)からのデータは、より大きな推定値を示しており、その数の最大3分の2に5歳未満の子供が含まれています。わかりやすく言うと、この生命の喪失は、すべての人間の死の約3分の1を占め、第二次世界大戦以来の歴史上の他のどの単一の出来事による死者数をもはるかに上回っています。飢餓は依然として世界中で最大の健康リスクであり、エイズ、結核、マラリアによる死者数を合わせたものよりも多くの人々を死亡させています。 

[7] ウイリー・ブラント、 op cit.

[8] ブラント委員会の提言に続いて198110月、先進8ヵ国および発展途上14ヵ国のリーダーが、世界の貧困問題に関する長年の交渉のいき詰まりの打開を狙ったサミットのためにメキシコのカンクンに集まりました。国家代表者が2日間インフォーマルなセッティングで会合することによって、世界的交渉を進展させる勢いと善意が期待されました。しかし、最終的に、確固とした提言は実現されず、資源の世界的再分配へのグローバル・サウスの国々の要求は充たされないままとなりました。アメリカのロナルド・レーガン大統領は、少数派の先進諸国と多数派の貧困諸国の間の経済格差の溝を埋めるというサミットの狙いを顕著にはねつけました。今日、ブラント委員会の勧告のすべてが適切ではないにせよ(環境的限界に迅速に近づくこの時代において、増大する貿易自由化と世界的なケインジアン経済政策を特に強調している点で)、政策策定者と市民社会運動家が、その「優先プログラム」およびさらに公平な世界へのそのビジョンから引き出せるものはまだ数多くあります。何よりもこれは、発展途上国および遠大な農業改革への大規模な資源の移動を必要とするだろう5年間の緊急プログラムの提案を含んでいます。委員会はまた、新しい世界的貨幣制度、開発金融への新アプローチ、協調された軍備縮小プロセス、および非再生可能エネルギー源への依存からの世界的移行も呼びかけていました。現在に至るまで、国際社会は、「関連国際機関の支持と協力を通して、すべての国の間で南北問題の全範囲について話し合う」ための多国間プロセスであるブラントのビジョンをまだ実現していません (Common Crisis, 1983)

[9] Ibid.

[10] 注釈6を参照。

[11]奮い立て、アメリカよ、奮い立て!」、分かち合いの原理についての考察 Troubadour Publishing, 2020.

[12] この一連の推論は、気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点:モハメッド・ソフィアン・メスバヒとの対話、Troubadour Publishing、2020年でも探求されています。

[13] これらのコメントは、2007年から2008年の金融危機から約7年後に最初に書かれました。しかし、同じ見解が2020-21年の世界の状況にも等しく関連しています。社会の最貧層に偏って影響を与える世界的パンデミックに続いて、各国は依然として、すべての人々の基本的な社会経済的権利を守る国際的な対応を調整することに失敗しています。

[14] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「クリスマスとシステムと私」、分かち合いの原理についての考察、Troubadour Publishing, 2020年。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒは英国ロンドンを拠点としたシェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)の創設者である。STWRは、国連経済社会理事会の協議資格を持つ非営利市民社会組織であり、英国における登録番号は4854864。

編集協力:アダム・パーソンズ

翻訳:村田穂高

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