分かち合いの経済:ハートの時代の幕開け

Mohammed Sofiane Mesbahi

近年、分かち合いの経済のビジョンは、大衆の想像力を掻き立ててきましたが、世界の一点集中する危機との関係からそれは何を意味するのでしょうか?

モハメッド・ソフィアン・メスバヒはこの本の中で、資源を分かち合うという考えは、特に不必要な貧困と飢餓の惨事への対応として常に政府に向けられるべきだったと主張しています。個人的にも政治的にも多大な意味合いを持つ、国連を通じての世界情勢における分かち合いの原理の実現が何を意味するのかを彼は思い描きます。彼が明らかにするように、私たちはグローバルな統一感や一体感を持つことなくして、公正な経済秩序を実現すること、そしてまた、最終的に生きる術自己実現に基づいた新たな霊的教育を実現することはできないのです。

編集者の序文 

Part I: 「分かち合う」ことの意味

Part II: 内から外への分かち合いの経済へ

Part III: 在る術のための霊性教育

Part IV: 国連の秘教的重要性

Part V: 最新技術の問題

結論

アネックス:ギフト経済とバーター

注釈

著者について

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編集者の序文

sharing.orgで最初に発表されてから5年後の2021年後半に、この本が出版される予定であると同時に、分かち合いの経済/シェアリングエコノミーのアイデアへの熱気がどのように激減したかを観察するのは興味深いことです。この言葉は常に曖昧で、その真の意味は解釈によって大きく異なります。人々がお互いに自由に所有物を分かち合ったり、社会の恵まれない人々を自発的に助けたりすると同時に、今日の一般人の多くは、伝統的および地域社会的な意味で分かち合いの経済を理解しているかもしれません。同時に、現代の分かち合いの支持者の多くは、人間関係を変革し緊急の社会問題に対処するためのピアツーピア技術の開発に熱中し続けています。

元来、この新しい分かち合いのムーブメントに直接従事したり、金融危機後におけるその突然の進展を批判したりすることは著者の意図ではありませんでしたが、最初の章で立てられた予測が正確であったことは注目に値します。利益に駆り立てられたシェアリングエコノミーの新しいビジネスベンチャーは、投資家に何百万ドルもの収益をもたらしていますが、それは世界の高まる人間および環境の緊急事態に対する国民の意識を高めることに貢献したのでしょうか?これらの商業化された形態の個人間の分かち合いが最終的には「崩壊し長期的には不要になる」ことは避けられないのではないでしょうか。

それでも、分かち合いの経済の真に道徳的および政治的アイデアは、21世紀の私たちの生活に最大限の関連性を持ち続けます。シェア·ザ·ワールズ·リゾースィズ(STWR)の創設者としての著者の視点から、そのアイデアは常に、貧しい人々、特に、急性栄養失調やその他の深刻な物質的剥奪に苦しむ人々に属してきました。それは、貧困や紛争や生態系の破壊を終わらせるために国内に限らず国連を通じて世界的にも、常に政府に向けられているべきだったというアイデアです。ですから、分かち合いのための真の社会運動は、正義と人権の精力的な追求に基づいていて、より大きな共通善のために世界の優先事項を再調整するために苦闘するすべての人から成り立っているのです。

分かち合いの経済についてのこのシンプルな理解は、悲しいかな、主流の聴衆に届くまでにはまだほど遠いのです。しかしモハメッド·メスバヒは、分かち合いの原理の内なる側面または霊的側面への追求をさらに突き詰めていきます。そしてそれはその最も長期的な、内部に向かっての変革的意味合いを指し示しています。結果として、私たちは、何千年にもわたって人類に放たれてきた不朽の知恵の教えに反映されるように、在る術自己実現に基づいた新しい霊的教育の重要性について熟考するよう導かれます。

このような一連の探求は、まだそのときが到来していない、分かち合いの経済の最高の解釈を包含します。世界中の人々がこの先駆的なビジョンを受け入れ、私たちの悲惨にも分裂した世界を変革するための多大な取り組みに着手するまでそう長くかからないことを願います。

2021年6月、イギリス、ロンドン

PART I: 「分かち合う」ことの意味

愛と呼ばれるエネルギーは、私たち個人の人生の中で、霊的進化を通じて
私たちを導くためにいつでもそこにあったのです。しかし
生涯から
生涯へと私たちは反対側ばかり見てきました。それゆえ、
機能不全の文明の哀しく痛々しい歴史が常に綴られてきたのです。

分かち合いの経済とは何でしょうか。そして、今日の私たちが住む世界にとって、その意味と重要性は何でしょうか。あなたがこの質問の答えをインターネットで検索しようとするなら、討論や誤解を招く定義の数多くにすぐさま遭遇するでしょう。分かち合いの経済/シェアリングエコノミーは、ピアツーピア·プラットフォームを通じて情報技術を活用し、物々交換/バーターや賃貸借や個人資産の交換によって個人が物資やサービスを分かち合うことができるようにする、今世紀の浮上する驚異として一般的に理解されています。また、共通の目標や目的を持って結束する非公式グループを通してであろうと、技術、時間、知識、生産空間への共同アクセスを提供する協力的努力を通してであろうと、コミュニティが日常生活でもっと分かち合うことができるようにするこの幅広い傘下での非貨幣化イニシアチブも復活しています。近年、これらの最も人気を博したイニシアチブに執拗につきまとってきた一部の論争にもかかわらず、主要な提唱者の多くは分かち合いの経済がより公平で参加型の環境的に持続可能な世界への社会的移行の誘発をどのように促進できるかということについての理想的ビジョンを支持し続けています。[1]

しかし、これらの技術主導型の革新は、現代社会において「分かち合う」ことの意味するものを本当に総合した結果なのでしょうか。そして迅速に拡大する分かち合いの経済の動向について解説者が非常にしばしば述べているように、今日それがまだその初期段階にあるというのは本当でしょうか。真実は、分かち合いは、疑いなく人間の特質として常に私たちと共に存在してきたのです。そしてそれは秘教哲学の中で多くの仮説が立てられているさらに高度な霊的領域だけでなく、人間より下位の自然王国においてさえ適用されています。スマートフォンや先端技術の必要なしでいつでも私たちは自分たちの家の中と仲間内で分かち合ってきました。これは、食料や所有物やその他の生活必需品などの分かち合いはもとより、私たちの健康と繁栄の基礎である居住空間や共生の喜びや支え合いをも含みます。私たちは共有地を近所の人とコミュニティとで分かち合います;私たちは道路、公共交通機関、自分たちを囲む空気と自然を分かち合います。分かち合いを対人関係および共同体ベースで営んでいなかったなら、私たち人間の文明は最初のヒト科以来、決して生き残っていなかったでしょう。それは実に、行動科学者や人類学者が、本来私たちに備わる本質的な性質として長く認識してきた進化的形質です。[2]

それはまたどのように初期的または不十分であろうと、政府の適切な活動を通して、共通善のために国内および国際レベル双方で必然的に表現される特質でもあります。たとえば現代の福祉国家が、1880年代にドイツのビスマルクによって導入された社会保障構想にその根源を持つ一方で、ローマ帝国は、経済的分かち合いの多くの形態を組織化したことで知られています。英国によって1940年代にもたらされた国民医療サービスは、西ヨーロッパや他の先進国全体でその様々な形態において同じように確立されましたが、不安定な生活から全市民を守るために存在する、分かち合いの経済の現代の歴史においておそらく一番の実例でしょう。国内の分かち合いの多様なレベルおよびモデルの中で、再分配政策を通じての社会的保護の普遍性という理想は、議論の余地があるにしても人類がまだ実現していない経済的分かち合いの最も実際的な表現です。[3]

しかし、すべての人が、この単純な見解に同意するわけではないでしょう。私たちの時代においては、そのような公的資金によるシステムの創設原則 – 平等な機会、富の公平な分配、そして万人の基本的人権確保の集団的責任 – は、社会の市場志向によってますます脅かされています。そして、私たちがこれから概括的に明らかにするように、政府間の協力を通じてのこれらのコア原則の世界的実現は、過去何十年かの国際的な経済融合の迅速なプロセスに関わらず21世紀初頭の現実からは程遠いのです。[4] それでもなお、分かち合いの経済が、何らかの形でこれまで常に私たちと共に存在したのだという事実は依然として残ります。グローバル経済システムを支える原理としてのこのなくてはならない現れを、私たちがどんなに長い間回避することに成功してきたとしても、分かち合いが私たちの日常生活の中でその役割を常に果たしてきたということは明らかなはずです。たとえそれに対する理解の大部分が商業分野で出現する協力の形に限られていようとも、今初めて私たちは経済生活の根本原理として分かち合いおよび協力の重要さに対して突如意識的になっているようです。

確かに、資源の所有権よりむしろアクセスに基づいたこれらの新しい社会的活動はまだ初期段階にありますが、それらは実際には、現代の事業方式と高度なコンピューター技術によって今促進されている、社会的相互関係の古代の習慣の再現なのです。現在そのような洗練されたデジタル技術により、すべてが以前より急速に起こっているためそれが完全に新しいものだという錯覚を起こさせるにもかかわらず、根底にある交流形態ははるか以前の人類文明と比較できるものです。

過去数十年間の進歩する技術と迅速に感じられる時間の経過との間にもまた観察されるべき奇妙な関係があります。これは、社会が大変急速に進化しており、経済および社会情勢において分かち合いが決定的な機能様式となり得る新しい時代に私たちが近づいているという感覚さえをさらに生じさせています。そのような印象の真実は確かに実証されるかもしれませんが、すべての場所で人間の意識に浸透するこのビジョンある思考形態に私たちがどのように真剣に応じているか知れなくとも、分かち合いが世界全体にとって何を意味するのかを私たちは正確に理解しているのでしょうか。

*

「経済」という言葉を「分かち合い」という言葉に加える前に、商業化勢力が非常な混乱と破壊を生みだしているこの不幸な惑星の状況下で、私たちはまず初めに分かち合いそのものの人的価値について熟考すべきです。世界問題に関連して、分かち合いが何を意味するかを探求することに私たちが真剣に興味を持つなら、横行する商業化が、理論的および文字通りの意味で、分かち合いとは反対の傾向にあるのだという事実に基づきそれは今日人類が直面する最大の危険なのだと認識し始めなければなりません。[5] これはむしろ、大変単純な見解のように聞こえるかもしれませんが、国内および国家間の生活水準に非常な格差をもたらし、何世紀にもわたる植民地主義、帝国主義、自由放任のグロバリゼーションの結果として生じた非常に不平等な世界の中で、発展可能な分かち合いの経済がどのように可能なのでしょうか。[6] それでも、豊かさの中で蔓延する極貧の永続的犯罪への解毒剤として世界資源を分かち合うことへの緊急な必要性を理解するという、基本的な見地から始めているのは僅か一握りの分かち合いの経済の提唱者だけのようです。

おそらくあなたは、貧困率は徐々に改善しておりそのような問題の解決は政府に任せておけば良いと思っているかもしれません。詰まるところ、ほとんどの主流の政治家やビジネスエグゼクティブが、年に一度のダボスでの世界経済フォーラムなどの注目を浴びた会議においてそのようなメッセージを広め続けています。[7] 先例のない規模で拡大する富と所得の格差という明らかな証拠にもかかわらず、一部の支援および開発組織でさえが、少数派の繁栄が最終的に大多数派の利益をもたらすという神話を信じるよううまく嵌められてきたのです。

国連のポスト2015年開発アジェンダに最近明記されたように、国家のリーダーたちは2030年までに貧困の全形態を根絶すると誓ったかもしれません。[8] しかし私たちがどこかで考察したように、政府が「商業化パラダイム」の支配下にあり続ける間は、そのような約束が当てにならないことを理解するのは容易です。[9] つまり、政府の政策立案・決定に対して大企業が過度の影響力を振るうことが一般的である政治的状況が – 各人の確立された経済的・社会的権利を尊重、保護および充足するために必要な国際的取り決めにコミットする国々を想像することを不可能にします。広く予想されている通り、次の世界経済危機が起こったら、悲惨な苦しみにあえぐ最貧困層の人たちを既存の政権が即時優先するなどと私たちは本当に信じるのでしょうか。そして、たとえ極貧率が激増しても、ダボスに集まる高貴なエリートたちがビジネス取引からの利益をそのために犠牲にするなどと私たちは信じるのでしょうか。

すべての国のすべての人の共通のニーズを充足できるグローバル・プロセスとしての分かち合いの原理を実現することに私たちが真に関心を持つなら、これらが自問すべき種類の政治的および道徳的疑問であると考えられるかもしれません。しかし残念ながら現在理解されている分かち合いの経済は、一点集中する多数の危機への反応として文明的緊急事態に基づき人類が資源をより公平に分かち合わなければならないという意識から生まれたわけではまったくないのです。今日の分かち合いの経済は、大部分が商業的活動、そして有益な快適環境にアクセスすることについての漠然とした集産主義的観念に関係していますが、人類の生存のためにこの地球の豊かな生産物を皆で分かち合わねばならないという意識とは関係ないのです。それは、栄養不良およびその他の非情な貧困関係の剥奪に苦しむ30億人以上の世界の飢餓者と貧困者を助けるという考えとは確実に無縁なのです。[10]

分かち合いの経済の環境的利益を信奉する人々でさえ、危機的な世界情勢との関係からの分かち合いの意味に対して適切な関心がありません。カーシェアリングは道路上の交通量を削減するとか、ツールライブラリーは裕福なコミュニティにおける個人消費を削減することを意味するなどの議論について考えてください。そのような事例の正当性は経験的に実証されるかもしれませんが、それが分かち合いに関する私たちの思考の範囲であるなら、消費主義の条件づけや「主義」の中にいまだ私たちはとらわれており自分たちの意識を「消費削減」というアイデアに制限しているのです。それは正しく構想され普遍的に表現される分かち合いの経済とは何の関係もないのです。商業化が新技術の中にどのように隠れているのか、そして自分たちの周りのより大きな環境および社会問題について無関心で居続けるかたわら高価な商品を際限なく購入し消費するよう私たちを条件づける勢力が、どのように自分たちを盲目的にするかを気づくよう私たちは注意すべきです。

共同所有のインターネット・プラットフォームの利用から生じるかもしれない好ましい社会的効果にかかわらず、いわゆる分かち合いの経済の恐らく90%がある程度商業的利益と自己利益に関連づけられます。これがその最も深遠な哲学的および霊的含蓄に基づいた分かち合いの真の意味が見いだされるべきところであると私たちは本当に確信しているのでしょうか。私たちが実際に作りあげてきたものは、快適な生活のための新様式ですが、それはお金儲けの動機によって余りに制限されるため、それを商業化のさらに緩やかな形態として見なす方がよほど適切なのです。神についての特定の概念を信じて自らの思考が作りだした神を研究するため神学校に行く僧のように、人間のマインドは新方式や「主義」を作りだすことが大好きです。私たちのマインドの条件づけと社会的追従を認識せずして、分かち合いの経済の提唱者もまた、私たちの相互依存した生活の霊的現実との意味のある繋がりが皆無の、持続不可能で甚だしく不公正、そしてますます不平等な社会の中でより便利で楽しい生活のあり方を促進することにおいて、悲しくも同じなのです。

したがって私たちは、分かち合いの経済のアイデアを正義および人権の解放をめざす着想に向ける代わりに、私たちに「一つ分の値段で二つゲット」させる企業のマーケターと同じ意識レベルまで自己を下げ続けるのです。共同消費や新進の起業家のための共有所有権のアイデアを促進することに何も間違ったところはないかもしれませんが、大多数派の最大の利益のために分かち合いの原理を私たちが新たに考案したと装うのはやめましょう。心理的観点からせいぜいそれは、より恵まれた階層のためのストレスのより少ない生活様式として理解されるべきです。

分かち合いの性質の最も深い霊的側面を考察するなら、上記の個人間の分かち合いの形態は、人類全体の固有の統一性と相互接続性を認識する高次の魂の意識のちっぽけな現れであるパーソナリティや低次の自己に関連していると見定められるかもしれません。私たちの社会生活の小さな箱の中で自分たちが楽であるように、安堵感を保つことにもっぱらエネルギーを集中することでこの高次の意識がいかに抑圧されようと、自己の中に絶えず存在し眠るそれを覚る能力が私たち全員にあるのです。

分かち合いと協調の低次の個人的形態にエネルギーを夢中で費やす人にあなたが話そうとするなら、貧困、紛争、環境破壊を決定的に根絶するために国家間で地球資源を分かち合うことの正当性について彼が聞く耳を持たないだろうことは確実です。彼に内在する分かち合いへのより深い認識にもかかわらず、地元のコミュニティで個人の所有物を分かち合うという安易なアイデアの方がより楽であるため、それについて考察することを彼は拒否しその変革的意味合いを無意識にはねつけるでしょう。しかしながら分かち合いの原理の経済的実現は余りに多くの取り組みを必要とし、ビジネスおよび政治の領域で直面すべき反対勢力が余りに多いため、最初は気持ちの良い経験になるとは言えないでしょう。私たちの自己没頭的な人生と善良な試みにおいて、疑いなくそれらの強力な勢力は最終的に私たちを妨害するでしょう。そしてこの先、世界の危機が長引き山場を迎えると同時に、いずれにせよ私たちが社会変革の必要性への目覚めを強いられるまでそう長くはかからないでしょう。

分かち合いの経済の真のビジョンが、利益と競争的な利己主義の追求によって特徴づけられる古いやり方の終焉を象徴する一方で、物質的および経済的に非常に豊かな世界の中の飢餓を根絶することによってのみ、グローバル協力の新しい時代が幕開けることができるのです。さしあたり分かち合いの経済は、貧困者から始まり貧困者に属し、そしてどのような道徳的または世俗的観点から見ても貧困者に借りがあるままです。私たちの日常生活の便利性を高めるという狭量な概念からそれが始まることは決してないでしょう。そして分かち合いのアイデアが、そのような自己満足的で自己準拠的理解に縮小される限り、それは長期的には必然的に崩れ落ち不要になるでしょう。しかしそれまでは、お金儲けが私たちの第一の関心事であるなら、商業化された分かち合いの旗のもとでそのための機会が沢山あるかもしれません。私たちにとって実に、なんと都合の良いことでしょう!

新しいシェアリングテクノロジーといわゆる破壊的なビジネスモデルを私たちが存分に利用することを止めるものは何もありませんが、私たちは少なくとも、自分たちの根底にある動機と心理的態度について意識的かつ正直であるよう試みるべきです。消費主導型の分かち合いの行為を続けると同時に、私たちは他者と世界情勢のことを本当に考えているのでしょうか。それとも、それは相変わらず、すべて私たち自身に関するものなのでしょうか。西洋諸国全体で、これまでのところ出現している分かち合いの経済のイニシアチブをどうか綿密に考察してください。そしてそれらが愛、正しい関係、人間の最高の叡智を示す霊的意識の内なる能力に何ら関係があるかどうかを自問してください。

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自分たちの血、自由、家族、そしてしばしば命を犠牲にしてでも正義のために闘う貧困国の何百万もの社会的に排除された人々と比較すると、今日のほとんどの分かち合いの提唱者は、豊かな社会の中で最も容易で可能な限りストレスの少ない人間関係の様式を追求します。前者が筋金入りの分かち合いの道であり、インドの剥奪された先住民の人々、ガザ地区のパレスチナ人、南アメリカの土地なし労働者たち、サブサハラアフリカのスラム住民と小規模農民、アジア全体の経済特区の搾取される縫製労働者、その他多くの人びとの苦闘を通して目撃されるつらい真の道なのです。世界のすべての虐げられた民衆は、彼らの最も基本的な人権を実現する分かち合いの経済を政府が実行することを、どれだけ目に見えない形であろうと叫んでいます。

多くの大衆蜂起はまた、より包括的で再分配的な政府の政策を通じて、分かち合いの経済が制度化されることを間接的に要求しています。これには、社会的および経済的平等の拡大の名のもとに動員された反緊縮財政デモおよびオキュパイ運動や、退廃した政治体制を退かせることを目指したアラブの春のデモの波が含まれます。[11] 強制された不公平な経済システムを根源とする不正義へのあからさまな反応を通して、たとえ無意識的に表されていようとも、これらすべての様々な抗議デモ活動がどのように分かち合いへの拡大する要求の表れであるのかということを私たちは自分自身で捉えることができます。拡大する不平等と多数派にとっての経済的危険性によって特徴づけられる世界において、正義のために立ち上がるということは必然的にストレスを伴う企てであり、したがって「分かち合い」という言葉が、特権および富という強力な砦の利益を支持する政府と連動して利益追求および搾取のために活動する大企業に反対する、活動家の口から発せられないのは理解できることなのです。

赤十字や国境なき医師団のような団体内の第一線で人類に仕える人々をもまた観察してください。彼らは合わせて、階級制度、宗教、人種に関係なく、戦争で破壊され貧窮化した地域の疎かにされた市民を援助する絶え間ない活動を通して「分かち合い」や「経済」という言葉の最も人間的な表現をはっきりと示しています。この点において、アドボカシー活動と世界再建設の意向の中で、分かち合いの最も誠実な意味を知らずのうちに特徴づけている、分かち合いの経済の多くの陰の英雄たちがいます。より公正で生態学的に持続可能な発展形態を求める無数の草の根活動家、市民社会組織、政治的キャンペーン・ネットワークから成る長いリストは親しみのあるものです。これらの献身的な個人は、彼らの正義のための闘いと経済的分かち合いの明らかな必要性の間の相互関係を認識しないかもしれませんが、全体への慈悲的な意識を持って私たちの機能不全な社会の問題を認識する誰にとってもこの繋がりは明瞭で現実的です。

今日の商業化された分かち合いのイニシアチブが、これらの偉大な社会的苦闘や人々の運動にどれだけ密接に足並みをそろえているのでしょうか。各国の余剰の富および資源を虐げられた貧困者のために分かち合うよう政治的リーダーたちを即す取り組みに打ち込むことには、コミュニティレベルの運動における分かち合いの経済の実践者の誰ひとりとして興味がないようです。富裕国では稀な貧困関連の栄養不足や小児疾患がしばしば原因で日々早くして亡くなっている約4万人を救うことにさえも。[12] ローカル・コミュニティの中の特権的な生活の快適さや便利さではなく、もしそれが私たちに動機を与える心からの関心事になるなら、おそらく私たちは分かち合いの原理を通じて自らを人類のための大使として正しく見なすことができるでしょう。しかしもし私たちの分かち合いのアイデアが、自分たちの隣近所やソーシャル・ピアグループの範囲に制限されたままであるなら、ひいては環境的持続可能性、平和、正義への最良の道として分かち合いが何を達成できるかについて明らかに私たちにはおよびもついていないのです。

自分たちの間で分かち合い、より調和のある持続可能な生活のあり方を達成しようと試みたコミュニティが世界には無数にあります。しかし、世界の生態学的危機が急速に取り返しのつかない時点に達しているとき、そのようなコミュニテイがどのような望ましいことを達成できるのかおそらく自問するときです。種々多様な霊的コミュニティやエコビレッジがずっと以前に現れとき満ちて消え去っていきましたが、過去数十年に渡る商業化の激化する動向が、自給自足のコミュニティののどかな生活を達成するすべての可能性を最終的に断ってしまうかもしれません。実に、修復不可能なほど分割され環境的に劣化する世界の中で、これらの動向がどれだけの間野放しにされたままになるのでしょうか?

これは、地球の天然資源を保護することによって現代社会の中で個人のカーボンフットプリントを削減することを目的とした無数の草の根イニシアチブを非難するものではありません。その多くが、食料生産、住居、交通、エネルギー発生などの持続可能なモデルに移行する方法のための非常に貴重なモデルを提供します。様々な分野の持続可能性の実践者に長く認められてきたように、小規模および地域規模の分かち合いおよび充足の倫理は、間もなく私たちの時代のスローガンとなるかもしれません。それにもかかわらず、強靭なコミュニティのこれらの先駆者でさえが、多くの場合、彼らの著述やアイデアの中で「貧困」や「飢餓」という言葉に触れることがないのです。

これは、彼らが全体への認識によって力を与えられ、危機的世界情勢の人間の現実に打ち込んでいるという意味でしょうか?人里離れたコミュニティに引きこもることによって平和を見いだせると信じるのは、私たちの生活様式がどのように質素で、自給自足でやっていようが、それでもやはりファンタジーなのです。なぜなら、私たちが直面する文明危機は、霊的根源を持ち、そして何千年もの破壊的な人間の振る舞いの結果であるからです。私たちの祖先および多くの過去生を通して、私たちは皆、世代から世代へと受け継がれてきた目に余る不正義と分裂を繰り返すことに一役買ってきました。この時代のすべての大波乱の中で平和で持続可能な隠遁生活を送るという意図はそれゆえ、万人の基本的ニーズが満たされた平等な世界を創造することにもまた私たちのエネルギーを貢献しない限り、私たち自身を人類固有の一体性から切り離すということなのです。この霊的理解、この内なる悟り、そしてこの原動力となる理想が、歴史のこの非常に危険な急場において、私たち自身の中で経験できる唯一の真の平和なのです。なぜなら、その言葉の本当の意味で「分かち合う」世界のための苦闘において、私たちは一人ではないからです。

これは、彼らの意図が故意または知らないうちに商業化によって威圧され続け、精神的盲目とお金儲けへの関心を通して、分かち合いの原理からすでに尊厳を奪っている現代の分かち合いの擁護者にとって何を意味するのでしょうか?他者の悲惨な苦しみに何の関心もないまま分かち合いの経済に関心を持つということは、あなたのアイデアがハートの内なる意識との繋がりを持たずして習慣的思考によってつくられただけのものだということを意味します。したがってあなたは、深く人間的で霊的な概念を、正義および調和の真の性質や人類の一体性とは何の関係もない別の「主義」へと縮小することに成功するだけでしょう。「分かち合い主義」が規範となるまで、快適な生活の新しい様式を作り楽しみたいという欲求から、あなたは自己本位な追求のために分かち合いの原理を知らぬうちに拉致するでしょう。

それはすでに現実ではないのでしょうか。そしてその多くの商業化された形態の分かち合いの提唱者は恥ずかしくないのでしょうか。この地球に依然として極貧が蔓延っているという明らかな認識があるにもかかわらず、予防可能な病気、飢餓、戦争、気候変動による大惨事から死んでいく私たちの兄弟姉妹を救うことに分かち合いのアイデアが向けられないということがどうして可能なのでしょうか。何が人をそのように盲目にし、内面的に貧しくし、彼を取り囲むひとつの生命に対して無関心にするのでしょうか。なぜ彼は、彼自身のハートの知恵と多くの暗黙の嘆きを撥ねつける無関心に絶えず執着することによって、意識を彼自身のコミュニティ、彼自身の新しいイノベーション、そして彼自身の断片的な人生のあり方だけに制限するのでしょうか。何が人をそのように小さくし、捉え、そして空虚な観念化のメカニズムの中で混乱させるのでしょうか。彼は、万物を愛し生きとし生けるもののために自己を捨てるようにと話す、神聖な目的を持った自己の魂の存在そのものの中で真に自由で偉大であるのに…?

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商業化パラダイムの中で分かち合いのアイデアおよび実践を追求することは、これら二つの性質の異なったプロセスが内外両方の表現において対極をなすため最終的に無益です。私たちが以前観察したように、一方はその複雑さにおいて分割的であるかたわら、もう一方はその簡潔さにおいて統一的です。[13] そして一方は人間および低級自然王国両方に対して操作的で道徳心を欠き有害であるかたわら、もう一方は公平性、無害性、認識、善意の志に基づいています。分かち合いのより広い経済的表現は、今日の文化によって最下の、そしてしばしば感傷的な意味にまで格下げされた愛や慈悲の最も深遠な理解を実証してさえいます。確かに、シェアリングエコノミーの思考形態は、時間の経過とともにより道徳的で包括的なアイデアに進化していくでしょうが、それが世界の貧困者のための正義の政治的概念に融合されない限り、政府間で資源を分かち合うという変革的ビジョンはこの先何年も初期段階でとまったままになるだろうことは確実です。

新たな政治経済パラダイムとしての分かち合いの真の意味に取り組み始めている知識人が現在ますます増えています。[14] 多くの有能な思想家が、学術的レンズを通して「フェアシェア」、「コモンズ」、「脱成長」などの概念を研究していることは心強い兆候ですが、毎日まともに食べることができるよう政府に国の富のわずかな部分を分配することを必死に求めている最貧層の人々にとってこれらの学術的定義が何を達成するのでしょうか。

貧窮した人の謙虚な懇願は、そのすべての純粋さと本質における分かち合いの経済の化身です。では、栄養の十分に行きとどいた知識人が、どのようにこの純然たる真実を多くの場合見過ごしているのでしょうか。この世界の豊富な資源が適切に分かち合われさえすれば、毎年何百万もの罪なき生命が救われることが可能なのだという事実を認めている人はほとんどいないようです。分かち合いの多様な形態への要求は、常にコモンセンスの一つの表れです。それでも、無学の市民を除外し、最終的に私たちを混乱させ誤まり導き、そして正しい前進の道に関する無限の仮説的討論に絡ませる過度に知的なやり方で、コモンセンスに応じることも可能です。この理由から再び、分かち合いの経済の意味のどのような探求も、主な社会的および政治的優先項目として、この地球から慢性栄養不足が抹消されねばならないという事前の理解を通して始まらなければなりません。この基本的な見地から始める限り、私たちの鼓舞された分析および政策提案がそれほど脱線することはあり得ないでしょう。

戦争の狂気の終焉を望みながらも、政府によって疎かにされた紛争地域の何十万もの人々が悲壮な世界で痛切に欠落した救命医療治療を必要とする現実に第一に対処しなければならない、国境なき医師団を通して活動する医師たちを例として考えてください。それと平行して、現代社会における分かち合いの知的アイデアが討議され、仮説として取り上げられることは重要ですが、政府の福祉や公的支援の形態を一切持たず過酷な剥奪に苦しみ続ける貧困国の何百万という人々に、まず私たちの注目を向け直さなければなりません。

比較的恵まれた快適な所帯の中でのあなた自身の日常的関心と、予防可能な病気や栄養不足からこの瞬間死にかけている人にとっての人生の現実との間に存在するかもしれない内なる関係についてじっくり考えてみてください。あなた自身より恵まれない人々の生命に対する心からの認識と、この霊的冒涜の撲滅を促進するために行動するというあなたの個人的な意図 – その認識自体が、世界中で制度化されるべき分かち合いの経済の必要性に対する認識なのです。絶対的貧困がもたらす、いたるところにある苦しみの終焉に貢献しようと試みるどのような行動もそれ自体が、特にその行動が世界資源の分かち合いに最大限の努力を投じるよう政治的代表者を即す試みに集中するなら、ハート、成熟性、コモンセンスを通じての分かち合いの経済の最も純粋な表現なのです。

故郷では家族や友人が基本的人権として十分な食料、住居、医療および必需品にアクセスできることを思いながら、サブサハラアフリカなどの貧しい地域で、あなたは今までに栄養失調から死んでいく人を腕に抱えたことがありますか。その深く悲劇的な経験に続いて、分かち合いの経済に関する理解があなたのハートとマインドの中で大変違った響きと意味を帯びるであろうことは確実であり、そしてそれが単に、自己やその個人のもっと恵まれたソーシャル・ピアグループだけに向けられる可能性は到底ありそうにないでしょう。

家族の大切な誰かを不治の病または惨事でなくした人々についてもまた考えてみてください。その悲しい出来事の結果として、彼らはチャリティ団体を創設したり社会変革のためのキャンペーンをするなどして、他の人々が同じような境遇に落ちるのを防ぐことに時間と労力を注ぎ込むことによって人生の目標を突然変容させるかもしれません。したがってかつての自己満足的な無頓着さが完全に消えたと同時に、彼らの内なる認識と共感が著しく拡大され新たな方向へと向けられたのです。それが、分かち合いの経済というアイデアへの希望です – 適切な生活水準に恵まれた何百万もの人々が、世界人口の3分の2の貧困層が経験している不必要な剥奪の苦しみに共感すべく皆で共に意識を拡大できるなら – その規模は想像を絶するでしょう。

私たちは、これらの僅かな類推の中のより深遠な哲学的意味を考えようとしているのでなく、率直に人間的観点から、従事するハートがもたらすコモンセンスを通して、社会におけるより大きな認識の必要性を単に観察しようとしているだけなのです。それは、飢餓と生命を脅かす貧困の恐ろしい現実を根絶する必要性に関係するだけではありません;それはまた、他の人々の不必要な苦しみを懸念する、生命への文明人らしい道徳的態度に表現されるように、最も一般的かつ実際的意味での愛に関係することなのです。筆者は以前、愛の意味について基本的に霊的および心理的観点から考察しました。それは、ハートの認識が、内なる態度と行動を一度決定するなら、その人の人生の追求の完全な方向転換をもたらす原動エネルギーなのです。[15]

人間のおよそすべての活動分野で、ハートの目覚めによる個人の心理的および霊的変革を観察できますが、商業化された経済的分かち合いの形態の誤まり導かれた提唱者も例外ではないのです。私たちが望むことができるのは、せいぜい今日の自称シェアラーが、この誤用された原理のより高次の意味をどのように低俗化しているのかということを彼ら自身が認識すること、そしてそこから彼らが、必需品へのアクセスの欠如から誰一人として苦しみ死ぬことを許さない公正な世界のために勇敢に戦う他の何百万人に参加することによって、やり方を変えることです。

PART II: 内から外への分かち合いの経済へ



第25は分かち合いの原理の外なる表現の一つであり、

霊的進化はまさにその原理の内なる表現である。

それでは、霊的および心理的観点から、用語集の定義を提案できないことを念頭に置いて、分かち合いの経済の内なる意味に注意を向けてみましょう。なぜなら、分かち合いの意味は、知的活動からだけでなく、ハートからも生じているからです。上記で考察したように、最下の個人的レベルの分かち合いの理解においてでさえ、自分たちの考えが常にハートによって方向づけられるようになるまでは私たちがその可能性の真の重要性を理解することはなさそうです。ハートに私たちが認識と愛によって構築する分かち合いの経済の建築家とならせましょう。そうでなければ、私たちが切望するより良い世界がもたらされることは決してないでしょう。誇らしく誕生し遠い昔に消滅したすべての時代と文明を通して何千年も、私たちは他のすべてを試みてきました;愛とハートが私たちに残されたすべてです!しかし、従事するハートの認識を通して、人類が分かち合いの経済の内なる意味を受け入れているということがどのようにわかるのでしょうか。それは、世界人口の大部分が結束し、すべての場所で貧困のすべての形態を完全に撲滅するという心からの決断を情熱を持って宣言するまでは、起こらないということを再度断言させてください。

このような言葉を述べることは簡単ですが、無数の人々が日常の意識の中でそれを現実として心に描くことはよりずっと難しいのです。では、分かち合いの経済の内なる変革的側面を私たちはどのように知覚できるのでしょうか。なぜならそれは、今日の社会的および文化的観念化の中で滅多に証明されることのない包括的な世界観を私たちに要求するからです。私たちは、自己の中に入り、分割された世界の中の分かち合いのより深い意味について熟考する前に、前章で述べられたことについて思案することから始めるかもしれません。直感を通して私たちはおそらくこれらの不十分な言葉の中に伝えられていることの感情的重要性を捉え、感じるかもしれません。

最高の霊的意味における慈悲とは、特定のものや人にだけでなく、全体のためになることへの非個人的な認識を示します。したがって、単に一個人、一家族、一コミュニティまたは一国だけにためになることに限られた認識の中には私心のない慈悲心の形跡はありません。私たちの意識が一般的に私たち自身の特定のローカルコミュニティや社会のためになることに没頭するのは決して間違ったことではありません。しかし私たちが分かち合いの経済の全体論的意味を知覚したいなら、世界全体のニーズへも私たちの共感的懸念を拡大しなければなりません – それは、ひとつの人類のビジョンを誠実さ、正直さ、成熟さを持って受け入れることを要求します。私たちは第一に自分たちのコミュニティの世話をするかもしれませんが、外にも注意を向けなければなりません – たとえば、それはまるで基本的ニーズが万人に保証されることを見届けるために世界に目を向ける前に、空腹の隣人を食べさせるよう要求されているかのようです。

したがって、分かち合いの経済の霊的および全体論的理解とは、私たちが内でも外でももはや残りの人類から私たち自身を切り離しているのではないということを意味します。そしてその意味で、分かち合いの内なる意味は、商品化された物資やサービスを交換する組織的な方法からは懸け離れているのです;それは、慈悲、道徳、倫理、愛情のすべての側面において「共にある」ことを意味します。それは、物質主義的で商業化された文化への計り知れない意味合いをともない、私たちがまだ理解することのない秘教的現実としての魂の存在および目的に対して認識を持つということを意味します。それはまた「危害を加えない」という意味でもあります。なぜなら、私たちの貪欲さ、自己本位、憎しみ、そして何よりも自己満足的な無頓着さと無関心によって第一に特徴づけられるように、社会的分裂および対立の原因となる、分かち合いとは反対の傾向にある有害性が常に存在するからです。

私たちのほとんどが、機能不全社会の規範によって余りに条件づけられているためこれらのシンプルな真実に対して完全に盲目的ですが、そのことは分かち合いの原理の驚くべき多面性および私たちの霊的進化に対するその重要性を理解する余地をまったく残してくれません。したがって、分かち合いの経済のアイデアは私たちが現在想像できる以上に遥かに大きいのです。物質的材料を使って形態を構築する建築家の隠喩を用いるなら、真の分かち合いの経済の革新者は、愛のエネルギーを使って新しい形態を構築する仕事を請け負っている建築家のようです。なぜなら実に、分かち合いの第一義は、愛の存在の証であるからです – それは見返りを求めない与るだけの愛を意味します。鼓舞された建築家が、彼の建築物が世界中で認められることを望むように、私たちはこの分かち合いの経済の拡張されたアイデアが、すべての人のハートの中にグローバル化されることを望むべきではないのでしょうか。私たちはすべての国の間で私たちの愛を互いに輸出入する必要があると言えるでしょう。そして今日の分割された世界で愛のある目標を達成する唯一の方法は、貧困から引き起こされる飢餓の完全な終焉への私たちの要求を普遍化することなのです。

上記の説明について思案することは、分かち合いの経済が現在その意味を定義づける社会的活動や市場取引にどのようにおよそ何の関連も持たないかということをより良く理解するのに役立つかもしれません。それは、内なる自己の現実についての認識にむしろ根ざすべきなのですが、もしそうなら、そのことは人類の意識における心理的革命の予兆となる、この地球での完全に新しい何かのきらめきを意味するのです。多くの秘教的および宗教的教義の中に具現化され、キリスト原理の象徴的解釈にも反映されるように、分かち合いの経済の道徳的または霊的アイデアは、私たちと共に何千年もの間存在したとも解釈できます。キリスト教的表現を借用すると、分かち合いの霊的重要性は、私たちのハートの中のキリストの認識へと私たちを導くその能力です。これは、快適さや便利さや束の間の感情的満足以外の何ものをももたらさない、現代の商業化された社会における分かち合いの単純な見解とは際立って対照的です。

このような解釈は、正しい人間関係についての古代のすべての聖典や教えの中で様々に言い表されてきたように、分かち合いの原理が第一に貧困者に属し、ゆえにそれが各人すべての人に宿るハートの内なる認識の中に存在するという私たちの主張のさらなる霊的正当化に役立ちます。確かに、分かち合いの霊的真理が、まるで世界の何百万人という飢餓者が存在しないかのように;そしてまるで食料備蓄やその他の生活必需品の膨大な余剰が存在しないかのように;さらには、これらの不可欠な資源を最も緊急に必要なところへ輸送するための技術や人的資源が存在しないかのように追求される自己本位な社会的福利の観念に属したことはかつてありませんでした。

したがって、人々の間の日常生活の慣行としての分かち合いの意味と、目覚めたハートとマインドの叡智を通してのみ理解できる聖なる分かち合いの原理との間には著しい違いがあります。私たちが瞑想の中で意識を高め、聖なる概念としての分かち合いの原理に適切に波長を合わせることができたなら、あなたが世界に目を開いて見えるすべてのものは、あらゆるところにある不正義と、どこかで大量の食料が無駄にされ腐ったまま放って置かれる一方で何百万もの人々が飢えてハエのように死んでいくことを許す底知れない無関心だけです。それでもなお、政府が分かち合いの原理を多国間規模で実現しない限り、それらの無防備な犠牲者たちを私たちの無関心から救うことはできないのです。経済的に安定した尊厳のある生活のために、発展途上国の貧困層が必要とする適切な住居、医療、きれいな水、衛生、資金転送、および他のすべてを提供するための大規模な国際救援活動が必要です。それが達成されたときに初めて、私たちはグローバルな社会政策および国際発展の指針となる光としての分かち合いの経済の真の始まりについて話すことができるのです。

この点から、包括的な多国間行動計画を通じて世界資源を分かち合うということが何を意味するかについての一般的な指針を得るために、1980年のブラント委員会報告書を参照すると良いでしょう。[16] それは分かち合いの経済の愛と慈悲を伴う成熟したビジョンが見だされるところです。私たちは主に、貧困撲滅のための緊急プログラムのコンセプトおよび国連を通して構造化されるべき経済変革について言及していますが、それは私たちにとって恒久的および構造的基盤の資源分配の世界的システムの施行という最高の希望を表しています。まさしく、政府が戦争すべきかどうかを(彼らの政治的動機がどのように低俗であろうと)決めるための適切な国際組織として国連が見なされるように、それはまた、グローバル・ノースとグローバル・サウスの間の関係を再びかたちどることにおいて、そのすべての加盟国の共通利益を実行可能な方法で代表することのできる唯一の既存の多国間機関です。結局のところ、第二次大戦後の国連創設は、より公平な世界秩序のための可能性と希望を生みだしました。国連システムの著しい改革および民主化の必要性にもかかわらず、極度の人間貧困を数年の短期間で根絶するという見通しを持って、援助および余剰資源を再分配する計り知れないプロセスを国連が調整しまとめる可能性を否定することはできません。[17]

要するに、分かち合いの経済のアイデアの適用は普遍的でなければならず;経済競争による最大収益の対極としての正しい分配への関心に立脚し;見返りを求めず与えることの原理を取り入れなければならないと結論することができます – これらのすべてが、グローバル・ガバナンスの民主的システムのもとでの国家間の自由な必需品の流通の視点から思い描かれなければなりません。

このどれもが外国援助の既存の理論や実践にあまり関係がありません。外国援助の現在の形態は甚だしく不十分であり、多国籍企業やドナー国の競争的勢力に主に有利な条件の制限下でしばしば送られます。外国開発援助は単に二次的に(そして多くの場合、大変選択的に)、発展途上国が富を再分配し多数派である貧しい市民の生活を改善するための手段を提供します。そのことはどのような政治運動団体でも、細部にわたって確証するでしょう。[18]

これによって、国際人権法に長く謳われてきたように、すべての人に適切な生活水準を保証するための責任を政府が満たす世界を十分に心に描くよう私たちは想像を広げることができるのでしょうか。それは、生命を脅かす貧困、紛争、自然災害または強制移住のすべての形態への対応において、国連を通して機能する協調的な政府の行動が、人間の苦しみを軽減するNGOやチャリティの役割を最終的に超える世界です。それは、世界人権宣言第25条がついにすべての男女子供に例外なく保証されることにより、ようやく正しい方向に向かう分かち合いの経済の穏やかな始まりを知らせる世界なのです。[19]

このビジョンを達成する見通しは、世界に流通している莫大な量の金融資本および富と、そして万人を貧困から解放するために必要な比較的取るに足らない額についてをもまた考慮するとき、過激でも夢想的でもないかもしれません。[20] それでもなお、世界の人々の大部分がこの画期的な目標に全力で打ち込み、最大の懸念として貧困に関連した苦しみを根絶するためにトップの政治家全員に圧力をかけ続けないことには、そのようなビジョンは実現され得ません。権力の座に就くどの政治家の議題であっても商業化勢力が指図し、それが日増しに強くなっているとき政治的エリートが自らの強い要望で行動し分かち合いの経済を確立すると期待することができるのでしょうか。それとも私たちは一般の人々がハートの特質を使うことによって社会変革を起こす必要なくして、企業の億万長者の慈善家たちが私たちのために世界問題を解決できると信じているのでしょうか。

自分たちが選んだチャリティや非政府組織に巨額のお金をつぎ込むことによって、貧困者の英雄的な救世主であるとしばしば主張するメジャードナー(大口寄付者)の行動および意図を細心の注意を払って観察してください。彼らの貢献がそれらの幸運な受取人にいくらかの相対的利益をもたらすとしても、それは私たちの霊的結束や相互関連性の視点からの分かち合いの経済の内なる意味とも、あるいは新しい経済協定と著しく改革され再び権限を与えられた国連を通して政府によって構造化されなければならない世界資源の分かち合いの外なる意味ともまったく関係がないのです。

一人の慈善家が、文明的非常事態として貧困の存在を根絶する必要性への慈悲的認識で満たされたと想定してください。おそらく、彼はもはや商業的追求から法外な利益を上げることに駆り立てられる代わりに、国際社会において協力的な分かち合いの経済を実現するための目標に時間と個人的富をつぎ込んでいることでしょう。優先事項を再調整し世界に平和と正義のための方策をもたらすよう政府を納得させるために必要な手段であると認識するなら、おそらく彼は情熱的な活動家のグローバルネットワークを構築する手助けをするでしょう。

この最後の一考が、分かち合いの経済への支持の世界規模の表示がどのような様相を呈するかについて私たちの想像を鼓舞しますように – 公共心を持つすべての市民社会組織の同盟に基づいて構築されあらゆる分野の無数の人々の一致団結した決意によって支えられているのです。したがってそれは、世界中の歓喜の爆発によって特徴づけられ生命を吹き込まれるように、そして最も無力にされ疎かにされた人々への奉仕を通じて認識されるように、そのすべての究極の栄光における分かち合いのための真の社会運動となるでしょう。したがって世界復興のための輝くかがり火として世界人権宣言第25条を何百万、何千万もの人々が支持するとき、物質界において神性が再び顕現していることを私たちは知るでしょう。[21]

*

最も幅広い視点から、分かち合いの経済が何を意味するかということを仮定すると同時に話し合って考慮することがさらに多くあります。そしてグローバル経済システムの構築のすべてが再構造化されるとともに、その意味に対する私たちの認識が徐々に変化し進化するであろうことを認識するのは大切です。私たちは、生活必需品への十分なアクセスを持たない飢餓者および極貧者に向けて資源を再分配するよう世界中で政府に要求する莫大数の人々が第一段階で必然的にどのように必要とされるかを熟考しました。それは、公正な世界経済秩序の構築を通して、徐々にシステム化されるグローバルプロセスとしての分かち合いの最も初期の表れであると考えられるかもしれません。そしてたとえば、1980年のブラント委員会やその後のハイレベルの報告書によって提案された勧告をはるかに越える分かち合いの経済の現実が、グローバル・ガバナンスの新しい様式や変革された貿易および金融の構造を通して現れ始めるでしょう。[22]

それでも、資源の分かち合いのプロセスを基本的活動原理として取り入れる代替的なグローバル経済システムを私たちは正確に見通すことはできません。しかしその一方で、私たちは反対方向へと機能する分裂的で不均衡な腐敗したシステムの影響に苦しみ続けています。国家総会の偉大な未来の運命を思い描ける以前に安全保障理事会が廃止されなければならないのと同じように、真の協力と分かち合いを基盤とした期待の構造を思い描ける以前に、現在の経済システムは事実上解体されなければなりません。[23] 多くの前向きな政策思想家および市民社会団体の提言に証明されているように理論と青写真は当然のこと存在するかもしれませんが、誰一人として4、50年先に代替的な地球資源分配システムの最終的出現を正確に予測することはできないのです。

敢えて言うなら、国家主権の従来の概念に要約されるように、過去2千年間の政府の最大の熱望は、競争の激しい世界舞台で各国の個性を体系化し前進させる必要性に関係しました。しかし、人類が成熟すると同時に、不可欠な資源の分かち合いと私心のない奉仕という理想への文化的方向性を通してのみ達成され得る全体にとっての利益を優先しながら、その過度に顕著な個性を国際レベルまで拡大させる義務が各国に課せられます。

したがって単なる商業的報酬や戦略的国益とは対照的に、必要性と共益に基づいて平等に再分配される世界的貯蓄の何らかの形態に余剰資源を最終的に貢献する各国によって、グローバル経済ガバナンスの新しい構造として国連の重要性が信用と合意に基づいて徐々に認識されるのです。それが、多種多様な文化や人種集団や宗教的および政治的信条のすべてを持つ様々な民族の性質が異なるアイデンティティを尊重し保護するかたわら、ひとつのコミュニティとしてすべての国の相互依存性を促進することのできる分かち合いの経済の最も純粋なビジョンなのです。

このビジョンが漠然とし過ぎているか技術的詳細に欠けていると感じる読者のための主要な熟考のポイントは、分かち合いの経済の外なる意味は、その発達が人間の意識の漸進的拡大と絡み合いそれに依存することから、私たちの認識の中で多くの理解段階を経るであろうということです。私たちは再び分かち合いの内なる側面に戻らなければなりません。なぜなら、分かち合いの経済の外なる表現または体系的表現は極度に広大で、時間と共に際限なく進化しているからです。実に、その源は思考や政策的処方にではなく霊的認識という人間の潜在能力の中にあるのです。

先ほど私たちが暗示したように、最終的な普遍的形態における分かち合いの経済の外なる表現は、より高い次元の存在や意識に関する基本的真実としての私たちの内なる霊的統一の反映です – すなわち、不朽の知恵の教えの中で魂の王国として言及されているあの現実です。[24] この所説をたとえ実用可能な仮説としてだけでも受け入れることができるなら、ひいては前述の考えは私たちの頭の中で遥かに明確となり、この主題について自分たちで深く追求するよう私たちをさらに鼓舞するかもしれません。

不必要な貧困関連の死の不甲斐ない現実を即刻阻止するよう政府に要求する世界中の何百万もの人々についての展望に注目してください。その史上初の出来事は、全体の利益、ひとつの人類の利益のために平和的抗議デモにおいて結束する莫大な数の一般人によって表されるように、外なる物質界における私たちの内なる霊的統一への最初のより大きな認識を象徴するでしょう。そのような壮観は、これがさらなる社会的、経済的および環境的大惨事を回避するための最後の希望であると理解し、地球資源のより公平な分かち合いを要求する世界のかなりの割合の公衆の間で事前の合意が存在するという事実をもまた実証するでしょう。疑いなく、大勢の人々が異議を唱え、その他大勢の人々が無感覚でい続けるか世界危機の悪化傾向にも心を動かされることはないでしょう。しかし、世界資源の分かち合いへの人々の合意の事実は、緊急再分配プログラムを組織化することを政府が余儀なくされた途端に知れわたり、その結果、歓喜に満ちた月日が過ぎ去ると同時に政府は何千何万という多くの死に行く貧困者を救わざるを得なくなるでしょう。

あらゆる場所の男女のハートには、シングルイシューのもと結束する人々の共同活動を通じて、この合意が現れることへの準備が無意識的にできています。抑圧され疎かにされた貧困者にも同じように、そのときが来たらいつでも支持を表明する準備ができているのです。そしてそのとき初めて、分かち合いへの要求は、世界の政府の政策を決定する力を持った抑えきれない平和的驚異として、認識されるでしょう。そのとき、すべての運動を包括するこの運動に、そしてすべての目標を包括するこの目標に参加する全員が、他の人々の緊急のニーズへの懸念によって動機づけられ自覚的に結束したグループとしてどのような行動をとるべきかを正確に知るでしょう。

これらの予測から明瞭であるべきものは、より公平な国際経済システムは、第一にそれを受け入れ、ついでその恒久的実施を維持するという一般の人々の認識なくして構造化され得ないということです。これは、すべての前向きな政治思想家を手こずらせる問いの答えを知覚したいなら、正直なマインドで内に向かって自己を見ることを私たちにやむなくさせます:環境的限界を尊重する一方で、国際レベルで機能し万人の基本的ニーズを充足する、決定的な分かち合いの経済をどのようにもたらすことができるのでしょうか。なぜなら、各社会でもっと歓びと信頼のある参加型の生活様式を確立するまで、全世界を通してすべての家族と個人に平等に利益をもたらす分かち合いの経済はあり得ないからです。そして、自己の先天的創造力を探求するために必要な経済的安全性と自由を万人が手にするまで、資源制約および人口過剰のより少ない地球での分かち合いの代替となるパラダイムはあり得ません。

さらに、個々のみならず全体についての認識を受け入れる前述の多数派の能力なくして、はるか遠い未来に存続する分かち合いの経済のアイデアはあり得ません。それは、貧困と紛争の苦しみから自由となり、人類が結束と一体感と共に生きることがどれだけ緊急に必要とされるかということを理解する認識です。そしてそれは、豊かな社会におけるほとんどの人々の差し迫った懸念からはまだ程遠い気候変動や環境劣化の酷さを考慮する、より簡素でより公平な生活水準に各人を導く認識です。[25]

そして、革新的な思考と実験の先頭に立って発達し始めているこの新しい意識の最初の兆候を私たち自身で感知できるなら、それが私たちを連れて行っている最終目的地をも知覚し始めるかもしれません – それは、物々交換に基づいた経済交流と社会関係の新しい様式の方向です。すでに、コミュニティ規模で分かち合う愛のある表現は、自発的に与えることと受け取ることへの先天的な社会的傾向を支持して、交換手段としてのお金の役割が優先されることのないギフト経済の現代的観念に反映されています。[26]  したがって、私たちの論理の道筋に要約されるような、世界的基盤で分かち合いの原理を実現することによる社会的および文化的効果を、あなたのマインドで直感的に理解するようにしてください:

  • まず第一に、不可欠な資源を再分配し、そして広く行き渡った飢餓および生命を脅かす貧困を緩和するために、適切な国際機関を通じて協力的に取り組む政府らによって組織化された緊急プログラムを通して。
  • そして第二に、利益上の動機や独占的な個人的利益から切り離された、その基本的活動原理として自然資源および必需品を分かち合う体系的なプロセスが取り入れられ再構築されたグローバル経済を通して。

民主的に改革され委任された国連システムに大銀行や他の金融機関の優勢的な権力が漸次移行されるところの、何十年も進展するそのような政府間の経済協定の結果として、私たちは何を予見するのでしょうか。論理的に、分かち合いのアイデアや存在は、それを説明するのに新たな政治経済の語彙目録を必要とするかもしれない、世界的な物々交換と交換の進歩的なシステムとして想像できるとても異なった何かに発展するでしょう。これは、現在私たちが考えるような、かつての古代社会に特徴づけられた互恵貿易の原始的形態としての物々交換ではないでしょう。代わりに、すべての国の間の共有の物資や資源の十分かつ持続可能な流通を維持するための大規模な情報技術や複雑な輸送ロジスティックスの使用により施行される地球資源の管理システムを想像してみましょう。

ここでの私たちの関心は、これらの将来の経済協定の機能の仕方に関する特定の詳細にあるのではありません。間違いなく、エネルギーや水のような大きな公益企業に特に関連して、不可欠な資源の普遍的および自由な分配をどのように達成できるかなど返答されるべき仮定上の質問の数に限りはありません。今回、考慮すべきさらに重要なことは、これらの外なる経済変革が実行可能な現実となるために人類が経験しなければならない内なる変革についてです。この一連の追求から、どのような新しいグローバル経済システムであっても、物々交換の原理をその基礎的なメカニズムと制度化された枠組みに融合させるなら、その中に善意、歓喜、創造性、質素さがどのように根づいているかを知覚する必要があります。

私たちは自分たちで、広く行きわたった規模の個人間の物々交換が、- それがお金や利益にまったく関係がないなら – 要求と必要の簡素化;ストレスと貪欲の減少;そしてより大いなる自由と内なる創造性をどのようにもたらすかを簡単な言葉で考え始めることができます。私たちはおそらく、人間関係に基づくこの新たに発見された信頼と善意についての理解が、各国独自の状況、文化、伝統に適合した特定のアプローチにしたがって、異なった国々の中で、どのように経済システムとしての物々交換の導入を自動的に促進するであろうかをおぼろげに予見できるのです。確かに、世界の政府間の物々交換のグローバル・システムの導入を促進および維持するのは国内におけるあの物々交換の社会経済プロセスです。ひいては比喩的に、私たちの女王蜂として象徴される国連を持って、人類は全体の利益のために協力し合うハチの偉大な群れに似た段階についに達したのかもしれません。

このような結果は、貿易および消費の前資本主義モデルへの復帰を示唆するものではありません。それとは反対に、私たちの進化を妨げ、物質主義的目標や自己中心的な野心の追求へ若者を仕向けるのは、制御されない市場競争を通じて商業化勢力に導かれた経済です。技術と科学における人類の以前の進歩のすべての成果を吸収しながらも、社会経済関係の基盤として必需品の自由な交換プロセスをもさらに包含する、永続的に平和、公平、持続可能な世界秩序を私たちが心に描けない理由はありません。その上、人間の基本的ニーズの充足にも非再生可能資源の持続可能な分配にも無関係な、生活分野での民間事業や市場の競争の格下げになった役割は、そのような文明に含まれないかもしれないと考えるのは当然でしょう。

私たちがこれらの一般的な提案を受け入れることができるなら、分かち合いと自発的な簡素さの道が、国々という家族の間の進歩的な物々交換のシステムや交換取引の最終的な導入に密接に繋がっていると私たちは同意するかもしれません。これらの新たな経済プロセスを国際基盤で開始するために協力し合う政府の活動は、国家、自治体、コミュニティ、近隣地域全体を通して開始される同じようなプロセスと必然的に同一歩調をとるでしょう。そして国家および国民両方の決断によって成立するこれらの段階的な変革の合流を通じて、この豊かな地球の限界内でより簡素で平等に人類が生きることができるのだという証拠を私たちはついに目撃するかもしれません。

したがって分かち合いの経済のより大きな意味は以下の言葉に要約できます:それは物質的および商業的価値観の支配によって特徴づけられた時代の迫りくる終焉を象徴するでしょう。そして同時にそれは、人類の断続する霊的進化を授けてくれるスパイラルのより高い転換点にありながらも、近代史上初めて、経済交流の原則様式としての物々交換の復活を象徴するでしょう。

Part III: 在る術のための霊性教育

分かち合いの原理はその中に、
生きる術だけでなく在る術
と成る術をあわせ持つ。

魂の化学はあなたの遺産なのだから…

汝自身を知れ

よって
霊的本質における分かち合いの経済が、
自己実現を通じての万物との一体性と同一性を
意味することを知りなさい。

これらの将来の変革のどれもが、より霊的な価値観に基づいた新しい教育によって育まれ鼓舞されなければならない人類全体を通しての慈悲と認識の大規模な解放なくして見通しが立たないということを明確にしておきましょう。来たる時代のために、分かち合いの経済の最も普遍的な表現を実現するためのアイデアをどんなに熱心に受け入れようと、無数の個人の貪欲と無関心、そして持続可能な将来のどのようなビジョンにおいても無視しがたい腐敗した世界秩序の体系的な不正義によって特徴づけられた現代の現実の中に私たちは取り残されるのです。

これは、学校や大学を通じて正式に教えられている今日の従来の教育以上のものを要求するチャレンジを私たちに突きつけます。より霊的に自己に対して意識的になるという視点からの教育もまた、即急に必要とされます。それは、私たちがハートを使うことを妨げる私たち自身の思考と、過去からの分裂的なやり方を再現し続けるために機能する私たちの見過ごされた社会的条件づけをともかくも網羅しなければならない認識です。浸透しているシェアリングエコノミーの概念は、注目すべき適例です。なぜならそれは、全体としての人類がまるで私たちの日常的な思考および人生観の一部ではないかのように、私たち自身と私たちの利己的態度だけに関するものだからではないでしょうか。

したがって、社会における正しい教育の欠如は私たちの根本的なジレンマを浮き彫りにします。なぜなら、世界の貧困に喘ぐ多数派のニーズに私たちの注意を集中することで分かち合いの経済が包括的および道徳的方法で達成されるなら、それは実行可能なアイデアであり潜在的に途方もない惑星規模のアイデアだからです。私たちが力説したように、それが分かち合いの経済が正しく維持され時間と共に着実に発展できる唯一の方法なのです。しかし北米、西ヨーロッパ、オーストラレーシアの最も裕福な民主主義社会においてでさえ、私たちは自分たちより恵まれない人々と分かち合うように教育されているのでしょうか?おそらく、私たちの教育が正しい人間関係のシンプルな理解からどれだけ逸脱しているかを知るために、世界的な難民危機の証人となるだけで十分でしょう。確かに、ゆりかごから墓場までの分かち合いと協力の価値観がすべての人に染み込んでいたなら、無意味な地域紛争と大部分が西側諸国の外交政策が原因で引き起こされる大規模な難民危機は決してこのような危険な段階に達していなかったでしょう。しかし、それが不平等な世界の痛切な実例として顕著に現れていることから、世界情勢における分かち合いの原理の実現なくしてその根深い原因の解決はあり得ず、したがって私たちは自分たちの中心的前提に今一度連れ戻されるのです。

分かち合いの経済を支えるためのより全体論的または霊的な教育の必要性について発見することはまだたくさんありますが、私たちには現在の目的のために分かち合いの経済の最終的形態と変革的影響について手短な概要を述べることができるだけです。疑いなく新しい教育は、基本的な社会的、経済的および政治的観点から分かち合いの意味を教え、この簡素な原理が私たちの将来の福利と生存にとってなぜそれほど重要であるのかを幼児に教えることのできる学校の授業形態として最終的に取り入れられなければなりません。しかし私たちは、分かち合いの原理は本質的に霊的であるため、どのような子供や大人にも内なる自己についての認識を教え込むことができるより高次の教えが必要であることをも強調しました。したがって個人は、人類はひとつの相互依存した存在であり、本質的に平等で、パーソナリティの無数の表現において潜在的に神聖であるということを彼ら自身で(意識的理解および直感的認識両方を通じて)理解するよう導びかれるかもしれません。

したがって、分かち合いの経済の内なる意味を学ぶということは、最終的に多くの宗教的および霊的思想家が生きる術として言及するものへの理解に到達するということです。残念ながら、術の一形態としての生活への理解を可能にするであろう種類の教育と社会状況から私たちが遥かに離れているように見えるとき、現在の人間の進化および霊的進化の段階においてこの言葉の明瞭な説明を伝えることは難しいのです。この主題についてのより深い理解は、人間の霊的構造に関する十分な知識なくして達成され得ないことを心に留めておく必要があります。これに関しては、アリス・A・ベイリーの著作など、未来の新しい教育の方法および目標に関するより詳しい情報を提供する関連書籍を読者は参照する必要があるでしょう。[27]

同時に、分かち合いの原理に基づいた新しい経済システムが人類の内なる認識の途方もない変革とどのように連動する必要があるのかということについて、自己内省と論理的根拠を通して多くのことを私たち自身で発見することができます。この追求をさらに掘り下げるために、生きる術に直接的に関連しながらもその意味と関連性において遥かに異なる在る術の観点から、分かち合いの経済の社会的および文化的表現について考えることは有益です。在る術は、人間関係と社会組織の様々な様式を通してこの世界で外部に向けて表現される人生の内部に関係するため、このふたつは不可分です。

生きる術が外部に関係する一方で、在る術は内部に関係します。それは実に、世界の変革のために人間が内部から変革しなければならないと述べるありきたりな霊的言説です。それは、在る術が主に言及する、すなわち、すべての人に内在し、正しい人間関係を通して表現を求める本質的な神性の啓示です。

したがって、現時点で私たちが注意を集中させるべきものは在る術であり、しばしば述べられているように生きる術ではありません。なぜなら、その連続的発展段階において、新しい時代の教育を大部分特徴づけるであろうものは前者だからです。そのより高度なレベルの霊的教育がどのようであるかということは、私たちの現在の追求の範囲を超えていますが、それは瞑想、霊的鍛錬、そして人類の一般的な高揚に向けられた、人類への奉仕を通じての魂の認識とその目的に関することであると要約できます。それが、何千年をも通して様々な伝統の中で人類に放たれてきた不朽の知恵の教えに証言されるように、私たちを漸進的に自己実現(あるいは在る術)に導く永遠の術なのです。[28] しかしここに至ってさえ、私たちはこの説明の難しさを認めざるえません。なぜなら、条件づけられたマインドを通して、在る術を実践または実現することや単に知的にその意味を理解しようと試みることはできないからです。実際には、在る術の意味を求めるプロセス自体が、私たちの条件づけを徐々に解き、さらに意識的に目覚め内部で自由であるよう私たちを導くだろうものなのです。

先の発言だけでも、それが単純に聞こえようと、慎重に検討し認識すべきことが沢山あります。なぜなら、在る術がこれらの線に沿って意味し表していることについての初期段階の理解が欠如している限り、個人およびグループの基盤で生きる術を表現することは不可能だからです。これは、平均的な人が自己の魂の目的を探索、理解、実践するための十分な教育や内なる空間を提供することのできない、不平等な社会の中では常となってきました。[29]

私たちの気を散漫にさせる今日の狂乱的人生において、私たちはせいぜい生きる術の最も脆弱な反映である社会慣行および利他的行いに携わることができるくらいです。たとえば、環境リサイクル活動、慈善活動、そして地域化された形態の分かち合いの経済のより非商業的な側面などを考えてみてください。これらの活動にどれほど価値があり多くの場合不可欠であったとしても、自然と生きとし生けるものに関連して、無害さ、簡素さ、正しい関係の中で生きることが何を意味するかについての一般的な社会的認識を代表することは決してありません。

内なる自己の現実を探求するために内部に向き、日常生活の表現の中にその認識を顕現させることを求めない限り、定義として、生きる「術」はあり得ません。そうでなければ私たちの活動が間違った自己投影を通じての模倣に基づいているということであり、そこに危険があるのです。なぜなら、流行に乗って他者を真似るだけにすぎない行為によって霊的または倫理的な生き方の外観を装うのは非常に簡単だからです。

この考察を損なう言葉での説明の難しさにもかかわらず、分かち合いの経済の霊的または内なる意味を追求すると同時に、生きる術について熟考することはそれでも有益です。この目的のために、すべての低級自然王国と私たちの関係をも含んだ、正しい関係とその個人的および社会的表現への拡大する認識として、生きる術を概して定義することができます。しかしまたしても、そのような定義のすべてに問題があるのです。なぜなら、私たちが世界の資源を公平な方法で分かち合っていないとき、自己、社会、自然環境に対する人間の正しい態度に基づいたこの地球での新たな生活様式について私たちはどのように明瞭に話すことができるのでしょうか。

謙虚さ、正直さ、誠実さ、無執着、無害性など、生きる術に関連したすべての内なる性質を持って、協力、コンセンサスおよび信頼によって特徴づけられるように – 生きる術の慣習が社会の特徴となるまで何世代もかかるかもしれません。さらに、世界中で慈悲心が開花することなくして維持される生きる術はあり得ません。なぜならそれが在る術が地球の進化を導く実際の必要性に対して人類がさらに意識的になるための必須条件だからです。手短に言うと、私たちはこの主題について正確さや説得力のある意味を持って話すことはできません。なぜなら、在る術自己の覚りへの一般的な認識を現すことによって、社会組織化の外なる様式を特徴づけるのは出現する文明であるだろうからです。

PART IV: 国連の秘教的重要性

いつの日か、分かち合いの経済に基づいた新しい文明を支持
することによって、歴史上初めて正しい人間関係を表現し、
各国に独自の霊的運命を実現するよう導く国連を
私たちは夢見ることができるだろうか?

分かち合いの経済を維持することにおける認識の問題についてさらに熟考する中で、国連の霊的または秘教的重要性と、この偉大な国際組織の将来の進展と並行して起きる新しい教育の進展との間に存在する明瞭な繋がりをも私たちは発見するかもしれません。私たちがグローバルな分かち合いの経済が今日の初期段階にあるものとして適切に話すとしたら、国連もまたその最高の経済的、政治的および霊的可能性を明らかにする初期段階にあります。しかし国連はどのようにしてそのような崇高な役割を果たし、さまざまな官僚機構と専門機関を備えた政府間機関以上の、人類にとってより遥かに意味のあるものとなるのでしょうか。

いつの日か国連が、異文化とさまざまなレベルの物質的発展を伴う加盟国の間の正しい関係の事実を表わさなければならないことを私たちが受け入れると仮定して、この質問に答えるために私たちはさらに直感を使わなければなりません。なぜなら実に、主権国家、異なる文化および人種の観点から私たちが一般的に理解する正しい人間関係は、明らかに、多様なグループの交流に関連するからです。そして国家的、文化的、あるいは人種的なアイデンティティを越え意識を高めることによって、私たちの自覚的相互関係とひとつの人類としてのスープラアイデンティティを認識するようこれらすべてのグループを間接的に教育できるのが、強化された国際議会の存在とエネルギーそのものなのです。

悲しいかな、私たちの殆どが、将来の国連の霊的重要性について認識のないままでいることから、これらの所見は気ままな想像のほとばしりのように思われがちです。さしあたりは、その多くの欠陥と妥協のため国連を尊ぶ人は僅かですが、私たちはその存在が人生の内なる側面から象徴するものを理解しようとしないでその重要性をはねつけてしまうことに注意すべきです。国際社会における余剰経済資源の共同備蓄と公平な分かち合いに打ち込む独自の専門機関を国連が運営している日を想像してみましょう。これは世界の善意と最も広い意味での愛の意味を象徴する分かち合いの経済の完全なビジョンです- それは、グループ形成の中で人類に奉仕するということです。したがって国連は、私たちが国々と呼ぶ多様なグループが彼らの魂の目的を明確に示し時間の経過とともに彼らの霊的宿命を果たし始めることを可能にします。これは分かち合いの経済の解釈を著しく拡大することにつながりますが、そのことは広範な人間の剥奪という断続する悲劇を防ぐために不可欠なリソースを適切に誘導することに関係するだけではありません。さらにそれは、国々が彼らの慣習、伝統、文化という独自の特質を失うことなく彼ら自身を進化する魂として認識し始める初期段階を意味するのです。

これは、分かち合いの原理を通して国連が人類の霊的教育をどのように急ぐかもしれないかをとりあえず理解するのに役立つのでしょうか?再び私たちは、学校や大学など特に正式な教育の意味ではなく、人類の一体性を示すという国連の宿命的な役割の結果人間の意識にもたらされるであろう変革としての教育について話しているのです。各人および各国の魂が進化計画に合わせて人類に仕えるという霊的目的を持つのと同じように、国連は、地球での明らかな事実として魂の王国の現実を最終的に認め表現するという隠れた霊的目的を持っていると言えるかもしれません。

別の言い方をしてみましょう:貧困を根絶し、生態学的災害を回避するための国際的努力の比類ない動員は、人類のハートが「分かち合いの経済」の意味を正しく位置づけることを象徴しています。同時にそれは、世界の善意のダイナミックな表現を通して、国連を正しく位置づける第一段階をも象徴しています。そしてその最初の世界規模の善意のほとばしりが、魂の目的のより大きな意味と正しい関係を認識するよう人類を導くかもしれません。私たちが暗示したようにそれは、物質界である外部に出現する地球の霊的ハイラーキーとの意識的協力のもと聖なる計画を促進させるためなのです。[30]

したがって、正しい人間関係の普遍的表現を擁護することを可能にするいくつかの方法をもちいて、国連は人類を教育するよう努めることができます:

  • 世界情勢における分かち合いの原理の実現を監督し国家間の資源分配に正義とバランスをもたらすことによって。
  • 何千年という計り知れない時間の中で初めて人類との意識的協力のもと霊的ハイラーキー聖なる計画を遂行することを可能にするグローバルな組織的構造を提供することによって。
  • 地球における魂の王国の現実を認めることによって。これはキリストが人類のハート・センター(愛の側面)を表すという意味で象徴的に理解できると同時に、国連はいつの日か、すべての分野で大幅に拡張された未来の活動を通して、人類のヘッド・センター(叡智の側面)を表すかもしれません。[31]

現時点でどれほど突飛で難解に見えようと、これらすべての理由から、国際法立法フォーラムとしての国連のより高次の霊的可能性に対し偏見のない心を持って、分かち合いの経済の真の概念が国連と世界の関係に向けられるべきことが明瞭であることが望まれます。

私たちの直感を刺激するだろうシンプルな隠喩は、この地球全体を通してバラバラに散らばった愛のエネルギーの断片が、およそ惑星規模の膨大なジグゾーパズルであるかのように考えることです。したがって、世界のすべての国が等しくユニークでなければならない小片を代表するため、人類そのものと同じだけ古いこの巨大なパズルを完成することは各国にかかっているのです。それらの小片を再びもとのところへ戻す手段は実にシンプルなのですが、人類としての私たちの断続する進化を脅かす大危機に取り組むために、国々という家族のすべての使用可能な資金、能力、余剰資源の協力的な貯留をなんとしても必要とします。最富裕国が彼らの資源を発展途上国と体系的に分かち合い、また、同様に、発展途上国が彼らの資源を先進国と分かち合い始めると同時に、そして緊急の再分配プログラムのアイデアが、断続した大規模なデモンストレーションの中一般人によって支持され始めると同時に、私たちが愛と呼ぶパズルが一片ずつ徐々に完成していくでしょう。このように見ると、おそらく私たちは、自分たちが現在経験しているこの歴史的過渡期における国連の重要性を心に描くことができます – そして、それは人類が最も緊急な世界的優先項目に聖なる分かち合いの原理を初めて適用した時代として常に思いだされることでしょう。

現在の世界情勢に注目を向け直すにあたり、人類が世界中で真の平和や正義に近いものを経験する以前に、なぜ私たちは自分たちが新たな霊性教育の意味について熟考しているのか問うかもしれません。それは、政府や社会全般の十分な援助を受けることなくして何百万もの人々が薄汚く死んでいくことを許す惑星で、驚異的な宇宙を浸透するひとつの生命の性質についてどのような種類の包括的な教育を達成できるのかということです。世界情勢における分かち合いの原理の実現は、統治する国連総会の必要性と最終的に生きる術の開花を可能にする新しい教育方法の同じように不可欠な必要性に直接結びついているということを、理論的に私たちが認めるのも当然かもしれません。しかし、弱者や剥奪された人々のニーズに専心する特権者全員によってその教育が開始されないなら、今日これらの推論的熟考が私たちをどこに導くというのでしょうか。

私たちは常にこの中核的理解に戻らなければなりません。なぜなら、私たちが自分たちの家を建て直したいと思うならその基盤から始めなければならないからです。そして、21世紀の私たちの惨めさの基盤は、回避可能な人間性剥奪の恥知らずな現実の存続がいまだ許されているという事実です。霊的に教育されているということは、ハートから自分で考えるということをも意味します;したがって、貧困者の放置と搾取を防ぎ、最終的にこの古い不正を根絶するために行動しないなら、私たちは愛の認識を通して現時点で他にどのように私たち自身を教育することができるのでしょうか。

PART V: 最新技術の問題



神は、彼の創造性がまだ理解どころか認識さえされていない、素晴らしい

科学者であり偉大な芸術家であることをあなたは知っていただろうか?

私たちが神と呼ぶものは霊的アイデアであるけれど、その背後の現実

なくしてあなたもこれを読んでいなかっただろう – なぜなら、

神は無でありながらも彼の息吹きは万物の存続を支えているのだから。

あなたが在ることと成ることの起源は、

一つの電気火花からではなかったのだろうか?

分かち合いたいという人類の意欲の徴として、インターネットやオープンソースムーブメントの迅速な発展が見られることから世界変革における新技術の可能性について疑問に思う読者もいるかもしれません。しかし、もう一度自問してみましょう:最新の技術的革新が、尊厳ある健康な生活のために必要な不可欠品を持たないすべての人の生活の改善にも向けられていないなら、それは聖なる原理としての分かち合いの真の反映なのでしょうか?

私たちは革新や進歩への創造的推進力に悪いところがあると示唆しているのではありませんが、問題は、愛の認識と併せて、最先端のプロジェクトに取り組むことはできないのかということなのです。愛は、その最もシンプルで感傷的ではない理解を通して、次のように要約されます:「他の人々は大丈夫なのか」[32] 今日、特に若い世代を筆頭に、誰もが新たなデジタルの発見や商品化されたガジェットに夢中になっているようですが、常に改訂され見積もられるグローバル統計の報告結果に関係なく殆どの国で確実に悪化している貧困の不正義に夢中になることからは私たちは程遠いようです。[33]

世界中に不正が横行するしないに関係なく、人類が常に科学的および技術的発見に魅了され続けるであろうことは確実でしょう。科学調査と創造的革新は、自己の体質と地球の周囲の状態を探索する人間の本質的傾向の自然な延長であり、それは意欲的にいつまでも残るでしょう。したがって、さらに啓示的な一連の追求は、分かち合いの原理が私たちの考察に基づき経済情勢を統制するプロセスの軌道に乗った途端、テクノロジーがどのようにその全体的な形態と方向性を変えるかについての疑問に関係します。人類として私たちがもはや心理的に分離したままでいることができないことを意味する自然界の事実として、万人は創造の中でひとつであり、平等で、相互依存しているという認識を人類の大部分が受け入れるなら、何が起こるでしょうか。

確実に、新技術が社会にとって有益か有害かについての討論は徐々に消滅し、時間と共に人類の社会的、経済的および霊的発展に関係してすべての技術の正しい分かち合いへの一般的な関心に置き換えられるでしょう。現在の技術についてのジレンマは、物質的欲求が今日の文化規範および態度を支配すると同時に、自己満足的な無頓着さ、無知、無関心によって人類のハートが一般的に抑圧されている世界にのみ関連しています。私たちの消費者主導の世界全体で、表面的な要求と必要性に社会革命が起こっていると言えるでしょう。そのためそれは、ハートの霊的革命がまだ目撃されていないどころかほとんどの人に想像さえつかない、明らかに持続不可能で狂気的に自己破壊的な世界なのです。

したがって、私たちの生活の質を改善するはずの経済のデジタル化の拡大やハイテック商品の不断の製造を大手を振って熱狂的に受け入れる人々がいます – それを買う収入的余裕が私たちにあると思い込んでいるのです。同時に、日常に商業化を定着させ、しばしば民間人の自由や基本的人権の衰退と密接に関連する技術の有害な副次的影響を嘆く人もいます。しかし、何百万という人々が他の人々の決定的なニーズに目覚めるなら、そして、万人の基本的な物質的および教育的ニーズを提供する世界で新技術の目的が改められるなら、果たしてそのような分極化した討論がそれほど長く続くのでしょうか。

現在の動向の不幸な犠牲者は、世界の子供たちと不用心な若者たちです。彼らは物質形態に没頭することに個人の意識を制限し、自己認識の成長を妨げる商業化された技術の形態にとって容易なターゲットです。もちろん問題は、工業革命以前は想像できなかったであろうほど経済的に進んだ国々の平均的な家族の生活水準を全般的に改善した、社会的プログレスのための某体としての最新技術の存在にあるのではありません。問題は、これまで通り、世界人口の少数派のためのこれらの発展の利益を受け入れ、どのような技術的手段によっても社会的改善がとどくことのない何百万という人々の生活について殆ど考慮しない人間の意識にあります。

したがって、私益のために良いように利用されますます商業的方向に進められる代わりに真に万人の共益のために使われた場合の最新技術の意味合いについてじっくり考えてみましょう。これは、新しい技術的躍進を遂げ、ついで自らの創造の対象物に自己投影する個人の隠れた動機の問題がどのように生じるかを考えると、相当な想像力の飛躍を要するかもしれません。結果として、低次の自己または「私」が典型的に革新のプロセスを支配し、それは、新しい技術が万人の利益のために奔放に分かち合われる代わりに個人的または物質的利益のために喰い物にされる原因となります。その延長線上で考えると、利潤最大化に関心を持つ多国籍企業は、全人類の向上と改善のための世界のテクノロジーの分かち合いのどのような可能性をも阻止します。

革新能力は、理解と意識的進化を欲する私たちの衝動の当然の結果として人類にもたらされたかもれませんが、それは決して単に一握りの人々が独占したり、征服や支配の道具として使うために意味された本能的能力ではないのです。したがって、次のように問われねばなりません:技術の進歩と慈悲心の間にある関係は何でしょうか。なぜなら、正しい形態の技術が、世界中の最貧困者と分かち合われるなら、苦しむ無数の家族の健康および福利の回復を確実に大きく促進するであろうからです。AIDSや貧困が原因で起こる病気のための薬の多くは、私たちが技術と呼ぶものの一部であることを忘れないでください。それでもこれらの特許薬を開発する医薬品業界は、彼らの富が万人の利益のために地球によって奔放に与えられている薬草や植物に基づいているにもかかわらず、分かち合いや共益の精神によって駆り立てられているのではないことは明らかです。したがって、生命への慈悲的な態度を持ってこれらの問題を考察し始めるなら、薬品と医療の進歩のすべてがなぜ奔放に全体としての人類に与えられていないのか問わざるを得ないのです – それは、私たちの病んだ文明のすべての間違いの核心に迫る意味合いを持ちます。[34]

これらは、発展し得る分かち合いの経済を長年確立することによって万人が同じ平等な権利、機会および基本的自由の利益を得ることを可能にする世界での技術の役割を、私たちが理解し始めることさえできる以前の最も予備的な考察の幾つかです。唯一そのようなときに初めて、私たちは人類の霊的進化と同時に進歩する技術のより高次の目的を予知し始めるかもしれません。現在、私たちはロボットや自動化の始まりの中でこれらの未来の可能性のほんの僅かな兆候を目撃しているに過ぎませんが、機械によって生みだされる富の賜物が平等に分かち合われないとき、広範な失業や急増する不平等の見通しについて多くの不安がもたらされています。したがって、スーパーマシーンが内なる自己の現実について熟考し学ぶよう人類を解放し、そして最終的に在る術自己実現を追求する空間と自由を各個人に与えるために機能するさらに平等で平和な世界を予期することは困難なのです。

ここで私たちは、不朽の知恵の教えと魂の科学の学習研究へと向けられた霊的志向の学校の導入を革新的に要求するであろう新しいタイプの教育の確立の必要性についての考察に戻らねばなりません。この主題については、前述のアリス・ベイリーやその他の著者による執筆の中でさらに多くが書かれており、人間の霊的性質の目覚めに根づいた新しい教育と未来の技術との間のさらなる関係に特に言及する以外はこの本の範囲を超えています。事実は、新勢力と霊的エネルギーが世界に押し寄せると同時に、テクノロジーは人間の意識の進化を加速するために果たすべき偉大な役割を持っています。それでも、この主題における現代の著者の殆どは技術的プログレスのより深い霊的意味および重要性への認識がないままです。その将来の可能性は実に、はかない物質的形態の具体的な分析を通して理解することは決してできないと簡単に言えます。

テクノロジーの秘教的重要性は、環境をコントロールし、現在まだ目撃されていない科学的に未知の進化勢力と調和して働くことによって自然の隠された潜在力を解き放つ人間の能力に関係する「物質を超えたマインド」というフレーズに示されています。たとえば、私たちの電気の謎の部分的な解明は、いつの日か人間が使うことのできる宇宙に内在する思いもよらぬパワーの小さな徴です。しかしそれは、人間の気持ちが人類への奉仕に向けられ、そして私たちの動機の大部分が商業的または国家的または利己主義的な目的に妨げられない包括性によって特徴づけられるとき、初めて明瞭になるでしょう。読者はすでに電話の発明が人間生来のテレパシー能力を象徴することを知っているかもしれません。それと同様に、インターネットの発明は自己醒覚したアデプトが当然授けられるべき遺産であるひとつの世界についての認識または全知の意識を象徴します。[35]

方向が明確なマインドの内なる能力を通じて、形態の外なる生命を統制する自己の潜在能力を人間が発見するとき、将来の技術発展は並外れて加速するでしょう。いつの日か、それは魂の存在の化学的発見という結果をもたらしさえするかもしれません。そしてテクノロジーの進化が人類の霊的進化のための聖なる計画への認識と最終的に同調するとき、前述の考察のように、物々交換の高度なシステムと交換取引が世界規模で促進されるために必要とされる複雑な戦略的解決策をどのようにテクノロジーが提供するかも私たちは目撃するかもしれません。

要約して言えば、これらのコメントは、すべての驚異を条件づける聖なる目的と高次の宇宙論的法則についての現在の理解の欠如によって私たちの概念化がどのように厳しく制限されているのか把握することを促進するよう意図されているに過ぎません。確かに、テクノロジーの拡大は人間の意識の拡大と常に密接に関係しており、現代世界の定着した社会的、政治的、経済的、心理的および霊的分裂を覆す方向に進むまで、どちらもその正しい道を進むことはできないのです。

結論

慈悲心が、あなたの意図を導きさえするならば、人生はとても愛に満ち
とてもシンプルであり得るのです。そうでありさえするなら!

あなたが不在だった多くの人生を経て、あなたの
ハートはあなたを恋しがっているのです。

自身のハートに耳を傾け、他者に奉仕するならば、
あなたは自分の魂の聖なる存在を
讃えているのだということを知りなさい。

分かち合いの経済の内なる意味および全体論的意味についてのこれらの初歩的な見解に波調を合わせることができるかできないかにかかわらず、世界情勢に分かち合いの原理を実現することの決定的重要性について少なくとも読者が確信を持つことが望まれます。たとえば、テクノロジーがさらに分かち合われれば分かち合われるほど、人類の霊的進化のために良い結果をもたらす道具としてそれが何を達成できるかについての理解がさらに拡大します。そして、経済的不安定と多数派である貧困者の搾取を止めるために地球資源の分かち合いを人類が要求すればするほど、最も遠大な形式および手段の表現の中での分かち合いの経済が何を意味するかについての認識がさらに拡大します。

現在の限られた形態の分かち合いの経済を促進する人々のために、私たちの最も重要な所見を繰り返させてください。私たちが分かち合いのコミュニティ・ビジョンを人類の問題への持続的な解決策だと信じるなら、それは馬の前に荷車をつなぐようなものであるということが明瞭であることを願います。分かち合いの地域化されたやり方は、一度分かち合いの経済がグローバルな多国間プロセスとして確定的な実現段階に入って初めて急速に発展し、完全に包括的になるであろうことを私たちはまだ確信していないのでしょうか。[36]

最富裕国が、発展途上地域と富や資源を真に分かち合うとき、そしてより幅広い一般市民が、経済的分かち合いのアイデアをハートからその最もあるべきところへ向けるとき、それが、コミュニティ主導の基盤で分かち合いの実践が想像を遥かに超え開花するときなのです。なぜなら、ひいては生活と自由への基本的権利がそれまで満たされていなかった4、50億人を含んだ全世界が参加するだろうからです。そしてそのとき、広大な層の一般市民の間で、私たちが愛と呼ぶエネルギーが呼び起こされ解放されて、私たちの社会でかつて目撃されたことのない – 喜びと善意の流出、感知できるほどの世界規模のストレスおよび緊張の減少、富裕層と貧困層の間の新しく見だされた信頼感と希望感など – 内外の変革がもたらされるでしょう。

簡潔に言うと、山場を迎える世界情勢は、私たちが自分たちの懐や自己中心的な利益でなく世界と貧困者のニーズを優先するようやむなくさせています。そうでなければ、コミュニティレベルでの私たちの分かち合いのアイデアは、これまで以上に分割され商業化された無関心な世界への高まる動向の結果として必然的にもがきながら進むことになるでしょう。私たちは、大部分が受け身の有権者にもっと良い社会を約束する政治家のようになるでしょう。それらの約束は、そのときはまさに正直で本当のように見えるかもしれませんが、企業の後援者の命令に縛られた新たに選出された政府の中にじきに消えてしまうのです。同様に、完全に利益志向の物質主義的文化において、その表現が比較的小数の富裕者に限定された分かち合いの経済のビジョンの結果として何が生じるのでしょうか。そして、同盟国政府の間でグローバルおよび政治的レベルで実践される唯一意味のある分かち合いの形態が – 現実政治の制約に関連して – 武器、情報、秘密情報の分かち合いなのです。

食料、資金、その他の基本的物質資源だけでなく、全体の共益をもたらすために拡大されるべき共感および認識の無形の性質に至るまで、エネルギーと資源を適切な場所に誘導することに分かち合いの経済がどのように関連するかということを私たちは強調しました。さらに、この地球でバランスと正しい人間関係をつくりだすための手段として、包括的そして全体論的に分かち合いの経済のアイデアが理解されるところの(前述の)起こり得る待望の結果に反して、横行する有害な商業化勢力のエネルギーが働くと私たちは論じました。したがって「分かち合いの経済」という言葉さえが誤解され、そして見当違いな位置づけをされて、必然的に間違った手に落ちてきたのです。最善の意図を持つそれらの分かち合いの支持者の多くは、ゆっくり味合う前に捕らえたネズミをいたぶる猫のようにこの場合振る舞う商業化勢力のよこしまなパワーを認識できないでいるのです。

分かち合いの経済の変革的ビジョンは、それを持続することに従事するハートと社会にその表現を構造化するための聡明なマインドを持たずして発展できません。それなくしては、分かち合いのアイデアがどのように素早く営利および事業活動に降格され得るかは明瞭です。しかし、人類のハート・センターが目に見えて目覚めるとき、そして不必要に死んで行く同胞たちを救うために資源の正しい再分配を私たちが共に要求するとき、真の分かち合いの経済のビジョンそのものが突如として初めて話し始めるでしょう。

オバマ大統領が最初に選挙で選ばれ公職に就いたとき、世界の至るところで人々がどれだけ喜んだか、少なくとも、アメリカの外交政策が帝国主義的支配の追求から劇的に方向転換されるだろうといった当初の待望の日々を思いだすことができますか。[37] では、世界資源の分かち合いに政府が全力を傾ける日が、その何倍もパワフルで現実的な悦びを人類にもたらすであろうことは確実です。なぜなら、私たちがいまだ最大限に経験していないもうひとつの津波があるからです。それは、物理的勢力として有害でなく善意に溢れた – 愛の津波です。余りの勢力の凄さに、それがあなたを打つときあなたはひざまずかされるでしょう。新たな種類のエネルギー、新たな種類の明瞭さ、新たな種類の創造性と力を通じて、あなたの様々な試みにおいてあなたを持ち上げるであろう勢力。それは、すべての分かち合いの経済の提唱者が目指し受け入れるべき勢力です。なぜならそれは、最も裕福な郊外から最も貧しいスラム街に至るまで、世界変革への希望の水源であるすべての国の何百万、何千万人もの支持者によって支えられるであろうからです。

*

おそらく、真剣な読者はこれらの結びの言葉において、それでもいくつかの実際的な助言の言葉を求めるでしょう。その目的のために次の所感が提示されます。「分かち合い」という言葉が、政治的活動家の大多数の会話や想像にまでおよばない限り、分かち合いの経済の世界規模のムーブメントを生みだすことの非常な難しさを筆者は認めています。したがって今のところ、私たちが認めているように、その多くが不平等な富と資源の分配の問題から生じている、様々な表現における既存の自由と正義のための運動に参加することによって、可能な限りをつくさなければなりません。

同時に、私たちはまた、全体論的表現における分かち合いと協力への自分たちの理解をさらに深く掘り下げ、そしてこれらの普遍的原理が、人類に直面する相互連結した危機に適用される際の変革的可能性を熟考すべきです。人類の生存のために、国家間の経済プロセスとして分かち合いの原理が実現されることを世界が必要とするこのとき、分かち合いの政治的アイデアが知的概念のまま残らないようにしましょう。なぜなら、持てる者と持たざる者の間の拡大する溝はその中に、私たちの自己破壊の種を秘めているからです。したがって、しばしば繰り返される私たちの追求の前提どおり – 分かち合いの経済のアイデアが、私たちの考えと試みにおいて、世界的に、特に人類家族の最も恵まれないメンバーにまで拡大されることが最も重要です。

分かち合いの経済の真の意味は、世界の多数派である貧困層との関係においてのみ唯一見いだされるであろうことを、私たちは声が枯れるまで繰り返すかもしれません。しかしその認識が、即時の時間枠内で極度の剥奪をなくすことに集中した活発な議論と行動に転換されない限り、あまり意味はないのです。それらの断続した活動に参加すること、そしてこの創造的な概念を新たな未開発分野に拡大することに関心のある、分かち合い経済の提唱者グループを形成することから私たちを妨げるものは何もありません。何がなされるべきかを私たちはすでに明瞭に説明しました。それは、すべての場所のすべての人々のために、極貧からの解放を達成するという、あの長い間掲げてきた熱望を遂にもたらすために、国連とその関連機関を通して余剰資源を分かち合うよう政府に圧力をかけることです。

したがって、ともかく何らかの手段で、分かち合いの原則を具現化するコミュニティ主導型の活動を続けましょう。しかしまた、少なくとも一週間に一度は、それらの活動の方向を転換し、国内および遠方の海外の両方で、飢えた人々と極貧者のために分かち合いの経済に従事するよう政治的代表者たちを即すことはできないのでしょうか。西洋社会の主に裕福な地域で一般的に理解され適用されているように、様々な分かち合いの経済のアイデアやイニシアチブにすでに従事している人々の数を単に考慮してください。単一の要求を持って毎週結束し、そして貧困を決定的に根絶させるというこの精神を高揚させる、誇るべき目標に向かって政府が国の余剰生産品を再分配するよう即すために署名することから、それらの善意あるグループを何が止めているのでしょうか。

そのようにシンプルな一連の行動を遂行することに長く失敗し続ければするほど、分かち合いのアイデアそのものに何の意味もなく、魂も目的も未来も何もないということが明らかになるでしょう。もし私たちが繁栄と分かち合いのアイデアを自己の特定のコミュニティ、文化または国家に貼りつけるだけなら、それは一体どのような目的を持つのでしょうか。十二分に恵まれている人々と何も持たない人々の、ますます引き裂かれるふたつの世界の中で、他の人々のニーズについても考えない限り、私たちのアイデアは最終的に非人間的なものとなり崩壊の運命を辿るでしょう。

分かち合いの経済のビジョンを促進するための唯一の理由は、貧しく飢える大衆であると誤解されるかもしれませんが、現実は遥かに異なります。私たちの最大の関心は、認識、愛、コモンセンスを日常生活の思考と行動にもたらす必要性です。他の人々の福利への私たちの考慮の一般的欠落は、これらの長く抑圧された人間の特質を最もあからさまに証明しているに過ぎません。私たちが、貧困関連の原因から不必要に死んでいく人々を霊的に進化する神聖な権利を持った自分たち自身と同じ人間であると考慮しないなら、私たちはなぜ彼らを救うことに関心があるのかを自問する必要があります。万人に行きわたるだけの十二分な食料と他の資源が世界にあるとき、自分たちの集団的無関心の結果として人が死ぬのをもはや許せないのだということが、すべての理由の中で一番の理由ではないのでしょうか。

同様に、唯一真の希望が、人類全体の霊的ハート・センターの覚醒にあるとき、最終的に国連が世界を癒し、修復し、再生する私たちの最大の希望だと信じるのは誤りです。エネルギーと資源を適切な場所に運ぶための正しい動機をもたらす慈悲心と意識なくして、驚異的な変革をもたらすことができる要素が他にあるのでしょうか。この最後の修辞的疑問についてどうか注意深く考えを巡らせてください。それは、前途に横たわる惑星規模の再生の偉大な取り組みに私たちが個人的にどのように役立つことができるかについて多くを明らかにするかもしれません。

アネックス:ギフト経済とバーター

バーター(物々交換)と世界資源を分かち合うことに関連するギフト経済(ギフトエコノミー、贈与経済)の理解に関しては、多くのことが言えます(第2章を参照)。基本的な経済用語で、物々交換は、お金を使わない商品やサービスの直接的な交換として簡単に理解されます。それとは対照的に、贈与の社会的慣行は、金銭的またはその他の方法で即時の返礼または将来の報酬の明確な同意を期待するものではありません。贈与と物々交換の慣行は、交換手段としてのお金の発明に先行していたと考えられています。

しかし、従来の経済的思考では、物々交換は古代文明(おそらく新石器時代から)で最も一般的な交換様式でその非効率性は通貨システムの形成の原動力であったと仮定しています。一般的に、経済学の入門書は「国富論」のアダム・スミスの基本的なアイデアをいまだ支持していますが、この中で個人間の物々交換の原始的な性質が -「欲求の一致」につながり – 貿易と市場の拡大に必要な特化を妨げました。スミスの有名な言葉で言うなら、「交易、物々交換、売り買い」する性向は、人間に固有な競争的利己心を最大化するための人間に固有な性質の産物と見なされています。

人類学者は、これらの見解を裏づける歴史的証拠が不足していることを長い間確立してきました。純粋なバーター経済の実例は存在しません;しかし民族誌的データは、贈与が古代社会で物資やサービスを交換する最も普通の手段であり、しばしば複雑な慣習や親族のネットワークと結びついていたことを示唆しています。マルセル・モースが彼の古典的モノローグである「贈与論」で論じたように、市場前の社会システムの基本的な特徴は、互いを喰いものにし合って利益を上げる計算的なものでなく互恵と再分配に基づいた親密な共同体の絆の育成でした。利己主義でなく寛大さと分かち合いが、日常の規範でした。これらの人類学的発見は、信頼と連帯の本質についての深い洞察を提供し、また、現代の経済学分野の創設思想の一部、特に経済人の単純な新古典主義的概念に挑戦しています。

多くの思想家は、ギフトエコノミーの性質を現代の消費者の世界にどのように適用するかということに関心があります。「贈与の精神」を人間の生活のあらゆる側面に戻すことは、分かち合いと自由な流通より溜め込みを優先し;利他的な協力より競争と貪欲を優先するという反対の価値観が奨励される現代社会にとって、明らかに計り知れない意味合いを持ちます。惜しみなく与え感謝の気持ちを表現したいという私たちの生来の欲求を妨げ、富を上向きに集中させるよう機能し、そして所有権、利益、権益を通じて自然および社会のコモンズを枯渇させる債務ベースの通貨システムの問題について多くのことが書かれてきました。贈与のイデオロギーを新しい贈与の政治に変換する意欲を持って、日常生活の金銭的領域の縮小と定量化可能な経済の領域外における人間関係の活性化の必要性を認識する活動家を見ることは、非常に希望を与えられます。

私たちの視点から興味深いことは、物々交換が保守的な思想家と急進的な思想家の両方から否定的な見方をされていることです。たとえば、デヴィッド・グレーバーは、彼の有名な著書「負債論 貨幣と暴力の5000年」で、物々交換が前近代で起こった唯一の証拠は、「社交のほとんどない」「相互の責任感や信頼感のない」見知らぬ人々の間や敵同士の間であったと主張しています。したがって、物々交換に基づいた社会は、「皆がお互いにいがみ合う寸前であった」としか考えられません。「石器時代の経済学」の著者、マーシャル・サーリンズは、同様の議論を取り入れ、贈与と物々交換の間の相互依存の体系を特定していますが、後者は各当事者がしばしば相手を犠牲にして交渉から利益を得る意図がある点で最もマイナスでした。

カール・ポランニーは、彼の画期的な作品、「大転換」の中で、初期の文明の基盤としての人間のバーターの性向の誤りに対して長々と論議しています。彼は物々交換または「掛け引き」を、利益志向の商取引とほぼ同じように、そして経済の論理が社会関係に組み込まれている互恵と再分配の反対のものとして見ているようです。「資本論の第1巻」と「経済学批判要綱」の中で、カール・マルクスは、物々交換は直接的な利益追求と間接的な個人的利益でなく両方の当事者に提供する相互利益によって動機づけられていると見なす、これらの大前提に反論することは何も述べていません。今日でも、物々交換は通常、国民経済の崩壊後などの非常時にのみ人々が参加する小規模で珍しい非個人的な商取引と見なされています。

したがって問題は、「相互利益を追求するような方法で物々交換する」というこの些細な概念を超えて、物々交換の理解を広げることができるかどうかです。この本は、シェアリングエコノミーに対する私たちの一般的な認識が、現在の観念化と表現(通常、個人的または地域化された視点からのみ考えられている)において極度に制限されていることを論じています。物々交換についても同じことが言えます。もちろん、花嫁と引き換えにラクダを支払うといった時代遅れの文化的慣習など、私たちの時代まで人類の歴史を通して物々交換には常に暗く不公平な側面がありました。しかし、私たちは、物々交換とギフトエコノミーがどのように潜在的にまったく同一のものであり進化の軌跡と一致しているかを、この時代においてどれほどかすかにであっても認識できるのでしょうか?

ここで私たちは、驚くほど少数の学術思想家しか考えていない、物々交換経済がはるかに高い組織化のレベルで確立され分かち合うことの歓びと愛のある配慮(利益への解毒剤)によって動機を与えられる新しい文明の輪郭を指し示しています。私は、まだ発見されていない物々交換の哲学全体があり、そして今復興され相互依存する世界経済に再適用されなければならない、過去の多くの部族文化によってある程度例示されている生活様式があることを明言します。

それでも、極端な不平等や不正義や苦痛の中に沈められ、何千年も贈与の思考設定の外で生きてきた世界で、古代の贈与の精神をどのように目覚めさせることができるかはまだわからないのです。この問題についての私自身の立場は上記の章から明らかであるはずです。なぜなら、グローバル・サウスの最貧地域は、国民国家間で制定されたギフト経済を切に必要としているからです。ブラント報告書は、「優先プログラム」を通じて本質的にこの方向を目指しており、開発途上国、特にアフリカとアジアの貧困地帯への大規模な資源移動を求めていたと理解されるかもしれません。ブラントの提案は、グローバルな分かち合いの経済を構築するための初期の試みであると私は解釈したかもしれませんが、そのような緊急の資源移動を受け取る空腹の貧しい人々にとって、意識的かどうかにかかわらず、神からの贈り物としてそれが捉えられることは確かでしょう。したがって、ギフト経済と分かち合いの経済は、本質的に相互に関連しているのです。

とはいえ、ギフト経済の概念を中心に、草の根市民運動を動員したり、同じような流れでトップの政治家にアプローチしたりすることは実際的な戦略ではありません。私たちには「世界資源を分かち合おう」と要求する必要があります。したがって、私は贈与の革命的可能性を信じていません。それ自体が正しい人間関係に向けた大衆の蜂起を引き起こすことは決してないからです。私は結束した人々の力だけを信じています。それがなぜ私の追求がすべて世界中の何百万もの個人やグループと一緒に第25条を布告するというあの同じビジョンに回帰するのかという理由です。これは、人間の意識におけるUターンを表すでしょう。一部の人が示唆しているように、それは経済を「神聖」にすることではなくむしろ世界人権宣言第25条がそれ自体の中に人類の神聖さを包蔵していることを集団で認識することですが、人類の一体性への認識とでも言いましょうか。そして、ギフト経済の支持者が、死にゆく貧困者や飢餓者の緊急事態に言及しないなら、シェアリングエコノミーの熱烈な信奉者にも同じ議論が当てはまるのです(第1章を参照)-「他の人はどうなのか?」という態度によって特徴づけられた意識なくして、繰り返しますが、それは相変わらず、すべて自分たちおよび同志である支持者のためだけのものだからです。

強調されるべき最も重要なことは、世界資源を分かち合った結果として生じる新しいビジョンです。これは、社会的改善についての現在のアイデアや概念化をはるかに超えて拡大するビジョンです。国家間および国内での重要な資源の体系的な分かち合いは、国家および国家間レベルでの新たな法律、新たな規則、新たな制度を自然に生みだすことから、公正で公平な経済交流の非貨幣的様式が必然的に激増するでしょう。今日、私たちが知っている債務は、主権国家、政府、企業、個人を問わず経済情勢における影響力と関連性を徐々に失っていくでしょう。

このビジョンは、私たちの意識を何世紀にもわたって投影することを要求するかもしれないことは間違いありませんが、それがどのように展開するかを予測することはできません。この本の結論で示唆したように、物々交換経済の発展を地域からグローバルな規模で促進するであろうものは、おそらく大惨事だけでしょう。交換手段としてのお金の利用は、人間関係を支配しなくなるまで何らかの形で進化し、より慈善心に富む表現様式をとらなければなりません。確かに、使徒パウロが言ったように、お金はすべての悪の根源ではありませんが、利益に対する人間の利己的な動機は確実にそうです。それでは、分かち合いの原理の実現から生じる法律はどれほど素晴らしいのでしょうか。その1つの分野だけが、将来の非営利ベースの世界のための物々交換マクロ経済学の発展に関係しているのです。

したがって、各国が多国間交換メカニズムを通じて他国と「物々交換」するところの、余剰資源の世界的備蓄に向けた世界の事象の漸進的な動向を直感的に予測することが可能です。すべての国は、すべての国の共通のニーズ、生産物、能力を認識しており、すべての国が、不足しているものを世界的備蓄から自由に得ることができます。したがって、物々交換の拡大された定義は、適切な場所への適切な手段によるエネルギーと資源の誘導に関係します。この拡大された文脈の「交換」の意味は、必ずしも完全等価に基づく即時の相互交換を示唆するわけではありません。なぜなら、受け取られ、再分配される物々交換の物資の価値を決定する普遍的なクレジットシステムを想像することが理にかなっているからです。そのようなシステムは、その規模が巨大であり、その科学的正確さにおいて高度で技術的に洗練されている必要があることは間違いありません。慈善の考えそのものが長く忘れ去られた人類の過去の残骸として残る世界秩序にその例を当てはめることができるなら、今日のフードバンクの存在は、経済組織の違った組織化原理の小規模な手がかりを提供するかもしれません。

これがユートピアンドリームのように聞こえるなら、私たちの社会ですでに起こっている物々交換の進化を観察してみましょう。通貨が物理的領域からデジタル領域に移動しているように、電子マネーは、それだけでもこれから起こることの前兆なのです。インターネットやソーシャルネットワーキング・テクノロジーを介したり、創造的なアイデアや想像の自由な交換の観点から、物々交換には物質でなく関係性を示すものも数多くあります。ギフト経済についても、それが個人が自発的に、そして善意に基づいて返礼する(たとえば、感謝して受け取り、恩返しをしたいという願望)ように影響を与えるという意味で、同じような観察ができます。この観点から見ると、ギフト経済は物々交換を効果的に生みだし、物々交換はギフト経済を生みだします。したがって、物々交換と贈与の霊性が自然に生じることを可能にする、世界情勢の中での分かち合いの原理の実現は不可欠です。したがって、それは単に資源を分かち合ってお金を使わずに私たちのニーズを満たすというだけの問題ではありません。すべての社会的および経済的活動はまた、私たちの中に感じられる神性によって、そして不朽の知恵についての教養のある理解によって満たされ動機づけられていなければなりません。

これが、繰り返される私たちの議論なのです:地球資源の公正な分かち合いは、それがキリスト原理によって生命を吹き込まれ生きる喜びの表現とならない限り、決して達成されないでしょう。おそらくそれが1980年代にブラント報告書が真剣に取り上げられなかった理由を説明しているのです。なぜなら、政治階級からもより広い大衆からも、公共政策の決定に生命を吹き込むこの「内なる」愛の性質の兆候が見られなかったからです。緊急再分配プログラムは、贈与と分かち合いの精神によって動機づけられるべきであると言う人もいるかもしれませんが、それは本当は必要性から生まれる認識の問題なのです。私たちが私たちの兄弟のニーズを認識した途端、それらのニーズは必然的に私たちの行動の尺度とならなければなりません。したがって私たちは世界のエネルギーと資源を適切な場所に適切な手段で誘導するのです。

第2章の冒頭で説明したように、分かち合いの経済の霊的および全体論的な意味は、あらゆる点で「共にある」ということを忘れないでください。同様に、贈与の精神は、意識、常識、愛情のある理解という点で、この内なる角度から説明することができます。物々交換もまた、そのより高い霊的つながりにおいてこれらの同じ内なる性質によって支えられており、したがって信頼、叡智、創造性、知恵を育みます。ギフト経済および物々交換経済の秘教的片割れは、多様性の中での調和、平衡、統一ですが、これらの霊的原理および法則のより高い意味を人類が一般的に理解するときにまだ達していないのです。

ここでの私たちの観察は神の愛の美を取り囲んでいますが、その視点から、物々交換を惑星の霊的法則および秩序の一部として理解することができます。それは、それ自体が聖なる知覚の表現です。それは、人類の未来の霊的進化のなくてはならない経済的促進者であると言わせてください。したがって、ギフト経済、物々交換経済、分かち合いの経済はすべて、神性の存在から生まれたのです。そして、聖なる分かち合いの原理の永続的存在がなかったなら、これらのアイデアや社会的慣行はひとつとして生まれていなかったでしょう(または現代において再生していなかったでしょう)。ギフト経済は、慈悲と霊的認識のレンズを通して知覚されるなら、人類のコモンズの一部として説明することもできます – しかしそれはまた別の本で探求されるべき分岐する一連の追求です。[38] 私が指摘しようとしているのは、たとえ「分かち合い」という言葉を使うことが不本意で、魂のレベルからの深いインスピレーションに対して無意識的なままでいようと、どれだけ多くの思想家や活動家が分かち合いの原理への扉を開こうとしているかということです。

私にとってのギフト経済の概念は、分かち合いのもう1つの哲学的分析であり、奇妙にもコモンズの理論家に関連していますが、コミュニティベースの分かち合いの経済の擁護者よりおそらく洗練されているのです。棚上げにされた非常に多くの変革的な政治理論がそのときが来るのを待っています。分かち合いの経済は、新旧を問わず何千もの異なったアイデアで炸裂するだろう人類の進化の偉大な法則です。そしていつの日か、これらすべての複雑な用語が溶けて、私たちの生きる歓びの体験と直接的に比例して、はるかにシンプルな人生の理解に置き換えられるときが来るのを願っています。すべての経済的概念は、分かち合いの原理の知的な波紋のようであり、異なる資質を持ちながらも慈悲という名の同じ母によって繋がれた兄弟姉妹のようなものなのです。主流の考えを光明の道に集中させたり神性を正しく受け入れることに私たちを導いた人間の哲学はこれまでありませんでした。しかし、最終的にすべて愛なのです。ですから、贈与、物々交換、分かち合いの経済そのものについて話すより、むしろ愛の経済について話してみませんか?それは私たちの現在の複雑な人類にとってシンプルすぎるかもしれませんが、霊的に進化しているものもまた、実に、本当にシンプルであるのです。

注釈

[1] 第1章全体で触れられているように、経済的分かち合いの2つの競合するビジョンの間に残る顕著な矛盾に注意することは読者にとって有益であるかもしれない。一方で、ここ数十年を特徴づける唯物論的考え方を拒否し、所有権や目立った消費ではなく、連結性と分かち合いを特徴としたまったく違った生き方の必要性を認識している人々がいる。彼らは、「より多くの分かち合いとより少ない所有物」の倫理を受け入れ、そしてこの本の最初の章が主に向けられたミレニアル世代のテクノロジーに精通した人々である。一方、多くの起業家は、収益の増加、株主価値の最大化、市場の独占が存在理由の新規事業の立ち上げに関連したシェアリングエコノミーの非常に異なった考えを持っている。多くの解説者は、これらの商用化されたインターネットプラットフォームが形はどうであれ、真の分かち合いそのものと共存できるのか、そしてより公平かつ公正および持続可能な世界に私たちを近づけることができるのかどうかを疑問視している。

筆者の視点から、主に高所得国で少数の裕福な消費者に応じる営利事業ベンチャーと、分かち合いという崇高な原理を融合させることは、ジョージ・オーウェル式の二重表現の妙技である。労働者の搾取および不十分な規制をめぐって断続する法的な異議申し立ては、このC2Cモデル(消費者間取引)の資源の分かち合いの真の性質と方向性を明らかにした。そのようなオンラインソーシャルネットワークと電子市場の先駆者によってすでに生みだされた莫大な富は言うまでもない。明らかに、以前の非経済的な生活圏を市場にだすための営利企業の本質的ダイナミクスは、インターネット対応のシェアリングエコノミーであっても支配的な企業部門であっても何ら違いはない。私たちの技能、私物、コミュニティ活動を収益化することにより、市場界と非市場界の間の境界線はますます曖昧になり絡み合い、そしてそれは消費社会の利益の必要性を一層強化するよう作用するだけなのである。現在の理解においてシェアリングエコノミーの詳細な批評や類型を提供することは私たちの意図ではないが、この言葉の商用利用はせいぜい不誠実で誤解を招くものであるということには同意する。一般的に使用されているより適切な用語には、クラウドベース資本主義、共同消費、プラットフォーム経済、アクセス経済、レンティングエコノミー、またはオンデマンドエコノミーが含まれる。

[2] 人類学者は、人は本質的に個人主義的で利己的であるという一般的誤認に反して、贈与と分かち合いが世界中の社会におけるコミュニティの人間関係の基礎を長い間形成してきたことを示してきた。この証拠に基づいて、最近の一連の科学的研究は、人間として私たちには生存と集団的な福利の可能性を最大化するために協力し分かち合う自然な傾向があることを示している。分かち合いと互恵の行為がなければ、社会と経済を構築するための社会的基盤はない。学術的思考のレビューについては以下を参照:ジェレミー・リフキン、The Empathic Civilization共感文明)、Cambridge:Polity Press、2009。 マイケル・トマセロ、Why We Cooperateヒトはなぜ協力するのか、橋彌一秀訳、勁草書房)、Cambridge:MIT Press、2009。 フランス・ドゥ・ヴァール、The Age of Empathy共感の時代へ、柴田 裕之訳、紀伊國屋書店 (April 22, 2010))、New York:Harmony Books、2009。コリン・タッジ、Why Genes are Not Selfish and People are Niceなぜ遺伝子は利己的ではなく人は素晴らしいのか)、Florisbooks, 2013。

[3] 2011年から2016年の間、私たちのキャンペーングループ、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)は、シェアリングエコノミーの概念の促進に焦点を当てた多くのイベントでこのシンプルな視点を強調した。いくつかの例外を除いて、分かち合いの政治とそのマクロ経済的側面は、一般的に個人間(ピアツーピア)および/または商業化された形式のコラボレーションだけに関係していたこれらのフォーラムでは無視されていた。したがってSTWRは、シェアリングエコノミーを構成するものについての理解と解釈を広げる必要性を論じた。気候変動や社会的不平等のような長期的で体系的な問題は、政府の政策と効果的な国の法令を通じて取り組まれなければならないということは理にかなっているのである。

確かに、国家の基本的な社会的機能は集合的な経済の分かち合いの一形態として理解することができる。たとえば、累進課税と再分配のプロセスを通じて、私たちは社会全体の利益のために国の財源(個人所得と資産、および企業の利益)の一部を分かち合う。政府は、より多くの人が医療、教育、住居、公益事業、その他の重要な形態の社会保障などの不可欠な物資やサービスにアクセスできるようにするために、税収の大部分を再分配する必要がある。どのように非効率的な管理であろうと、福祉および公共サービスの提供の普遍的システムは、明らかに国内の不平等を減らし社会的一体性を強化することができる社会正義の表れである。このような視点から、「大不況」(2007年 – 2009年)に続いて大多数の国に課せられた緊縮財政措置は、あらゆる賢明な定義により、分かち合いの経済の対極と見なすことができるのである。

これは特に急進的な解釈ではないかもしれないが、世界人口の大多数- 国際労働機関によれば、ほぼ5人に4人- が包括的な社会的保護を保証されていないという事実が存在する。しかし、多くの低所得国は、普遍的な社会的保護に資金を提供し経済発展を促進できる効果的な税制を構築するために必要なリソースをまったく持っていない。これらの現実は、国家間および国内での新しい形態の経済的分かち合いを拡大する緊急の必要性を示している。極貧と隣り合わせて存在する途方もない富のレベルを考えると、国々という家族全員を包含するよう分かち合いの国家システムを支える指針を拡張することは不可欠だ。これは、何十年にもわたって提案されてきたように、特に、共同備蓄された資金と自動移動の国際システムに変換されるべき海外援助の現在の取り決めに少なくとも劇的な影響をおよぼす。人権の取り組みと一致して、貧困国が提供できるものと最小限の社会的保護の土台との間のギャップを埋めることを促進できる「社会的保護のための世界基金」についての長年の提案も存在する。

ここで私たちが示そうとしているのは、分かち合いの経済が政治的に何を意味するのかについてのより広い理解である。もちろん、それには社会的および経済的政策の領域を超えた他の多くの側面がある。初歩的な視点については以下を参照:シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、「グローバルな分かち合いの経済に融資する」、2012年10月、「グローバルな経済的分かち合いへの手引き」、2014年6月、「分かち合いの経済に関するリソース・コレクション」、2014年5月。

[4] 注釈[6]を参照。

[5] このテーマの詳細については次を参照:モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、「商業化:分かち合いの対極」、分かち合いの原理についての考察、Matador Books、2020。

[6] これは、興味を持つ読者に有益な一連の追求を提起する。その目的で、つぎの要約がさらなる熟考と考察を促すために提供される。私たちは、植民地時代を特徴づけた略奪と搾取の過程における不平等な世界システムの歴史的ルーツを調べることから始めるかもしれない。少なくとも15世紀以来、主にヨーロッパの産業革命に資金を提供するために、計り知れないほどの富がグローバル・サウスから吸い上げられた。征服、囲い込み、奴隷制、強奪を通じて、西ヨーロッパ、そして後には米国の裕福なエリートの利益のために自由市場システムが非西欧世界全体に形成されたのである。したがって、発展途上国から原材料と富を抽出し、その労働力を搾取し、西側の余剰品に新しい市場を提供するよう世界経済システムのコアが設計されたグローバリゼーションの最初の「黄金時代」が特徴づけられた。富裕国と貧困国の間の深刻な不平等の起源を理解するために、私たちがこの痛々しい歴史を研究することは重要である。

かつて植民地化されていたアフリカ、アジア、ラテンアメリカの国々の間で、楽観主義が高まり始めたのは戦後のことであった。グローバル・サウス諸国の多くは、政府の強い介入主義的役割と安価な原材料の輸出へのより低い依存度に基づき、国家開発のより自主的なモデルを実験した。世界レベルでは、国連が新国際経済秩序の導管として機能し、過去の経済的および社会的不正義を是正することが期待されていた。開発途上国の不平等と不均衡をなくす目的で世界秩序を再構築することを視野に入れ、途上国のニーズを明確にするために国連貿易開発会議(UNCTAD)が設立された。

しかし世界資源のより公平な分配を歓迎するどころか、支配的な先進工業国は新たにグループ・オブ・セブン(G7)と名づけられ、世界経済ガバナンスにおける国連の役割をさらに脇に追いやるよう巧みに操作した。第三世界の債務危機が高まるにつれ、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が1980年代にその大混乱に関与し始め、「構造調整」政策を条件とした融資を推進する環境が整えられた。これは、経済的正統性が劇的に覆されたことを示した:グローバル・サウスの打ちひしがれた政府は、市場の自由化、貿易障壁の削減、国有企業の民営化、大規模な公共部門の解雇の実施、さらには基本的な社会サービスや不可欠な食料品への補助金の削減を余儀なくされた。債権者への義務を維持するという圧力の下で、社会的セーフティネットはしばしば破壊され、そして医療、教育、小規模農家への援助などの公共財から資金が転用された。

これらのプログラムを支えたいわゆる新自由主義の教義は事実上、人間開発を促進する上での再分配アジェンダの放棄を表したのである – これは、国連の創設ビジョンにとって受け入れ難いものであり、1950年代や1960年代には考えられなかったことであろう。それは、グローバル・サウス諸国が国内経済に対してある程度のコントロールを取り戻すよう助けることを目的とした、かつての国家の自立と輸入代替の政策に終止符を打った。代わりに、IMFと世界銀行のリストラプロセス(70か国以上で適用)により、被援助国政府は国家主導の経済構造を解体し、自由市場の範囲を拡大することを余儀なくされた。多くの批評家は、その真の目的は貧しい国々の発展を助けることではなく、過去数十年間の発展を後退させ彼らの経済的および財政的運命をより強固に支配することであったと論じている。

過去50年間で、世界経済における権力の中心は、富裕国の優先事項に都合の良いように著しく偏った主要な多国籍企業、多国間銀行および貿易体制にますます移行している。国連や他の機関からのデータ分析は、この極端な市場主導のグローバリゼーションモデルの非難されるべき証拠を提供している。開発産業は富裕国と貧困国の間のギャップを埋めることを常に約束していたが、1960年代以来、不平等は拡大し続けている(一人当たりの収入やさまざまな財源の流れの観点から測定するしないにかかわらず)。一部の新興市場(中国、香港、韓国、台湾、マレーシアなど)が外資の流入の増加から恩恵を受けてきた一方で、他の地域、特にサブサハラ・アフリカ地域が世界経済に有益に組み込まれたことは一度もなく状況は複雑である。現代のグローバリゼーションはほぼすべての国で所得格差を拡大させ、勝者と敗者の新しい超分裂を生みだした。おそらく人類の3分の2は、最も裕福な市民に利益をもたらす世界的な生産と消費の連鎖から除外されている。これを21世紀における世界経済のアパルトヘイトの増勢傾向として述べる人もいる。

この脚注で、これらの動向を覆すために世界レベルで必要とされる抜本的な制度改革または持続可能な開発の新しいビジョンを支えるべき分かち合いのマクロ経済政策を要約することは不可能である。ここでは、不変の現実を強調するだけで十分かもしれない:最貧国全体で、彼らの社会の貧困化の拡大にもかかわらず、グローバル・ノースへの資本と資源の純輸出国であり続けている。完全に不十分な海外援助と慈善活動の方策が世界経済の体系的な不正義を覆い隠している一方で、富裕層の贅沢なライフスタイルは事実上、世界の多数派の貧困によって賄われているということである。

[7] 世界経済フォーラム(WEF)は、毎年1月末にスイスのダボスで開催される招待制の年次総会に政治的およびビジネスリーダーらが集まる1971年設立の国際財団である。グローバル正義運動家は、特権的なグローバル・エリートの歪んだ世界観と偽善を暴露するために、この時期しばしば動員してきた。たとえば、世界社会フォーラムは、ダボスで支持されているグローバリゼーションの企業ビジョンの好対照として考えられていた;社会フォーラムは、「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンに要約されるように、世界の経済問題への代替策を促進するために経済フォーラムとほぼ同時にその都度開催された。

ダボスでの議論は表面上、世界的懸念である主要な問題、特に、国内および国家間の生活水準の極端な違いに焦点を当てている。とりわけ、2015年の会議では、「分かち合いと思いやり」というスローガンが導入された。しかし、オックスファムのようなキャンペーングループがしばしば説明しているように、ダボスで支持されている唯一の種類の分かち合いは、政府の介入と、富、権力、資源のより公平な分かち合いを必要とする実際の解決策とは対照的に、チャリティまたは慈善活動の文脈内にある。確かに、オックスファムは定期的にWEFの年次総会を利用して、大きな世界の不平等を浮き彫りにしている。WEFの創設者であるクラウス・シュワブ氏が2015年に「分かち合い」のスローガンを支持した翌年、オックスファムが、人類の最も裕福な1%が世界の最も貧しい人口の富を合わせたよりも多くの富を所有していることを明らかにしたのは有名である。

[8] 2015年、193のすべての国連加盟国が、17の相互に関連する目標を含む持続可能な開発のための2030アジェンダを批准した。持続可能な開発目標(SDGs)または「グローバル・ゴールズ」として知られるこれらは、多くの称賛に値する目的を掲げたターゲットと指標の詳細なリストで構成されている。ミレニアム開発目標と呼ばれる前身とは異なり、SDGsは多くの野心的な環境目標を含むと同時にグローバル・ノースとグローバル・サウスの両方の国々に適用される。しかし市民社会団体は、地球の危機のより深い構造的原因に挑戦しなかったとしてSDGsを厳しく批判した。また、それらは国内および国家間でより平等に資源を再分配する必要性を明確に反映していない。世界的な景気後退、開発援助の減少、国連の活動の縮小および多国間協力からの撤退という現在の状況では、宣言された変革的なビジョンをSDGsが達成する見込みはほとんど皆無である。詳細な背景については以下を参照:シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、「持続可能な開発目標を超えて:世界の貧困の真実を明らかにする」、2015年9月。

[9] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略(パートI:政府の失敗を参照)。

[10] 世界中の富裕層と貧困層の間の格差拡大を正当化するために、1980年代以降、世界的に極貧のレベルが着実に減少していることは政府や多国間機関によってしばしば繰り返されてきた。世界銀行は一貫して、世界の貧困状況について上向きのイメージを醸しだしてきた。通常これは、自由市場と自由化政策への一般的なイデオロギー的信条を有効に後押ししている。貧困者の生活が少しずつでも改善されている限り、企業のグローバリゼーションが生みだす少数派の莫大な富はすべての人にとって有益と見なすことができるからである。

しかし、著名なアナリストたちは、特にその恣意的に低い所得の貧困線について多くの点で世界銀行の統計を長い間批判してきた – かつては1日1ドルに固定され現在は1日1.90ドルに変更されている。この貧困線ぎりぎりのところで生活する大人と子供は依然として深刻な剥奪に苦しんでおり、貧困関連の原因で早期に死亡するリスクに直面する傾向がある。「健康と福祉…に十分な生活水準」(世界人権宣言、第25.1条)の権利を満たすために必要な経済的収入を正確に反映するより高い貧困線が使用された場合、貧困の大きさに関する私たちの理解も大きく変わる。たとえば、南アジアとサハラ以南のアフリカの人口の約90%を含めた人類の40%以上が1日5.50ドル未満で生活している。医療、基本的なエネルギー・水供給、教育、保障へのアクセスなどの剥奪の他の側面が含まれる貧困の多面的な見方は驚くべき真実を明らかにしている:発展途上国の全人口の大多数は、尊厳を持って健康に暮らすための十分な手段を持たないのである。

2021年現在の執筆時点で、世界銀行は独自の判断に基づいてでさえ、Covid-19とその悲惨な経済的影響により世界の極貧がさらに1億5,000万人増加すると予想されることを認めている。2030年までに世界の絶対的貧困率を3%未満にするという「持続可能な開発目標」の最初の目標は、「迅速で意味のある実質的な政策措置なくして」到達不可能であると現在考えられている。

[11] これらの言葉が最初に書かれたとき、地域的な蜂起と抗議運動は世界情勢の非常に顕著な特徴だった。緊縮財政反対のための動員は、ギリシャ、カナダ、ドイツ、イギリス、そして「ヌイット・デバウト」運動が出現したフランスなどの国々で特に活気があり断続していた。

[12] この数字は疑わしいほど大きいように見えるかもしれないが、実際には、極度の貧困と不十分な社会的保護の結果として毎日不必要に死んでいく人々の数を過小評価している可能性がある。この計算はもともと2012年の世界保健機関からの「疾病負荷と死亡率の推定値」に基づいていた。WHOによって「グループI」の原因と見なされる伝染性、母体、周産期および栄養の病気のみが分析の対象となった。これらの原因による全死亡の96%は低中所得国で発生しており大部分は予防可能であると考えられている。それでもコロナウイルスのパンデミックの結果、世界中で生命を脅かす剥奪の真の範囲は(主流メディアによってほとんど無視されているが)大幅な増加傾向に向かっている。2020年末国連は2億7000万人が深刻なレベルの飢えに陥るリスクが高いかすでに直面していると推定した。

[13] 分かち合いの原理についての考察、op cit。

[14] 世界資源を分かち合うという考えは、多くの進歩的な政策思考の分野で重要なテーマとして浮上している。たとえば、国連の気候変動交渉の中心は、先進国と発展途上国の両方の経済的利益を守りつつ、すべての国が炭素排出を吸収する地球の大気の限られた能力をどのように分かち合うことができるかについての議論である。「公平な分担」の概念はこの議論を組み立てるために市民社会組織によって長い間取り入れられてきた。これは、地球の環境限界を超えることなくすべての人が基本的なニーズを満たす必要があることを示すのに役立つ。経済的分かち合いはまた、化石燃料消費を規制するための「上限と分担」モデルと、世界の一人当たりの排出量を平準化するための広く支持される「収縮と収斂」の枠組みの中心でもある。「エコロジカル・フットプリント」などの指標は、人類がどのように地球が毎年再生できるより多くの資源を使用し続けるかたわら自然の範囲内でそれらの資源を分かち合うことをできないでいるかをリアルに示すのに役立つ。

同時に、学者や持続可能性の実践者は、個人が限りある資源の公平な配分以上を消費することなく、どのようにして質の高い生活を享受することができるかということに関係する「ワンプラネット・リビング」の概念を反映した、地域化された経済的代替案の必要性を長い間認めてきた。この視点から、社会的に適切な方法で物質的およびエネルギー消費を削減することを目的とした、成長後の社会または「脱成長」の提案を評価することができる。したがって、富と収入の公平な分配、より明るい参加型の社会、そしてコモンズの復活に重点が置かれている。さらなる背景については以下を参照:シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、「私たちの共通目標としての分かち合い」、2014年12月。

[15] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点2016(Part II:内なるCO2と外なるCO2)。

[16] 1970年代後半、ウィリー・ブラント(ドイツの前首相)は、「人類を脅かす莫大なリスク」を検討するために、熟練した政治家と専門家からなる独立委員会を召集した。多くのマスコミの注目を集めた「南と北:生存のための戦略」というタイトルの最終報告書は、史上最も多く売れた国際開発に関する本の1つである。ブラント委員会が最高レベルの国際会議を提案した後の1981年10月、世界の貧困問題に関する長年の交渉の行き詰まりを打開する目的で、8カ国の先進国と14カ国の開発途上国の指導者はメキシコでのカンクン・サミットにおいて集まった。代表の国家元首が非公式の場で2日間会合することによって、すべての国の間で世界的な交渉を進めることを可能にする勢いと善意を生みだすことが期待された。

しかし、結局確固たる提案は実現せず、資源の世界的な再配分へのグローバル・サウス諸国の要求は満たされないままとなった。特に、米国のロナルド・レーガン大統領は、少数の先進国と大多数の貧困国との間の富のギャップを埋めるというサミットの目的を拒否した。ブラント委員会の勧告のすべてが今日適切なままであるとは限らないが(特に、環境の限界に急速に近づくこの時代の貿易自由化と世界的なケインジアン政策の強化に対する強調など)、政策立案者と市民社会運動家がその「優先事項のプログラム」とより公平な世界のためのビジョンから引きだすことができるものはまだたくさんある。これには、とりわけ、開発途上国への大規模な資源移転および広範囲にわたる農業改革を必要とする5年間の緊急プログラムのための提案が含まれる。委員会はまた、新しいグローバル通貨システム、開発金融への新しいアプローチ、調整された軍縮のプロセス、および再生不可能なエネルギー源への依存からの世界的移行を求めた。

政府らは今日まで、「関連する国際機関の支援と協力を得て、すべての国の間で南北問題の全範囲を議論する」ための多国間プロセスというブラントのビジョンをまだ実現していない。以下を参照: Willy Brandt, North-South: A Programme for Survival (The Brandt Report), MIT Press, 1980; Willy Brandt, Common Crisis, North-South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission, London: Pan 1983

[17] 詳しい背景については以下を参照:シェア・ザ・ワールズ・リゾスィーズ、「国連と分かち合いの原理」、20079月。

[18] 詳しい背景については以下を参照:「グローバルな分かち合いの経済に融資する」、op cit, パート3:外国援助の拡大。

[19] 世界人権宣言の第25条は以下のように述べている:(1)すべての人は、衣食住、医療および必要な社会的施設等により、自己および家族の健康および福祉に十分な生活基準を保持する権利ならびに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢などの不可抗力による生活不能の場合は、保証を受ける権利を有する。(2)母と子は、特別な保護および援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

[20] cf. グローバルな分かち合いの経済に融資する、op cit。

[21] この視点とビジョンは、私たちの旗艦本でさらに拡大されている:世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略、op cit.

[22] 注釈[16]を参照。

[23] cf. 「国連と分かち合いの原理」、op cit.  

[24] 自然界の各王国はその直下の王国から発達し、人間より高い第五王国(霊王国または「魂の王国」として知られる)はいつも私たちと共にあったが(キリスト自身によって教えられたように)、現在肉体次元で徐々に出現している。アリス・A・ベイリーの著作で説明されるように、その王国は「時代を超えて霊的目標を追求し、肉体の限界や感情の支配や障害となるマインドから自らを解放した者たちすべてによって構成されている。今日、その住人は(大多数に知られず)肉体を持ち、人類の福利のために取り組み、一般的なやり方として感情でなく愛を使い、世界の運命を導く光明あるマインドを構成するあの偉大なる一団である」 (The Reappearance of the Christ, P. 50, Lucis Press Ltd, 1948).

[25] この主題についての詳細は以下を参照:The intersection of politics and spirituality in addressing the climate crisis: An interview with Mohammed Mesbahi, Matador books, 2020.

[27] 特に以下を参照:Education in the New Age, Lucis Press Ltd, 1954; Letters on Occult Meditation, Letter IX, Lucis Publishing Company, 1922; The Unfinished Autobiography, Appendixes, Lucis Publishing Company, 1951.

[28] 不朽の知恵とは、宇宙のエネルギー構造、人間と自然の意識の進化、そして正しい人間関係に重点を置いた人生の霊的現実についての古代の教えの集大成を指している。それは、時代を超えて芸術と科学にインスピレーションを提供しながら主要な宗教的伝統の根底にある多くの秘教的または隠された教えをつなぐ黄金の糸として説明されてきた。何千年もの古い教えでありながら、人々自身の生活や経験の中で活発に表現される漸進的に啓示的な性質のため、「古代」ではなく「不朽」とされている。過去1世紀にわたって、これらの教えの顕教的形態は、神智学協会の設立者であるヘレナ・ブラバツキーによって一般に公開された後、後にアニー・ベサント、チャールズ・リードビーター、アリス・ベイリー、ヘレナ・レーリッヒ、ルドルフ・シュタイナー、ベンジャミン・クレームなどの著作を通じて広く西洋に広がった。

[29] この文脈において、私たちの「内なる空間」の概念は、時間や経済的手段と平均的な人が生きる術の真剣な実践に打ち込むために必要な社会的支援や培われた関心の観点から理解できる。これは、前章で示唆したように、私たちの現在の教育システムと真に普遍的な社会的保護の提供に計り知れない影響をおよぼす。

[30] 霊的ハイラーキーは、自己統御(self-mastery)を通じて、人類の進化のあらゆる分野で統御(mastery)を達成した人類のメンバーの集合体である。知恵の覚者(Masters of Wisdom)として知られるハイラーキーの上級メンバーは、この惑星の聖なる計画の管理者であり、政治、宗教、教育、科学、哲学、心理学および経済の世界的取り組みのすべての主要分野における弟子たちを通じて舞台裏から従事している。現代におけるハイラーキーの活動の尋常を逸した劇的な特色は、現在進行中の、外界活動に復帰するための準備である。自然界の新たな王国、第五王国または魂の王国の出現が、この時期地球上で突如として起こっており、覚者方のさまざまなアシュラムが出現し公に知られるようになるにつれ人類の新しい時代の特徴となるだろう。私たちの惑星的ハイラーキーの性質と働きの詳細については、マスターD.K.によってアリス・A・ベイリーを通じて執筆された著作がLucis Trustから出版されているので、特にそれらを参照されたい:Lucis Trust: Initiation, Human and Solar, 1922; The Reappearance of the Christ, 1948; The Externalisation of the Hierarchy, 1957。より現代の情報は、シェア・インターナショナル出版からのベンジャミン・クレームによる本にも記載されている。

[31] ここで眉をひそめる鋭い読者にとって、これは象徴的なもので厳密に文字通りの言葉ではないことを強調しておく必要がある。不朽の知恵の教えでは、シャンバラは地球のヘッドセンターを表す(人間のクラウンチャクラに対応する)。それは「の意志が知られる中心」であり、私たちの惑星ロゴス意志目的を具現化する地球上で最も高い霊的センターである。第二の主要なセンターである霊的ハイラーキー(または魂の王国)の媒体を通じて進化の聖なる計画を発出する旧約聖書の「古代の日々」またはヒンドゥー教の経典最初のクマーラである世界の主の大評議会が存在する。この第二のセンターは、の聖なる側面を表しており、キリストまたは世界教師として知られるの愛の原理(キリスト原理)の化身によって率いられている。彼は偉大な人間神のメッセンジャーであり、霊的ハイラーキーと、の叡智が現れる第三の主要なセンターである人類全体との間により緊密な関係をもたらすために取り組んでいる。

これらの基本的な事実については、特にアリス・ベイリーとベンジャミン・クレームの著作でさらに多くを読むことができるが、国連の霊的な役割および目的について私たちが観察していることはやや異なる。私たちが述べたように、キリストは人類のハートセンター(愛の側面)を表わしているが、世界レベルの協調的活動を通じて、その愛を反映し維持するのは人類自身の責任である。したがって国連は、第一に、地球資源を正しく分かち合うための大規模な物流活動を監督することによって達成されるように、愛があるべき場所にそれを誘導する任務を負っていると言えるかもしれない。この意味で、大幅に拡大および強化された国連組織は、その経済的および立法的機能だけでなくその将来の活動のすべての部門において(象徴的に言えば)人類のヘッドセンターを表現するようになるかもしれない。秘教学徒は、来るべき時代にこれらの新しい形の世界統治を構築する上で、儀式的秩序の第7光線の計り知れない役割を熟考することは啓発的であると感じるかもしれない。この点で、今日の国連はまだ最も初期の段階にある。

[32] cf. Heralding Article 25, op cit.

[33] 注釈[10]を参照。 

[34] この一節の心情は、2020年初頭からの世界的なコロナウイルスパンデミックに照らすとより顕著に見える。低中所得国がCOVID-19ワクチンの世界的な義務的共有を嘆願したにもかかわらず、富裕国は国連を通じた公正な供給のシステムを適切に援助することを拒否した。代わりに、グローバル・ノースの政府は製薬会社と共謀して、自国の人口を数回接種するのに十分なワクチンを蓄えることによりグローバル・サウスで利用可能な投与量の大幅な不足をもたらしている。この本の執筆時点で、最貧国はまだ世界の供給の0.2%しか受け取っていない。これは世界保健機関(WHO)によって「壊滅的な道徳的失敗」と表現されている。科学的ノウハウをWHOの技術共有イニシアチブに寄付した製薬会社は一社もないが、富裕国は、大部分が納税者からの助成によって成功したワクチンの知的財産権が放棄されるためのすべての試みを阻止している。主要な先進工業国からの多国間対応は依然として著しく不十分かつ資金不足であり、資源を共同出資し相互連帯の精神で協力するための真剣な国際的努力なくして、貧困国は慈善寄付を待つしかない。要するに、政府らが世界の公共財としてワクチンを提供できなかったことは、まさに分かち合いの経済の存在の欠落と、利益が人間の生命よりも優先されるところの、技術革新を定義する慈悲心の欠落をまさに強調したに過ぎない。

[35] 注釈[30]を参照。

[36] このテーマについてのさらなる所見はアネックスを参照。

[37] これらの言葉は、バラク・オバマ氏がまだホワイトハウスにいたときに書かれたものであることに注意していただきたい。米国の最初のアフリカ系アメリカ人大統領として、2008年の彼の立候補は、以前のどの選挙よりも多くの民間寄附からの資金を集め歴史的な投票率を見た。彼の大統領としての任務への大きな期待はその後1年以内に、オバマの核不拡散と、そして特に前政権の「対テロ戦争」に照らして国際関係の新しい情勢への彼の保証を表彰したノーベル平和賞賞に反映された。しかし、2期の任期を経て、オバマの外交政策はアメリカの世界的覇権を拡大しただけであった。たとえば、第二次世界大戦後における記録的な軍事費;イラク、シリア、アフガニスタン、パキスタン、リビア、ソマリア、イエメンでの壊滅的な爆撃キャンペーン; バルト三国と東ヨーロッパの軍事化;国連決議に違反した核兵器のための1兆ドルの増加である。

[38] Mohammed Sofiane Mesbahi, The Commons of Humanity, Matador books, forthcoming in 2022.

つまるところ、分かち合いの経済も、ギフト経済も、

物々交換経済も存在せず、コモンセンスと

愛の経済があるだけなのだ。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒは、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)の創設者である。STWRは、国連経済社会理事会の協議資格を持つ、英国ロンドンを拠点とした非営利市民社会組織である。英国における登録番号:4854864

編集協力:アダム・W・パーソンズ

To learn more about STWR’s campaign for a global ‘sharing economy’ movement, please visit: sharing.org/Article25

Photo credit: Biggles1067, flickr creative commons

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