人類のコモンズ

Mohammed Sofiane Mesbahi

私たちは、世界中で平均的な人の認識が人類全体の共通善を受け入れるよう拡大される心理社会的変革の必要性を第一に考えない限り、地球の共有資源を管理するための新しい経済パラダイムを真剣に思い描くことはできないでしょう – モハメッド・ソフィアン・メスバヒ

コンテンツ:

編集者の序文
イントロダクション:より広い知覚のレンズ
l. 認識の障壁
ll. 第25条のために立ち上がる
lll. 歓喜の霊的特質を解き放つ
ダイアグラム:新しいコモンズの法則のための教育
lV. 「主義」と知性の危険性
V. コモンズ志向型教育
Vl. 内なるコモンズを探求する
結びのコメント
注釈
 


編集者の序文

モハメッド・ソフィアン・メスバヒによる分かち合いの原理についての考察シリーズの一部を成すこの執筆は、コモンズの意味をユニークな方法で探求したものです。そのアプローチが他の本に比べて特殊であることを考慮すると、その構成についてのいくつかの紹介文が役に立つかもしれません。この書が提供するものは、共有資源を管理する社会的慣習としてのコモンズの学術的解説ではありません。そのようなより学理的な方向でこのテーマを紹介した、拡大し続ける素晴らしい文献の宝庫はどこか他でアクセスが可能です。これから明らかになるように、メスバヒは、コモンズが人類の進歩にとって最終的に何を意味するのかについてのより広い理解を探求します。したがって読者は、最初から開かれたマインドを持って、著者と共同で探求していく精神を取り入れることが奨励されます。

しかしながら、メスバヒ自身も本文で述べているように、彼の意図が、(その限界を認めながらも)現代のコモンズの概念を決して否定するものではないということは強調されるべきでしょう。むしろ彼は、それらの分析と提案のほとんどに欠けている部分を探求しようと試みます。つまりそれは、「各個人に潜在する特定の霊的認識」を拠りどころとする、コモンズへの「内なる知覚」または「包括的知覚」として彼が述べるものです。この目的で、読者自身の主観的理解と直感を刺激するために繰り返される、特定のテーマに特別の考慮が払われるべきでしょう。

メスバヒのこれまでの発表文献のすべての主要なテーマは、国連の後援のもとに国際緊急プログラムを通じて、生命を脅かす貧困に終止符を打つことに関するものです。これは、全人類が維持することのできる、コモンズについての認識をもたらすために備えるべき基盤であると彼は説明しています。しかし探求はさらに進み、コモンズの霊的意味を内部で体験する上で必要な知覚能力について探索していきます。さらに彼は、不朽の知恵の教えの理解を通じてそのような認識をもたらすことを目的とした、新しい形態の教育の必要性についても概説します。

したがって、あなたがこれから読もうとしているものは、政治的または哲学的言説、さらには霊的教えとしてさえも分類することが困難でありながらも、これらすべての要素を融合させているのです。そしてコモンズの最も深遠な意味を「永遠の聖なる現実」として詳説する中でメスバヒは、この危機に見舞われた時代において、私たち全員に長期的な利益をもたらすかもしれない自己の探求の内省的な方法を提示するのです。

2022年1月、イギリス、ロンドン

 


イントロダクション:より広い知覚のレンズ

「コモンズは、遥か太古の昔から
人間の意識の内に
息づいてきました。
それはワンライフに対する初期の認識、
進化の霊的ビジョン、そして何よりも、
万物への慈悲から生まれました…。
したがって、真の問題は、外なるコモンズを
維持できる新たな経済的および社会的取り決めを
どのようにもたらすかということではなく;
むしろ問題は、永存するコモンズへの内なる知覚を
どうもたらすかということですが、
それは常に次の古訓を
よりどころと
してきました:汝自身を知れ」

コモンズについての伝統的アイデアは、共同牧草地という古い概念を遥かに超える新たな意味の発見によって21世紀、大きな復活を遂げています。現代におけるコモンズは、一般的に環境、社会、文化、知識、デジタルの各分野におよび、あらゆる側面と現代生活を網羅する資源の分かち合いの新しい理論と実践として推進されています。市場と国家の両方を超える社会の「第三部門」として、そしてレッセ・フェール自由放任主義経済)の支配的なイデオロギーに挑戦する代替的な政治哲学として、さらにはガバナンスの自己組織化された形態に基づく大規模な制度変更へのアプローチとして、現在コモンズは革新的な思想家の間で大変多くの議論がなされています。これらすべての論考や提案は、世界の問題への対応として極めて重要な関連性を持っており、持続可能な未来を共同構築する方法を求める人々によって最大限検討される価値があります。 

しかし、コモンズの意味と重要性を理解するには、学術文献の研究を通じての従来の分析ではなく、内なる探求を必要とする別の方法があります。不朽の分かち合いの原理と密接に結びついた神聖な起源をコモンズが持つと仮定することから始めましょう。しかし、この本質的な真実を理解するには、従来の思考と行動様式を超えた広い知覚のレンズが求められます。私たちは、信条に対する信条ではなく、むしろ内なる認識と内省を通して、コモンズのより大きな重要性を自分自身で捉えなければなりません。なぜなら私たちが発見するであろうように、コモンズの存在は単に物質的なだけでなく、その本質は霊的でもあるからです。そして、その最も深い本質の普遍的真価は、社会環境と自然環境の両方に畏敬の念を持って包括的な態度で奉仕するよう個人が動機づけられる、公正で分断のない社会に向けて、成熟性、ビジョン、コモンセンスに基づいて人類を結束させる性質にあるのです。 

この広げられた解釈にしたがって、私たちはコモンズの永遠の現実と自己知識の間の本質的な繋がりをも知覚するかもしれません。そしてその最高の意味を全体の利益をもたらす天与の教育または霊的教育として述べることができます。したがって、これらのより包括的な観点からコモンズを理解するかどうかは、私たちの意識のレベルの問題です。なぜならそれは、特定のものから全体へ、そして全体から特定のものへと生じる、愛ある認識と善意の表現に関係するからです。この定義により、コモンズを擁護するという課題は個人的かつ集団的な認識の問題として実際は考慮されるべきなのです。なぜなら人類は、所有物などというものは存在せず、地球のすべての産物は、すべての人によって協力的に分かち合われ保護されるべきだという理解から程遠いように見えるからです。実にコモンズは、私たちが分かち合うすべてのものとしてしばしば述べられますが、今日それは人類が分かち合わないすべてのものとして定義づけられたほうがより的確かもしれません。なぜなら真実は、コモンズの重要性は共有財産を分かち合うことや共有遺産を守ること、あるいは共通善を促進するということより遥かに大きいということだからです。それは、人類が最終的に各国の主権の中で自然界のすべての王国の運命に則して進歩し進化するための道なのです。この地球でコモンズを真に擁護し賛美することは、詰まるところ、一つの目標のために人類が存在することを意味するでしょう。そして、その目標とは霊的進化なのです。

これ以降、私たちの探求の目的は何がコモンズへのこの必要不可欠な霊的認識を妨げているのかを見つけだし、何がそのような認識を地球規模でもたらすことができるのかを私たち自身で感知するよう試みることです。また、コモンズの意味と分かち合いの原理の間に存在する関係を多くの角度から詳しく検討する必要があります。なぜなら、両者ともに大変多様性に富み、相互に関連していることから、それらは容易に取り違えられるか同一のものであるかのように見えるからです。問題の多くは私たちの教育にあります。私たちは幼少の頃から、特定のものから全体へ、また全体から特定のものへという視点から人生を見ることを教えられていません。たとえば、ヨーロッパの子供がアジアやアフリカの国々について学ぶとき、それらの大陸の人々と世界全体との間に存在する心理的関係について学ぶ代わりに彼らは決まって人文社会科学を自国と自国民の血統や文化に関連した特定の視点からしか学習していません。私たちの学校教育とそれに続く成人生活の過程を通じて、私たちの社会環境は、私たち自身の現実と世界中の人々、特に私たちより恵まれない人々の生活との間の心理的な関係を認識するよう助長していません。これは、相互依存し、霊的に不可分で、本質的に平等な人類の観点から、世界情勢に反応することがほとんどない公共の討論や政治的言説にあからさまに反映されています。

私たちの社会的条件づけと不適切な教育様式の結果として、遠方の国々で絶望的な貧困の中生活する人々のことを耳にするとき、私たちには慈悲心をもって反応するという傾向がありません。それでもなお、人類もまた、土地、海、森、大気と同じようにコモンズなのです。したがって、人を餓死させるということもまた、私たちのコモンズの一部が粗末に扱われ、悲惨にも見捨てられるのを許しているということなのです。最も広大な霊的レンズを通して見るなら、人類は神のコモンズであるとさえ言えます。この場合、人類に対する犯罪は永遠に存在するコモンズに対する犯罪と同じです。明らかに、豊かな世界の中の貧困の存在自体が、私たちの共通財産への義務に対する悲惨な過失を表しています。このような理解は論理的ですが、それは表面的または完全に知的な理解からだけでなく、心理的および内省的に自己の内からもこの問題を綿密に考察することが必要とされます。私たちの意識が私たち自身の家族、コミュニティ、文化、信仰、国家との心理的関係だけに限られるなら、私たちはどのように善意と共感的関心をもってひとつの人類の共通善を支持できるのでしょうか。

私たちの無限の霊的進化の観点から考えると、コモンズが肌の色、立場、生まれた国に関係なく、あなたと私が共にあり、お互いと周りの環境を自然に含んだ存在のすべてを畏敬と愛をもって大切にするということであるならば、それは意味のあるアイデアなのです。したがってコモンズは、分かち合いと協力についての知的な概念化よりさらに大きな何かに関係しているのです。なぜならそれは、活力に満ちた超越的な愛の表現でもあるからです。そしてその愛は、驚異的な宇宙の中で「あるがままのすべて」と一体になるために人間の意識が拡大するまで、すべての人、すべての領域、そして自然界の生きとし生けるすべてのものを包み込むために国境を越えて拡張されなければならないのです。ここで私たちは、人類が霊的に開花し、そしてその中でコモンズがその栄光のすべてを顕現できるようになるまでどれだけかかるかを直感的に予見できるでしょうか。 

したがって、基本的な心理学の観点からコモンズは、無害性、愛ある配慮、全体の認識として定義できます。そして、最も高い霊的観点からコモンズの認識は、進化する生きとし生けるすべてのものまたは自然の存在全体との一体感を意味します。それは一本の木を見ることはその木になるということを意味し、そしてそのことは単なる便宜やまったく物質的な利益のためにそれを破壊することを冒涜行為と成らしめます。またそのような認識と一体感をもって木の葉を観察することは、その一枚の葉が創造の中のすべての生命の神聖さをどのように表しているかを知覚することをも意味します。それは明らかに、環境問題に対処できる範囲としてしばしば多くの人が信じる、食品廃棄物や製品のパッケージの単なるリサイクルによってコモンズを保護できるという意味ではありません。気候変動や地球の環境問題を取り巻く多くの運動に弱々しく反映されているように – ひとつの人類の共通善とその霊的進化、あるいは世界全体に属するコモンズの観点から考えているのは比較的少数の人だけです。依然として、圧倒的に大多数の人々はコモンズ関連の問題について考えたとしても、その認識は自分たちの世帯レベルに限られています。この点においてさえ、人間の認識が自己の小さな関心事をより大きな全体に関連づけるよう劇的に拡大しない限り、コモンズが世界規模で支持されることは決してあり得ないということを私たちは再び認識せざるを得ません。なぜならコモンズを擁護するという課題は、基本的に私たちの個人意識および集合意識のレベルに関係する問題だからです。

したがってコモンズは、私たちの霊的アイデンティティと地球規模の相互依存の広げられた感覚をすべての人に与える正しい教育から生まれたときにのみ、繁栄できると結論づけられるかもしれません。このため、もはや記憶力や知性を使うことに限定されることのない、あるいは権力や階級や特権のレンズを通して社会の進歩を詳細に分析する国家中心的な文化観や歴史観に制約されることのないまったく新しいタイプの教育が必要とされます。私たちはまた、今日一般的に存在するものより遥かに総合的な学習形式、つまり、子どもに内なる自己の認識について教え込み、競争や追従、さらには富や成功の個人主義的追求によって特徴づけられた現代社会の一般的な価値観を遠ざける学習形式を必要とします。このように私たちの未来の文明の基盤としてのコモンズのビジョンには人類の霊的進化について認識のある教育が含まれなければなりません。それには、現在主流の科学が発見しているものより遥かに進んだ知識が必要とされます。私たちがさらに詳しく探求して行くと同時に、これらの線に沿った新しい教育の差し迫った必要性が公正で持続可能な社会を実現する上で極めて重要であることが明らかになります。なぜならそれが、無害性、簡素さ、正しい関係の中で、そして「あるがままのものすべて」との一体感に基づいた前述の自然への畏敬の念の中で皆が共生することの恩恵を人類が理解できる唯一の方法だからです。

私たちの探求が終わるまでに、コモンズが単に専門的または学術的テーマとしてだけでなく、何よりもまず個人を知恵に近づけることのできる神聖な概念として取り組まれるべきであるということを読者が確信することを願います。惑星的および霊的観点からコモンズについて考え始めることは瞬時に知恵の現れです。なぜなら、特定の人種、文化、国家について条件づけられた偏見を放棄し始めないことには、全体のためになることを考えることはできないからです。コモンズの最高の意味を真に理解するには霊的王国はもとより、鉱物、植物、動物、人間をも含んだ自然のすべての王国と人類の間の関係をよく理解することも必要です。 この総合的および包括的見地からのみ、コモンズを天与の教育として述べることができるのです。なぜならその意味を理解するということは、私たちが自然および進化と一体であることを認識するようになるということであり、そしてそのこと自体が、自己知識と知恵の真の定義であるからです。

 


l. 認識の障壁

コモンズを再生し、擁護するという展望に対してどれほど情熱的であろうとも、私たちは間もなくそのような認識を他の人々に拡げる道に立ち塞がる障害で埋め尽くされた迷路に直面します。私たちの問題は、財産権と自己利益に基づく社会の深く定着した分裂的な考え方に根差していますが、これはコモンズの霊的または神聖な概念を実現するための最大の障害であると理解できます – 実際、総合的に理解されるように、まさに「利益」という言葉自体がコモンズにとってまったく受け入れがたいものです。利益に基づく経済システムがどれほど巧妙にその目的を達成してきたか、そしてそれがどのように生まれ何世紀にもわたって伝播してきたかを観察してください。それ程昔ではありませんが、裕福な貴族たちは課税と法的決定を名目に、まだ自然に存在していたコモンズを分割し、それ以降、以前の居住者から事実上盗んだ土地を私有地として宣言しました。世界の他の場所では、多くの先住民族が自然および万物の精と調和して暮らしていましたが、いわゆる開拓者たちがやってきて、かつては境界のなかった土地を支配し、後に分割するためにこれらの先住民から土地を剥奪しました。人類の歴史を通じて、およそすべての文化と世界の地域において、個人またはグループの利己主義、強奪や合法化された窃盗、そして何よりも物質的および商業的利益の追求によってコモンズは打ちひしがれてきました。

今日でも、同じ分裂が合法的窃盗や不法占領によって社会ベースで常に存続しており、貪欲な個人、集団、国家が特定の土地や資源が自分たちのものであると宣言し、障害となる居住者を追いだそうとします。たとえ聖書がある土地が特定の人種に属すると述べているとしても、彼らは衝突や血なまぐさい暴力なしでどのようにそれを自分たちのものだと主張するつもりなのでしょうか。何世紀にもわたる社会的条件づけと不適切な教育によってどれほど深く真実が抑えられてきたとしても私たちは皆、心の中でその真実を知っています。それは、全人類が協力的に分かち合い保護するために自然の摂理により奔放に与えられている石油やその他の天然資源を含んだすべてのものは、何も誰の所有物ではないということです。したがって、横暴な一団が現れて「これは我々の私有財産であり我々が所有すべき法律上の権利だ」と宣言できるのでしょうか。自分たちが所有する莫大な富は神によって独占的に自分たちに委ねられたものであって、かつて母なる自然や先住民から暴力や法令によって強奪したのではないと証明できる一族や組織があるのでしょうか。

さらに、自分たちの物質的豊かさのレベルは神の法令によって起こるべきして起こったか賜ったのであって、遠方の土地の資源を強奪したり搾取することによって獲得したのではないと証明できる先進国があるのでしょうか。少なくともここで私たちが探求しようとしている霊的および総合的観点から観察するなら、植民地獲得という考え自体が領土主権の概念と同様にコモンズの存在に対する犯罪です。可能な限り包括的な意味で捉えるなら、たとえば国際水域の意味を国連が概念化しなければならないということでさえ、全人類のことを考慮せず、一国が一定の国境内の水を搾取できるということを黙示しているため馬鹿げています。実際にはいずれも誰のものでもないということは、利益と利己的な物質的関心を追求し、自然(そして当然のことお互い)を所有、支配、搾取しようとすることによって人類が誤った方向に進んでしまったことを認識しない限り、コモンズの最も深い意味を理解することは不可能です。この長く悲しい人類の自虐的な分裂と破壊の物語はすべての歴史の書物が証言しており、グローバル・コモンズの現代の対極とも考えられるべき攻撃的な外交政策を装って致命的に断続します。こうした帝国構築と資源強奪のパワーゲームが世界情勢の軌道を決定し続ける限り、地球の霊的進化に即して顕現するコモンズの展望が皆無であることは明らかです。

ここ数十年にわたり、商業化は最後の一息まで全力でこの地球上におけるコモンズの繁栄に抵抗するであろう有害なエレメントとして闇の勢力となってきました。あらゆるところに浸透している商業化勢力は、特権階級のエリートの利益のために多くの法律や規則が複雑に施される、窃盗と不正義の上に築かれた時代遅れの経済システムに非常によく適合しています。しかし私たち全員が、多くの点で商業化の息子であり娘であるのです。なぜなら、私たち全員が、コモンズの繁栄を阻止するための何百万という防御策を備えた分割的な社会の規則に従わなければならないからです。今日、無数の時代遅れの法律と増え続ける財産権によって権限を与えられた商業化は、あらゆる場所を這い回り、コモンズが存在するところではどこでも、まるで滅ぼす操縦者のいない戦車のようです。この観察可能な事実を具体的に説明するにあたって、高家賃の高層マンションを建築するために、何百年もの間コミュニティによって自由に使用、維持されてきた美しい土地を破壊するような権利を持った不動産開発業者を想像するだけで十分でしょう。

では利益拡大の思考パターンに心酔する社会の状況下で、そして横行する商業化がもたらす危険に気づいている人が少ない中で、どのようにしてコモンズを取り戻すことができるのでしょうか。利益と商業の価値観にどっぷり浸かった社会で、グローバル化された市場を通じて、製品やサービスを際限なく消費するよう急き立てられている間は間違いなく、私たちがコモンズを取り戻せることは決してないのです。コモンズは、より広範な人々の教育や認識の欠如によって抑圧されているだけでなく、枯渇しきった地球の天然資源の最後に残った部分からなんとしてでも利益を抽出しようとする、多国籍企業の活動によってもそのすべてが徐々に滅ぼされつつあります。結果として、環境を保護するための戦いは、私たちの自己破壊のための聖戦を激化させる体系的プロセスに、人類の大部分が進んで参加している限り、矛盾だらけのまま残るのです。

この危険な道を数十年間たどってきた末に私たちは2つの要因、つまり、私たちの集団としての自己満足的な無頓着さと商業化勢力のコンビネーションによって自らを袋小路に追い込んできました。これらは、自然と生きとし生けるすべてのものに愛ある配慮を持って霊的に進化することから人類を妨げる主な要因のすべてです。伝統的コモンズは、支配的な国々の国益と特権的エリートの貪欲さによって元来消滅したかもしれませんが、商業化勢力の犯罪が意図しない共犯者である一般大衆によって促進されてきた今、コモンズを基盤とした社会組織の様式を新たに確立する展望はかつてないほど窮地に立たされています。私たち全員が、種々の自然王国で行われている破壊に携わっていることを忘れないでください。そして、あらゆるところで豊かな社会によってあからさまに誇示される莫大な富と贅沢にもかかわらず、私たちの全般的な無関心が毎年何百万人もの人々が極貧の中で不必要に亡くなっているという状況を引き起こしてきたのです。

世界の問題の内なるまたは心理的原因を観察するとき、「成功者」となり社会的認識を達成しようという内在する動機にこそ利益、権力、富の外なる追求と同じほどコモンズを荒廃させている非があるのです。この重要な分岐点において、人類が苦しむより広範な霊的危機への認識を多くの場合持つことなく、不適切な教育様式と商業化のあらゆる形態からの影響の受け易さを通して、私たちは個人としての自己と、自分たちの物質主義的な欲望だけを考えるよう簡単に条件づけられます。したがって、あらゆる国の人々の間または国家間で正しい関係を確立することへの無頓着さや完全な無関心がもたらされ、ましてや新しい生活様式や社会組織化の方法としてコモンズを復活させるなどという展望はないのです。私たちがこの崇高な理想によってどれだけ意欲とインスピレーションを掻き立てられようと、無反応な社会に対してその正当性を主張することはできません。たとえそれが彼らの世界だけでなく、彼らの孫の将来の生活について話しているとしてもです。

多くの批評家は、現代社会がかつてこれほど経済的に向上したことはなかったと異議を唱えるかもしれませんが、商業化がすでに世界中で引き起こしてきた被害を目の当たりにするならこれは無知で危険な発言です。実際には、何百万もの人々の富と物質的な快適さを増大させたのは、政府の善意でなくむしろ政府によって解き放たれた市場原理なのですが、それはまた私たちの生活の全領域に利益と競争の優勢性をもたらしました。そして、明らかに破壊的かつ持続不可能であるにもかかわらず、各国の経済成長のために依然として促進され続ける、無駄な世界的消費パターンを観察する誰もが確認できるように、商業金銭志向の価値観が1970年代以降急激な環境劣化の原因となってきました。私たちは人類史上かつてないほど多くの物資にアクセスできるようになったかもしれませんが、最終的に地球の天然資源の限界を超えてしまったら、これらの無数の生産品がどのような長期的利益をもたらしてくれるというのでしょうか。過度に商業化された人口過密な社会では、今日の暮らし向きは良いかもしれませんが、明日のそれは確実に悪化しているでしょう。なぜなら、お金儲けに没頭し、贅沢なライフスタイルを追求する人が世界に増えれば増えるほど、社会と環境の迫り来る宿命への無関心さがさらに増すだろうからです。そして、現在の社会経済システムを持続することに私たち全員が一役買っているがために、これらの動向が激化している限り、そのすべての力と美におけるグローバル・コモンズのビジョンを維持することは不可能であり続けるでしょう。最終的に、地球救済のための協力的努力の中で国々が結束することは、信じ難いファンタジーと化し、人類の進化は避けることのできない悲劇的結末を迎えることになるでしょう。

したがって、人類の将来の生存を確実にするためにはコモンズが再び繁栄する必要があることを、私たち自身が理解しているとしても、私たちの遠大なビジョンを一般の人々にどのように伝えることができるのかという問題が残ります。時代遅れの法律、破壊的な商業化勢力、そして私たちの発言などに興味のない何百万人もの人々の無関心さが複雑に入り組んだ状況において、私たちはどのように闘い始めることができるのでしょうか。私たちの最大の障害と課題を代表するのが一般市民であるとき、多国籍企業と闘い、その従者である政治家に影響を与えようとすることは、私たちの取り組みをさらに複雑化させるだけです。コモンズの提唱者全員が政府を取り囲み、特定の市場本位の法律や企業寄りの政策を改革するよう圧力をかけることは理論上可能かもしれませんが、より広範な国民の無頓着さと無関心を一体誰が取り囲むつもりでしょうか。環境保護団体は、悪化する気候と生態系の危機に対する世界的な認識を高めるという点ですでに賞賛に値する役目を果たしてきましたが、コモンズの概念は、私たちお互いの関係や私たちの自然界との関係についてまったく新しい考え方を必要とするより高次の性質を備えており、この関係は見たところ既存の低質な政府が理解することのできないもののようです。

したがって私たちは、世界中で平均的な人の認識が人類全体の共通善を受け入れるよう拡大される、心理社会的変革の必要性をまず第一に考えない限り、地球の共有資源を管理するための新しいパラダイムを真剣に思い描くことはできません。それなくして、コモンズを促進するための取り組みは、利益主導の考え方と従属的な大衆の黙認を持って、政治家によって強化される商業化の法律と政策の突破できない壁にぶつかり続けるでしょう。私たちは多くの論説を書き続け、称賛されるべき提案をさらに知的化するかもしれませんが、コモンズが最終的に風変わりな学者にしか研究されない時代遅れの言語のようになってしまうまで、改宗された支持者たちの小さな集まりに話しをしているだけとなるでしょう。


ll. 第25条のために立ち上がる

したがって、私たちの最も重要な問題は、コモンズに対する認識を世界の人口全体が維持できるようにするにはこの心理社会的変革をどのようにもたらすかということです。これまで私たちが議論してきたように、現時点で政治的指導者やビジネスリーダーたちがコモンズを理解することは決してないどころか、まして促進することなどあり得ないでしょう。その上、たとえ彼らがそのようなビジョンを受け入れるよう鼓舞されたとしても、20世紀に共産主義を確立しようとした不幸な試みのように、疑うことを知らない市民に対して強制されるなら、それが機能することは決してないでしょう。最も広範な定義におけるコモンズは、共有の天然資源や世界遺産を遥かに超えるものであることを再び心に留めておきましょう。なぜなら、人類もまた、惑星的および霊的な意味でコモンズのなくてはならない部分であるからです。それは、豊かな世界の中で飢えて死んでいく人々が、私たちのコモンズが悲惨にも冒涜されているという最も酷い証の一つであるということです。したがって、私たちの意識的認識の完全な変革は人間のハートの内から始まらなければならず、それは世界のどこであろうと命を脅かす剥奪の緊急事態への集合的目覚めから生じなければなりません。イデオロギーの革命を通じて人類のコモンズを永続的に維持することはできません。それが政府とその歪んだ優先順位に反対する社会の特定の階層の暴動を暗示する場合には特にそうです。人類の意識を拡大することのできる唯一の種類の革命は、貧困による飢餓の即時終結を求めて大規模な自発的抗議活動を通して動員する、何千万人もの多くの人々によって表される愛と慈悲が認識と融合した革命です。 

コモンズとしての人類のこの浮上する表現を、街頭での自由と正義のためのデモンストレーションを通してすでに私たちは目にしています。そのような抗議デモ活動を、全体への善意が動機となっているものとして理解するならですが。同時に、近年、世界人口の比較的小さな割合の人々の認識を通じて表現されているように、環境保護を目指す大規模なデモもまた、明らかに地球のコモンズを保護するという考えに関連しています。しかし、人類の大部分がコモンズの知的概念自体を中心に結束することはないでしょう。それは、無数の人々が適切な教育を欠き、生活水準も不十分なまま、生きていくのに必死であることから明らかなはずです。大衆抗議デモ活動に依然として欠けているものは、絶対的貧困の不正義を永遠に終わらせるという考えを中心に結束することです。それは、さながら神が私たちの停止したハートに語りかけ、私たち皆を私たち共通の運命に目覚めさせたかのようでしょう。これらの目標に向けた世界的なハートの結束以外に、人類のコモンズの真の復活の前兆となるものはありません。なぜなら、そのような並はずれた驚異の真っただ中においては、政府は国連とその関連機関が調整する大規模な世界的救援活動に速やかに取り組まなければならないだろうからです。それは、コモンズの意味の解釈がどのようなものであろうと、それを救うための前提条件として理解できます。

これらすべては、世界人権宣言第25条の中で長く謳われてきたように、すべての人の基本的ニーズを満たすのに十分な食料、十分な資金、十分な物資が入手可能であるのだという事実に駆り立てられた、一般大衆の迸る善意と認識にかかっています。[2]しかしその認識は、文明的非常事態に基づき第25条をすべての国で緊急に実現しない限り人類は将来存続することができないのだという理解から生じるべきであり、さらなる外国援助の要求に限定されるべきではありません。人類全体が存在する最も貴重なコモンズであるということをどれだけ直感的または無意識的に感じて行動しようと、その認識を通じてグローバル・パブリックは結束しなければならないと言えるかもしれません。コモンズに関する限り、第25条の最終的な履行はやがて既成の事実となるでしょう。なぜなら、すべての人が尊厳を持って自由に生きるための十分な手段を与えられるまで、コモンズが世界人口全体によって認識され維持されることは決してないだろうからです。

いつの日か私たちは、飢餓を緩和するための緊急プログラムを、この地球上で形成されつつあるグローバル・コモンズの最初の反映として、そして私たちの真の霊的コモンズの意識がついにすべての人に認識されつつある最初の兆候として、考えるようになるかもしれません。したがって、1980年にウィリー・ブラントが委員長を務めた独立委員会が単に南北間の援助だけに関するものであったと考えるのは重大な誤りです。国際経済の大規模な再構築を通じて、公平な世界秩序を実現するという彼の提案に具体化されているように、ブラントは実際には人類のコモンズの偉大な霊的ビジョンを開拓したのです。[3]しかし今日に至るまで、ブラント報告の霊的エッセンスは最も洗練された経済学者にさえ誤解されたままです。悲しいことに、ブラントのビジョンに欠けていた唯一のものは、何百万人という一般の人々のハートの認識でした。なぜなら、一個人のビジョンではなく、キリスト原理の目覚ましい解放だけが、世界資源を分かち合うための緊急プログラムをもたらすことができるからです。[4] 一人のウイリー・ブラントでは十分ではありませんでした:この私たちの人生の決戦に従事する何百万人、何千万人というウイリー・ブラントが必要とされるのです。 

*

分かち合いの原理とコモンズの存在の間には不可分の関係があることを私たちは先に確認しましたが、上記に要約されるようにそれは大規模な市民参加のビジョンに従って人類の大部分が蜂起しない限り、普遍的に理解されることのない関係です。私たちはコモンズについて書き、コモンズのために戦い、そしてコモンズのために死ぬことさえできますが、今後多くの角度から議論していくように、世界規模の心理的変革を通じて最初に第25条が迎え入れられない限り、コモンズが主流社会に受け入れられることは決してないでしょう。まず始めに私たちは、コモンズを広範な規模で持続可能なやり方で管理しようとするどのような試みも、私有財産や商業活動を守る法律、つまり既存の政府が常に守り公布している法律と衝突することがどのように不可避であるかということをすでに強調しました。しかし飢餓と大規模な貧困を緩和するための緊急プログラムを通じて、分かち合いの原理が国際レベルで実現されると同時に、栄養価の高い食料、きれいな水、総合的な医療、適切な住居、社会保障、そしてその他すべての必需品への確立された人権を満たすためにこれらの法律の多くが覆されなければならなくなるでしょう。 

第25条を布告する」のために提起された私たちの議論の中で探求したように、すべての人の生活必需品を確保することは、特に多くの自由貿易協定や知的財産権に関連して、多国籍企業の遠大な影響力を抑制するために無数の法律を改正することにかかっています。[5]  これらの巨大な企業体が政府はもとより国連の権限までもを支配する限り、数十億ドル相当の事業契約をひっきりなしに危険にさらすであろう「商業化の法律」の廃止について話すのは余りに世間知らずであるうえ実行不可能です。したがって、資源を分かち合い、永久に貧困を撲滅するためにハートが従事する大衆の蜂起はグローバル・コモンズの最大の予兆となります。なぜなら主にそれは、資源を掴み取る搾取的な活動によって第25条の普遍的実現を妨げる企業に深い影響を与えるだろうからです。それは自己利益の法律や合法化された窃盗の法律を根こそぎにする巨大地震のようであり、すべての個人の基本的な社会経済権利を保障するために(国内であっても国家間であっても)公共資源を再分配する政府の行動を侵害する法律を無力にするでしょう。 

世界中で何千万人もの人々が集結し、シンプルで善意に溢れた一つの目標のために大規模なデモンストレーションが絶え間なく行われるという出来事を想像してみてください。それが一度に数週間、数ヶ月間、さらに数年間続くなら、政府に働きかける大企業のロビー活動能力を含んだ強力な商業勢力を守る分割的な法律の永続的変革をもたらすことは確実です。商業化の遂行人と政治的会計士は従事する市民の協調したパワーに断然かなわないうえ、政府は人々の声を支持する以外に選択を余儀なくされるでしょう。同時に、自由と正義を擁護する革新的なムーブメントなどは自然環境を守るために闘う多くのキャンペーナーや活動家とともにその多様な大義において相当な後押しを受けることになるでしょう。現時点においてこれらすべての運動は、環境を破壊する多国籍企業の活動に対する最前線の抗議活動で明確に見られるように事実上商業化の法律と闘っています。環境コモンズは比喩的な意味で、制御されない市場勢力の圧力によって多大な痛みの中でじわじわと窒息させられており、毎回の抗議デモ活動が2、3千人に限られている間はその絶滅のときまで苦しみ続けるでしょう。[6]

しかし、政府を取り囲み街頭に戻り続ける無数の市民を私たちが心に描くことができるなら、たとえそのような断続するデモンストレーションが大量餓死という道徳的暴挙を終わらせることに大部分が立脚していたとしても、そこから起こるであろう経済的な変革には限りがありません。なぜなら、政府が貧困関連の原因によるさらなる不必要な死を防ぐために国際緊急援助プログラムに取り組むそのプロセスにおいて、より良い世界の創造への道に立ちはだかる勢力についての真実が間もなく一般の人々に明らかになるであろうからです。多くの人が問うでしょう、「これほど素晴らしい変革のすべてがもたらされているというのに、世界の富裕国はなぜもっと以前から資源を分かち合っていなかったのか?」そしてその答えは、政府が優先項目を再調整し、やがて経済のあらゆる部門で利益を追求する勢力の威圧的影響を制限せざる得なくなったとき、これまで以上に明らかになるでしょう。 

すべての国で、第25条を履行できるように商業化の法律が徐々に改正されるとき、主要な事業主体による自然環境の汚染や破壊を防ぐ新しい法律の制定は遥かに簡単になるでしょう。やがて私たちは、完全に新しい種類の国家統治の出現をも目撃し始めるかもしれません。それは、主流派政治の暗黙のルールに則して企業や党派の関心事を守る代わりに、すべての国民の共通善に仕えるために政治に参加する一般の人々によって必然的に特徴づけられるでしょう。商業化を促進する法律が、人間のあらゆる活動域において分かち合いの原理を弱体化させていることを考慮すると、世界の政府間で経済的分かち合いのプロセスを融合させることによってもたらされるであろう無限の可能性に、私たちは驚嘆せざるを得ません。先の追求で観察したように、以前の法律が貪欲、分裂、破壊を促進するよう機能することとは対照的に、分かち合いの原理に関連する姿勢と行動はあらゆる面で結束、無害性、バランスを伝播するよう機能します。[7]

したがって、分かち合いの原理が商業化勢力と並行して表現されることが不可能な場合、コモンズの新しい法が生まれる前に社会の不公平な法律が改正されなければならないのは確実です。より公平な世界経済システムが実現する前に世界銀行および国際通貨基金が変革または廃止されなければならないように、これらの法律の多くが改正されるだけでなく完全に廃止されなければなりません。この論理に従って結論を究極まで追求するなら、社会全体の意識の心理社会的変革がアメリカ合衆国を維持する大企業の根本的な改革を最終的にどのようにもたらすかを理解することさえできるでしょう。それはまた、アメリカ帝国の迫り来る解体の最初の兆候でもあります。すべての人の包括的な利益のために機能する新しい多国間システムを通じてグローバル・コモンズが管理されることを予見する前に、アメリカ帝国は「人類に仕える愛の帝国」へと変換されなければなりません。現在のアメリカの外交政策と反動主義的政権の真っ只中で、このような考えがどのように突飛なものに見えようと、あの偉大な国は成熟しつつあり、グローバル・コモンズのための新しい法律を正しい人間関係に基づき開拓することによって他国に道を示す意外な可能性を秘めているのです。

第25条はこれらの新しい法律の先駆者であり、人類の相互依存性と一体性への認識をもたらすグローバル・コモンズ自体の最初の法律の一つとして考えられるかもしれません。象徴的な言葉で言えば、第25条の実現は自己利益や分裂を維持する「私」や「私のもの」に限定された認識に基づく古い法律の終焉の始まりを告げるものです。しかし前述の通り、コモンズの新しい法律は、特定のものを全体に、そして全体を特定のものに関連づける愛ある認識によって特徴づけられるように、「私たちのもの」または私たち全員のものに基づいていなければなりません。現在の経済システムを維持する古い法律はすべてコモンズの存在を事実上否定しています。そして古い法律と新しい法律は共存できないのです。第25条の完全な実現の後、たとえ何年かかろうともコモンズの存在が私たちの意識の内で開花し始めるまで、必然的に両者の間に摩擦が生じることは避けられないでしょう。

しかし、私たちは法廷で警察や裁判官によって施行される種類の法律についてのみ話しているのではないため、コモンズの新しい法を定義しようと試みるのはやや困難です。私たちが霊的進化の法則と同調した社会の動きを心に描くよう努めていることを常に思いだしてください。しかしそれには意識的認識の拡大のためのガイドライン、または「ハートの法則」と呼んだ方が適切な「法」全体についての新しい理解が必要です。処罰と償いに基づいた古い法律が今後何世代にもわたり必要とされ続けることは疑いありませんが、分かち合いの原理が人類の営みの中で極めて重要な要素になるにつれ、それらの何百万もの法律は自然に消滅するでしょう。社会における分かち合いの表現には、それが個人の間で自由に行われるものであろうと、公共セクターや民間セクターの媒介を経て体系化されるプロセスであろうと、多くの段階があります。そして一定期間経過後、それらのさまざまな分かち合いの表現方法の推進は、コモンズの新しい法が実際に出現するまで妨げられるでしょう。

分かち合いの原理は完全に統一された聡明な原理であるため、社会におけるその表現もコモンズの法則を自ら実行しなければならない公衆の統一された聡明な対応に依存します。明らかに、政府だけが社会を代表してそれを実行することはできないのです。特に、「私の権利」「これは私のもの」という考え方を反映した、古い法律によって強く条件づけられた今日の政権の座にある政府では無理なのです。したがって、分かち合いの原理の推進に大衆が参加することによって生じるであろう、必要とされる集合意識の拡大を想像してください。その結果、上から課せられた懲罰的措置としてではなく、霊的進化に対する人類の認識に基づいた本質的な法則として、普遍的に適用され徐々に進化するコモンズの法則に、あらゆる国々が倣い始めるかもしれません。ひいては、そのような平和で調和のとれた文明の中で生活するすべての市民にとって明らかになるように、人類が金銭的および物質的な利益を追求して自然環境を破壊することはもはやなくなるでしょう。

明白であるべきことは、地球の資源がより公平に分配され第25条の恒久的な履行が事前にもたらされるまでは、コモンズの新たな法則を暗黙の同意を通じて生みだすことはできないということです。これは人間の自由意志が神聖不可侵と見なされ、多様性と平等があらゆる社会の特徴となり、国家間の対立がおよそ終焉を迎えつつある誰一人として飢えたまま置き去りにされることのない、新しい世界秩序を心に描くよう努めなければならないことを意味します。実に、それは人権や国家安全保障の概念さえもが私たちの集団意識の中で正しい人間関係への拡大する認識に置き換えられつつある世界です。私たちはまた、チャリティや外国援助による一時しのぎの措置を必然的にもたらす競争の激しい市場や商業的自己利益にもはや基づかない世界経済システムを構想しなければなりません。時間の経過とともに、これらの現在の不適切な取り決めは、最終的に国連の庇護のもと不可欠な資源を分かち合う政府間のプロセスによって自然に置き換えられるでしょう。これはこの地球上でのグローバル・コモンズの最初の真の顕現として考えられるかもしれず、国々が将来の地球の存続を保障するために分かち合いと協力の必要性に最終的に目覚めるときなのです。

言い換えれば、私たちは分かち合いの原理を実践することによってのみ、すべての政府がより簡略化され均衡の取れた持続可能な経済システムを通じて余剰資源を共同備蓄し再分配することに同意する、相互依存体としての人類の完全なビジョンを実現できるのです。私たちはこれらの新しい経済的取り決めを、超国家レベルで共有資源の管理の最終責任を保持する国連システム内の新しい機関に主権の一部を移管する、グローバルな国民国家連合の何らかの形態によって表されたコモンズの最高法として考えるかもしれません。しかし私たちはここで権威的な世界政府の創設を想定しているわけではないので心配は無用です。なぜなら、新たな地政学的情勢のパラダイムが各国の独自の文化、伝統、自決権を本来尊重することが不可欠であるからです。さらに私たちは、天然資源の共同管理者として地球を分かち合うことに関して、競い合う右翼と左翼の政党やイデオロギーの二極化のないグローバル政治の様式も心に描く必要があります。共産主義と社会主義の教義は長期にわたる人間の欲と分裂の長い危機から生まれたかもしれませんが、その原点がどれだけ道義にかなったものであろうと、すべての国が地球の環境の限界内ですべての人の共通のニーズを満たすために協力しているとしたらそのような政治的主義に何の必要性があるというのでしょうか。

したがって、特に世界の問題の内なる霊的側面を考慮するなら、どの角度から見ても分かち合いの原理が事実上コモンズの救い主であることが明らかになるかもしれません。私たちの推論を要約すると、信託統治と協力に基づいた経済交流の新しいシステムを維持するために必要なグローバル意識を徐々にもたらすものは、国内および国家間の資源の分かち合いの最初のプロセスです。地球資源の分かち合いを通じて国々がすべての人の利益のために協力すればするほど、コモンズの意識が世界の一般市民の間でますます自然に拡大すると言えるでしょう。そしてその意識の拡大こそが、最終的にコモンズの新たな法を維持することになるのです。それは権威的統制へのむやみな追従によるものではなく、人類の意識における愛と知恵の自然な表現を通じて起こるでしょう。

これ以降、コモンズの法則は実に「ハートの法則」として象徴的に理解することができます。なぜなら、将来の再分配的な経済を支える新たな規則や制度を維持できるのは、愛、知恵、そしてひとつの人類に対する私たちの認識だけだからです。この点から、「国家間の結束」の真の可能性は人間一人ひとりのハートに宿っているため、グローバル・コモンズが国連を通じて協力的に働く国民国家の連合によって最終的に維持されると信じるのは霊的に正確ではありません。ここで私たちを助けることができるのは、具体的な思考ではなく直感的なマインドだけです。なぜなら、イデオロギーや主義によってあまりに条件づけられ誤り導かれている私たち全員にとって、善意、信頼、結束、慈悲、そしてハートのその他の特質が維持する社会での新しい生き方を理解することは極度に難しいからです。新たな経済秩序の基盤は、私たちが現在「理性(reason)」や「知性(intelligence)」として理解するものによってさえ維持されるのではないでしょう。繰り返しますが、それはハートの愛ある認識によって維持されなければなりません。なぜなら、目覚めたハートは独自の完全無欠な道理(reasoning)と叡智(intelligence)を持つからです。そしてその無限の叡智は、この霊的に暗愚の時代を特徴づける物質性と分裂が原因で、ほとんどの人がまだその広大さを感知していない、すべての法則の中の法則である慈悲の法則の奥深くに埋め込まれているのです。

この一連の追求は、来るべき時代を特徴づけるかもしれないさまざまな種類の法律やグローバルガバナンスの様式について、現段階において懸念し過ぎる必要はないとはいえ、再生されたコモンズの概念を推進することに人生を捧げる思想家にとって熱心な関心事であるべきです。これまで追求してきた論理的推論に同意するなら即時の優先事項がどこにあるべきか、ついで今後の時間と労力をどのように費やすべきかが明らかになるでしょう。なぜなら私たちが議論してきたように、第25条に謳われる普遍的権利を求めて何千万人もの人々が終わりのない平和的デモンストレーションで蜂起するなら、社会のすべての法律は必然的に新しい形態の経済交換とコモンズのための協力を支持するよう進化するだろうからです。

私たちが考慮すべきもう一つの重要な問題は、見たところ現代の知的な支持者が滅多に問うことのない、コモンズの内なる側面をさらに指し示しています。それは、地球の住人の半数以上が十分な収入や不可欠な資源へのアクセスを持たず、生活するのに必死である中で、環境コモンズを維持するという非常に重要な課題について大衆をどのように教育すべきかという問題に関係しています。尊厳や希望はもとより、自尊心までも人々から剥奪するかたわら、自然環境を尊重せよと彼らに期待するのは明らかに不可能ではないでしょうか。子供を養うのに必死な無学の男が、地球を救うことに関心を持つはずがありません。特に、彼の乏しい生活の糧が地元の環境コモンズを奪うことに依存しているとしたら。大半の比較的裕福な市民でさえが、天然資源の枯渇や生態系のオーバーシュートなど、現代のコモンズに関連する重大な問題に無関心であり続け、社会の物質主義的条件づけにマインドが拘置され続けている間は、世界変革の緊急性に目覚めることはないでしょう。そして私たちが明確にしたように、私たちの一般化した条件づけは商業化勢力によって現在操作されており、まさにコモンズのアイデアと存在に沈黙の戦争をもたらしているのです。それは、現状に準拠することにより、私たち全員が一役買っている戦争です。[8]

したがって、私たちは上記と同じ追求の方向に戻り、認識、ビジョン、愛を通じて人類がコモンズを維持することができるという方法を認めなけなければなりません。私たちはここでも再び、人類家族の最も貧しいメンバーに対する大衆の認識の劇的な方向転換の重要性を予見できます。なぜなら、唯一この方法でのみ、世界全体を統一するために必要な内なる変革を起こすことができるからです。利益と貪欲によって駆り立てられた社会から生じるストレスや無関心の広がりを考えると、現時点で各国において何百万人もの人々が、コモンズの抽象的または理論的な概念を中心に結束することは決してないと再度言えるでしょう。しかし、結束した人々の声が第25条の到来を迎え入れ始めるなら、貧困にあえぐ大衆さえもが一体となり参加するだろうすべての可能性があるのです。そして、これらの断続するグローバル・デモンストレーションの響きとエネルギーそのものこそが、すべてのコモンズの中で最も偉大なコモンズとしての人類についての認識をもたらすのです。それは知的理解によるだけでなく、歓喜に関連した霊的特質を通じて内部で体験することのできる認識でもあります。したがって、この来るべき時代におけるグループ・ワークの決定的な重要性は、世界中で膨らみ続ける人々の集まりの中、ハートを通じて私心のない動機に基づいた新しい形の抗議活動によって最初は認識されるように、パーソナリティが、自己と他者をコモンズとして認識することを、徐々に学んでいくことができるということです。なぜなら、世界中の回避可能な人間の苦しみに対する認識の中で、この地球の一般市民の大部分がまだかつて目撃したことのない種類の歓喜から生じる愛、創造性、ビジョンがこの自覚的に結束したグループの参加者全員によって感じられるだろうからです。

コモンズへの認識を最終的に人類全体にもたらすのは生きる歓びです。それなくして、地球の生態学的危機と気候危機を回避する望みはありません。私たちが話しているのは常に捉えどころのない幸せを求める自己本位なパーソナリティの束の間の歓びのことではなく、自己の魂とのコンタクトから生じ、愛ある奉仕と他者との霊的結束の中に、その表現を見いだす歓喜の非二元的な体験のことです。けれども、尊厳のある生活に不可欠な必需品を持たない無数の家族には、歓びの霊的特質を感じたり表現したりすることはできません。このことは、聖なる現実としてのコモンズの最高の意味をすべての人が認識することができるようになるためには、それ以前に第25条を施行することが最重要であることを再度強調します。国際資源の再分配の緊急プログラムを通じて、飢餓者や極貧者に食料を供給すること自体が、その最も基本的な霊的定義によると、グローバル・コモンズを保護するためのまさに最初の動きです。それはまた、私たちの集合意識を「ひとつの人類」への認識に向けて拡大するためのまさに第一歩でもあり、この意味では国連を通じての飢餓を撲滅するための前例のない救援活動は、全人類の新しい教育の始まりを象徴するでしょう。これは確実に予測できる事実です。なぜなら私たちが、世界資源を分かち合い、蔓延する絶対的貧困を最終的に撲滅するとき、自動的に国家間に信頼が生みだされ、さまざまな方法で特にストレスの軽減と社会的分裂の癒しによって、驚くほど強烈な歓喜が世界中に広がるだろうからです。そしてすべての社会を通して急増する信頼と歓喜こそが、主に他者への正しい自己投影によって、コモンズへのグローバル意識を解き放つための鍵を握っているのです。

これを簡単な言葉で理解するために、人々が小旅行に出発するときに感じる喜びと、それがしばしば善意の人にもたらす効果とその人の周りの環境への配慮について考えてみてください。たとえば、幸せや歓びを感じていない人が、ゴミを道に捨てないよう他の人に注意することはなさそうですが、内部で歓びを感じている人は、その道全体をコモンズとして考えるため大切にします。これはつまらないたとえのように聞こえるかもしれませんが、生きる歓びと道理そのものの間に存在する本質的なつながりを示すだけで十分であり、それがひいては私たちの周りのコモンズへの認識や愛ある配慮につながるのです。この日常的なたとえを直感を使って敷衍すると、そしてそれは内なるコモンズと外なるコモンズの間に存在する不可分なつながりさえも示しているかもしれません。したがって、歓喜の体験が意識を拡大する独自の教育者の形態であるという理由がここに挙げられます。歓喜に溢れた人が、どのようにアイデアをより良く理解して吸収することができ、その結果、どのように外なるコモンズを分かち合い、保護するための論理的正当性に注意を払うかもしれないかということを観察してください。しかし、心の中で絶望感や憂鬱を感じている人は、多くを理解することができません。それは、私たちの社会のような細分化された物質主義的社会では、危機的世界情勢に対して人々がますます頑なで無頓着、または無関心になる傾向にあることを意味しています。ここに環境危機の、より深い原因があるのです。それはコモンズが存在するという事実さえに対する広範な無関心に根ざしています。それは内なる観点から、愛の欠如が原因である以外の何ものでもない、太古からの心理的問題なのです。

したがって、私たちの一連の追求のすべては同じ点に回帰します。つまり、そのグローバルな構造と資源分配の様式において、もはや利益に基づいているのではなく、むしろ「愛に基づいた」または「コモンセンスに基づいた」新たな経済秩序を築く必要があることを私たちが理解することです。言い換えれば、内なる変革は外なる表現の新しい形を支えなければなりません。これが、極度の不平等の悪化が、私たちの環境の外なるコモンズの中で目撃されている、破壊の根本的な原因だと理解することから始めなければならない理由です。実に、これまで説明してきたような世界再生の包括的プロセスを再検討するなら、人類を内から外へとどのように変革すべきかということへの答えを(神聖な原理としての)分かち合いがどのように握っているのかをより明確に感知できるかもしれません。何よりも、世界の市民の間に生きる歓びを生じさせるフォーミュラを明らかにできるのは分かち合いの原理であり、それによって最終的に個人の中にさらにある程度の無執着性がもたらされ、結果として霊的および総合的理解におけるコモンズへの認識が拡大するのです。

このことを注意深く考察してみてください。なぜなら、今日コモンズの支持者のほとんどが見過ごしているように見える、内なる、または霊的な無執着の性質には計り知れない重要性があるからです。別の例をあげるなら、企業のエグゼクティブまたは株主は、お金への内なる執着によって、もしくは高い社会的地位や特権的なライフスタイルを達成することへの利己主義的動機などによって、収益性の高い商業的活動を通じて環境破壊に加担しているかもしれません。しかし、人々のハートが、飢餓と貧困による不必要な苦しみの緩和に向けて社会全体で大規模な心理社会的変革に従事するとき、億万長者さえが、飢えて貧困にあえぐ何百万人もの人々へ資源を再分配することに携わるかもしれず、それは富とその他の物質主義的利益の個人的追求から離脱するための予備段階をもたらすでしょう。究極的には、個人が物質的利益とあらゆる形態の権力追求への執着を感情的および霊的に手放した途端に、その人を取り巻くすべてがコモンズとして無意識のうちに認識され、しかるべく扱われるようになるでしょう。

その影響は時間の経過とともに際限がありません。なぜなら、コモンズの存在を擬人化できたとしたら、それは人類にもっと簡素に生活し、持続不可能な大量消費パターンを通じて人間が地球に課している破壊について認識するよう懇願しているだろうからです。商業化され、士気を失い、分断された現代社会で生活が複雑になればなるほど環境状態やコモンズ全般に関心を持たなくなる人がますます増える可能性が高くなるでしょう。したがって、多くの欲求や物質的なニーズを持たず簡素に生きることは、世界規模のハートの目覚めを必要とします。なぜなら、従事するハートは常に、歓び、無執着、無害性、正しい人間関係を通じて簡素さを求めるからです。これらの小さな観察の中で私たちは、無執着があらゆる形態のコモンズにとってどのように偉大な同盟者であるのかということ、そして最も裕福な人から最も恵まれない人に至るまで、すべての人に影響を与えるだろう新たに見いだされた生きる歓びを通じて、分かち合いの原理がどのようにしてあの内なる無執着を一斉にもたらすのかということを、単に知覚し始めることができるに過ぎないのです。

 

 

上記の図式に要約されている世界変革の内なる側面と外なる側面について思索するとき、世界資源を分かち合うことを通じてまったく異なる種類の教育がもたらされるであろうことが明確であるべきです。この教育は解放された何千万人もの人々が単に生きていることの歓びを体験することによって生じます。さらにそれは、国籍、経歴、社会的立場に関係なく万人に利益をもたらす教育です。なぜなら、その源泉は人間のハートの認識の中にあるからです。つまるところ、ひとつのハート、ひとつの人類があるのみです。歓びを通じて、そして包括的な意識と愛を通じて、個人は個人的関係や日常の営みの中で無害であるよう導かれます。他者への私心のない奉仕を通じて、そしてこの顕現された世界の中で、そしてそれを越えて進化する生きとし生けるすべてへの敬愛を通じて表現される無害性。この認識の状態を後続の世代にわたって、そして各個人に関しては、生涯から生涯へと、実現するのにどれだけの時間がかかろうと、最も広い表現におけるコモンズとの調和性によって定義することのできる無害性。そしてその意識は、コモンズの法則が社会経済情勢を統制し始めるまで、人生のあらゆる分野のあらゆる人が共同で表現する無害性を通じて拡大することができるのです。おそらくこれが、国家間の戦争の存在が自然に終焉を迎えるだろうときなのです。そしてあえて将来のそのような結果を予測するなら、戦争の概念そのものさえが消滅するであろうときなのです。

普遍的な意味における分かち合いについての最も高い霊的解釈から、この永遠の聖なる原理は歓喜と不可分の関係にある振動を持っていると言えるかもしれません。そして人類のこの危険な進化段階において、国際レベルから下方に向けて資源を分かち合うことの影響は多大であることから、後に活気溢れた世界奉仕に従事するだろう何百万人もの人々のパーソナリティを通じて、魂がその目的をもっと簡単に遂行することを生きる歓びが可能にするでしょう。キリスト原理は、正しい関係の中で個人のハートを通じて表現されるため、聖なる分かち合いの原理が地球の生活の経済的基盤とならない限り、最大限に機能することはできません。それまでは、人類全体の意識は無知とビジョンの欠如によって事実上抑制され、痛み、混乱、そして絶え間なく繰り返される葛藤を通じて少しずつ拡大するしかないのです。したがって現代を特徴づける貪欲、利己主義、分裂の中でコモンズが認識され受け入れられるという希望はありません。しかし、世界の資源がすべての国の間で公平に分かち合われるとき、人類の意識の中でどのようにコモンズが成長し始め、人間の意識の拡大に構造と安定をもたらすかを私たちは目の当たりにするでしょう。それが、コモンズの最高の意味が私たちのマインドの中にゆっくりと現れ始めるときであり、美に結びついたそのより大きな霊的重要性を再び発見することが可能になるときなのです。その「美」は、生きる歓びが惑星規模ですべての人の中で表現されて初めて知り、理解することができる美です。このようにして、グローバルな経済的分かち合いの重要性についてのテーマを、私たち自身が再び強調していることを発見するのです。なぜなら真実は、最終的に、常にそれ自体に回帰するからです。


IV:「主義」と知性の危険性

これまでの考察を総合すると、分かち合いと歓喜がすでに人間の活動の主眼となっていない限り、コモンズについての認識を世界人口全体に向けて広げることができない理由を私たちは理解できるかもしれません。そのような可能性なくして、地球のコモンズの変革的ビジョンの推進は学術上の領域にとどまり、人類そのものと同じくらい古い、この太古の概念の現代における提唱者にさらなる課題どころか危険さえをももたらすことになるでしょう。今日、コモンズに関する執筆を通じて事実上自由を知的化しようとする学術的な思想家がいますが、真実を体系化するよう人間を導いた悪魔についての格言を忘れずにおきましょう。[9] この点で、物質的側面または霊的側面のいずれにおいてもコモンズの専門家などというものはあり得ません。なぜなら、唯一人間のハートだけが、私たち全員の中に静かに息づくそのような権威者または「専門家」であるからです。実際、ハートを使わず知的化するということは常に、言葉では言い表すことのできない時代を超えた霊的存在を誤解しているということです。コモンズは人生の霊的現実の最高の表現であり、そしてそれが、コモンズを知的化された概念や単なるアイデアに要約することができない理由です。

したがって、私たちが表現しようとしている認識が人類の内なる統一性と美に関連していることを考えると、コモンズを学術用語だけで概念化することは、誤り導かれていると同時に、他者をも誤り導いているということです。つまるところ、街頭でゴミを掃く男は、1日の終わりに彼自身のコモンズの形態に向けて帰途につきますが、それは彼の家族です。そしてまさに彼こそがコモンズの総体的な意味について教えるべき人なのです。なぜなら彼もまた、全体のなくてはならない一部、あるいは間もなく人口100億人以上から構成されることになるであろう人類というより大きなコモンズのなくてはならない一部だからです。[10] 心理社会的変革の事前の必要性についてこれまで考察してきたことがまた真実であるなら、コモンズが必然的にもたらすものについての普遍的な理解は、最終的に現時点では予測できない形で表現されることになるでしょう。その表現は、以前のように現代の支持者の知的思想や理論通りに、いわば正門からやってくることはないでしょう。それはむしろ、世界資源の分かち合いを支持する結束した人々の声によって表現される、異なった種類のエネルギーと知覚を伴って裏口から現れるでしょう。

今日、残念ながら非常に多くのコモンズの擁護者たちが、人類がすべてのコモンズの中で最高のコモンズであるという重要な議論を見落としており、社会と環境の外なるコモンズをどのように保護し維持すべきかということに対して計り知れない影響を及ぼしています。一部の人々は、まるで流行りのクラブのメンバーとして自己を見なす新しい従者の群れが生まれでたかのように、共有資源の生産と管理の集団的形態に参加する人々のことを述べる「コモナー」というフレーズを生みだすほどコモンズを合理化しています。同様に排他的な考え方が現代の「分かち合いの経済」の概念にもしばしば当てはまりますが、私たちの考えが起業家のアイデアの利益ではなく生きとし生けるものすべての利益を前提としない限り、それはビジョンとして霊的に無意味なのです。 [11] コモンズに関するアイデアや理論は学術的解釈において高度な知的優秀性を有するものですが、依然として通常のマインドの条件づけの問題、人生に対する主に感情的な態度、霊的ビジョンと認識の欠如という不変の問題にさらされています。その結果、コモンズに関する美と真実のすべてに新しいレッテルが貼られ、また別の「主義」に仕立てられる傾向にあるのです。

私たちは以前、現在の進化段階において人類がどのように主義の工場のようになってしまったかについて述べましたが、アイデアを主義に変換することを好む人々は人類自体をアイデアとして見ることも得意です。[12] 明らかに、餓死しかけている人はアイデアではありません;それでも、私たちが自己をコモナー(コモンズ主義者)と呼ぶくらいなら、ついで無数の貧困者が「ハンガリスト(飢餓主義者)」として分類されると合理的に説明するのも当然のことかもしれません。歴史家に知られるオーストラリアのアボリジニやアメリカ大陸の多くの先住民のようないわゆる原始的な人間文化でさえが、明らかにより大きな人類のコモンズについての理解を持っていましたが、それでも彼らには「あるがままのすべて」についての共通認識を知的化する必要はありませんでした。内なる現実と外なる現実との関係についての彼らの理解は、人や自然を「主義-化」することにあまりに慣れ切ってしまい自己にも主義を押しつけているかのように見える今日のコモナーからはかけ離れたものでした。その行為が霊的にいかに無意味で誤り導かれているか、そしてそれによって自分たちが何にレッテルを貼っているのかを認識せず、知的な概念化を通してどのように自己を制限しているかを私たちは理解できるでしょうか。

したがって、私たちがコモンズについて理論化するとき、マインドの条件づけや錯覚的な信条の問題を含んだ人類を苦しめているより深い霊的および実存的危機から私たちの考えは切り離されるべきではありません。なぜなら、世界中の最もイデオロギー的で宗教的な団体でさえが、結果の良し悪しに関わらず、彼らの信条の視点から彼ら自身のコモンズのために戦っているからです。コモンズの初期の印象は、潜在的にすべての人のマインドに埋め込まれていますが、多くの人はそれを「私の権利」「私の信条」「私の人々(マイ・ピープル)」などの言葉で、彼らが理解するあらゆる種類の「主義」を通じて歪曲するか、熱狂的なコモンズの表現を求めます。たとえば私が神を愛するなら、私の神への愛はコモンズに対する私の認識の一部です。しかし、私が独断的な考えを持ち、あなたがキリスト教、ヒンズー教、またはユダヤ教の神の概念を崇拝しているかどうかを尋ねるなら、私の神への愛、つまり私の内なるコモンズは根本的に排他的で歪んでいるのです。繰り返しますが、コモンズの概念は、学術的分析において宗教とは非常に異なる性質を持っていますが、たとえその動機がどれほど崇高で善意に満ちたものであっても、コモナーは依然としてこの昔ながらの分割的な思考の泥沼の一部であることに変わりはないのです。これは「またしてもか」の定番パターンであるのです。なぜなら、人は常に彼の考え方と霊的現実に対する限られた認識の中に自分自身を閉じ込めているからです。まさに自己をコモナーと呼ぶことによりマインドがつくった牢獄に自らを心理的に拘置し、その中にコモンズの最高の霊的理解を自己と共に閉じ込めているのです。したがって私たちは、霊的認識についてのそのような愛に満ちた概念を自らが作った罠に嵌めることによって、他者だけでなく自己をも誤り導いているのです。

これはいずれも、故エリノア・オストロム氏や今日の他の多くの著名なコモンズ学者の業績を過小評価するためのものではありません。彼らの研究の集大成は、協力的に管理される資源を分かち合うための政策と実践への貴重な理論的洞察を提供します。しかし、この包括的なテーマの先駆的思想家たちは、今述べたようなマインドの条件づけの問題のために途方もなく複雑な課題に直面しており、それは以下の要因によってさらに複雑化されます。

  • 霊的認識と正しい人間関係に基づいた教育の欠如が原因で、一般の人々には世界資源を分かち合い、外なるコモンズを保護するために協力する必要性についての一般的な認識がない。
     
  • 何千年にもわたって正しい人間関係の表現を妨げてきたという以外に説明不要な貪欲は、あらゆるところに蔓延する行いの動機である。
     
  • 主に自己との関係における愛の欠如。「内」への愛があるときにのみ「外」への愛と崇敬がある。
     
  • ビジョンの欠如、無関心、混乱をもたらす盲目的マインド。危険な世界情勢と外なるコモンズの劣化の問題のすべては、政治的、宗教的、文化的信条の如何を問わず、すべての人を苦しめる混乱によって特徴づけられる。

これらのより心理的または「内への」考察は、人間と自然の間にまるで霊的進化が存在しないかのように「外なる」または環境の問題に過度に固執し続けるなら、現在のコモンズの概念がいかに限られたものであるかを強調するのに役立つかもしれません。美しい空を見上げるとき、それは私の内部に作用します。したがって、明らかに内なるコモンズは存在し、外なる世界と関係しています。両者は相互依存しており、人類が愛なしで現在の貪欲と盲目的なマインドの道を進み続けるなら、それは明らかに自然環境と大気圏に破滅的影響をもたらすでしょう。したがってコモンズの擁護者は、彼らのビジョンあるアイデアがさらに包括的であることが求められ、極度の飢餓と貧困が深刻化する環境危機の中心であり、依然としてその解決に不可欠な要素であることを少なくとも認識するよう求められます。[13] この理解なくして、環境修復保全のためのどのような提案を持ってしても取り掛かる順序が逆であると言えます。それはまるで家でずっと待っている家族をコモナーが外で探し回っているかのようです。この意味で、人類の内なる問題と外なる問題は決して切り離されてはいないのです。環境保護活動家がその分析や提案の中で多くの場合「貧困」や「飢餓」という言葉に言及しないのと同じように、コモナーも多くの場合、内なる自己の大きな重要性について言及することがないどころか思いもよらないのです。

もちろん、外部だけに集中することに何も悪いところはありませんが、人類の持続可能で平和な暮らしのために必要なすべてのものを正しく分かち合うより良い世界をどのように実現するかについての答えをそれは決して提供しないでしょう。仮に私たちが、痛切に不平等な社会の状況下でコモンズを管理するための真に民主的な方法を組織化できたとしても、私たちの提案を無視し、私たちが献身的に築き上げてきたものを台無しにしようとする何百万人もの人々がいます。これが左翼と右翼、革新家と保守派の考え方の間の闘いの本質であり、その歴史は限りなく繰り返すのです。そして相反するイデオロギーを持った政治家たちの間のこれと同じ争いが、社会の分裂と混乱を大衆全体にわたって永続させ不変の結果をもたらしているのです。実に、自称コモナーにも同様に、生涯から生涯へと私たち全員を条件づける二極化した考え方や主義を維持している責任があるのです。なぜなら、他の人々と同じように、コモナーも時代の混乱によって盲目にされており、人生の理解において真の霊的基盤を持たざるがゆえに、社会組織の外なる様式において目的の統一性のない社会の中で私たちと同じように生きているからです。

およそすべての政治的思想家や活動家は外部だけに集中し続けており、それによって私たちを集団錯覚を通じて断片化させ混乱させています。しかしここにアイロニーがあるのです。それは、コモンズの研究分野が前近代史におけるコモンズの最も偉大な推進者である民族の一つ、すなわち、ネイティブ・アメリカン・インディアンに直接関連を持つということです。それでも私たちは、両者の繋がりを見いだせず、外なるコモンズに対する彼らの崇敬が、どのように霊的進化の中のひとつの生命への彼らの内なる認識と本質的に結びついていたのか、そしてどのようにそれが無害性の自然な表現、愛ある配慮、そしてあるがままのものすべてに対する慈悲をもたらしていたのかということを観察しません。とはいえ、私たち全員がアイデアを追いかけ、他者に追従し、社会的認識や外部から受け入れられることを欲するよう幾分条件づけられているとき、世界問題のこの重要な内なる側面を見過ごしているとコモナーだけを責めることはできないのです。私たちは皆、何年にもわたる従来の学問的訓練を通じて一定の知的議論の暗黙のルールの中で訓練を受けてきた後では特に、それらの議論の認識された制限範囲に従うよう条件づけられています。したがって、内なるコモンズについての私たちの理解は、自覚的または経験的なものではなく、頭で考えた知的なものなのです。そして確立された考えに従うことによって私たちには皆、何千年にもわたって社会を分割し続けてきた主義を維持していることに多少なりとも責任があるのです。こうして私たちはコモナーではなく追従者となるのです。霊的認識の中で生き行動する真のコモナーは – もし彼らをそのように定義づけることができるなら – 元来自己をコモナーとして装うことは決してないのです。

明確に言うと、コモンズの課題に関する研究や行動主義の高まりはこの時代の最も希望に満ちた知的発展の一つであり、これは間違いなく、どのように分かち合いの原理を代替的な社会経済パラダイムに融合させるかについての主要な政治的議論を構成します。この点でコモンズの学者の研究は貴重であり強い励みとなりますが、私たちが探求しようとしているのは彼らの分析と提案に欠けた部分であり、それは愛ある配慮と「あるがままのもの」への霊的知覚を持ってこの地球上でどのように生きていくか、ということを理解する知恵に関するものなのです。なぜなら、この地球で愛され、育まれ、守られるべきものすべてについての概念化の中に人類全体が含まれない限り、霊的な意味での「あるがままのもの」への包括的な認識はあらず、永遠の神聖な現実としての、そして生命のエッセンスそのものとしてのコモンズについての理解もないからです。これは私たちが繰り返し続ける非常に基本的な見解のように聞こえるかもしれませんが、実際にコモンズのより深い霊的な意味と重要性を知覚するには個人における執着からの脱却が相当に表現されている必要があります。それは、私たちの個人主義的追求や物質主義的欲望への執着だけでなく、信条、イデオロギー、社会的条件づけへの執着をも捨てることを必要とします。これにより、世界資源を分かち合うことがあらゆる形態のコモンズを維持するための入り口であることを認識できるようになります。実に、私たちがこの追求の始めから主張してきたように、コモンズと分かち合いの原理の間には重要かつ深い類似性がありますが、この真実についての認識はいかなる信念体系やマインドが生みだした主義を通じても見いだされることはありません。したがって一見矛盾しているようでも、コモンズの存在を2つの異なった方法で見る必要があります。第一に、私たちが外なる世界で推進し擁護すべき現代思潮として。そして第二に、イデオロギーや主義そのものへの執着を大部分なくさなければ理解することのできない永遠の霊的現実として。

社会にはストレスとイデオロギー的分裂が蔓延しているため、コモンズのムーブメントの参加者が自分たちのアイデアをしばしば「主義化」するよう導かれるのはある程度理解できることです。しかし、コモンズを主義化することさえがそのストレスの一部、その分裂の一部となることであり、その中で私たちはこの時代の永続する衝突と混乱にどっぷり浸かり、自分たち独自のイデオロギー的思考の派閥を生みだします。私たちが主に利益の追求に基づいた社会で暮らすなら、その主要な傾向に対立するどのようなアイデアも少なくとも心理的には戦争を求めているということなのです。それにもかかわらず、コモンズの霊的な意味は決してアイデアによってできたものではないのです;それは常に愛だけでできていたのです。

この観点からコモンズの本来の定義をもう一度考えてみましょう。コモンズとは、本質的に特定のものを全体に、また全体を特定のものに関係づける愛に溢れた認識であると私たちは説明しました。なぜなら、魂とその目的についての確立された理解によって照らされた内なる自己に対する一般的な認識なくして、主義の心理的大混乱に失われることのない世界を想像することはできないからです。人間の魂は、実証可能な方法で存在し、本質的に人類と霊的進化の聖なる大計画に仕えるという目的を持っています。このため、魂はそれ自身の反映を物質界で生みだしますが、悲しいかな、私たちはそれが人間のすべてであると誤解しているのです。その結果、この地球で物質主義的な執着を放棄し、無私無欲で他者に奉仕する代わりに自己と地球を消費する人類の傾向が原因で、私たちのパーソナリティはその基本的な霊的責任のすべての面で行き詰まっているのです。

これまでの観察は、不朽の知恵の教えの基礎として考えられるかもしれませんが、[14] コモンズがその最高の霊的ビジョンに則して顕現するためには、より広範な人々にとって不可欠な知識です。それはあなたが思いだすだろうように、一つの目標のために全人類が存在し、その目標が霊的進化であることを意味します。したがってコモンズの包括的理解は、人類の霊的および心理的発達を促進するのための有益な道具とみなすことができ、今後何年かで多くの予期せぬ形で導入されるかもしれない新たな教育の不可欠な部分を形成します。それでも、その新たな教育は、私たちの上記の予測に則して、必要不可欠な資源の経済的再分配と第25条の普遍的実現を通じて信頼と多くの生きる歓びを生みだすことによってのみ開始できるのです。その一方で、コモンズを再び擬人化することができたとしたら、それは見捨てられ、非常な痛みの中で苦しみ、話すこともその存在自体を主張することもできずにでいるでしょう。それゆえ、中身のない外身、内容のない形態は維持できないことに人類が気づかない限り、状況はこのまま着実に悪化するでしょうが、それはコモンズが霊的知覚と認識の観点から実際に何を意味するのかを全体としての世界が理解できるようにする、新たな教育を最終的に必要とするのです。


V: コモンズ志向型教育

したがって、コモンズを擁護する新しい経済と社会を実現するには、利益を求めて地球を略奪する多国籍企業を阻止する以上のことが必要です。それはまた、霊性、創造性、調和、正しい関係に向けて人類の進化のプログレスを促進できる最も広い意味での教育と認識にも関係しています。私たちは、もともとどのようにコモンズが人間のマインド内の認識から生まれたのかということ、そしてそれが異なった文化においてある程度の理解レベルで常に人間の意識に内在し、世界がより統一され融合されるにつれ徐々に惑星的アイデアへと発展してきたことをみてきました。しかしながら、私欲や利益がこれまで常に政治経済の分野で現代生活の支配原則となり続けてきたため、人間の進歩はますます危険な方向に向かっています。

しかし、私たち自身の教育や過去何世代にもわたる私たちの遠い親戚の教育を含んだ、若者たちを指導し条件づける上での私たちの教育方法の方針が間違っていなかったのなら、この事態の根本的な理由は何でしょうか。私たちは、人文科学、芸術、科学の基礎のすべてにおいて正しく教育されているかもしれませんが、私たちの内なる態度や動機の性質を決定する部分、つまり、お互いや自分たちの周りの世界に対する愛はどこにあるのでしょうか。私たちは前に、他人の目から見て「成功者」になることを欲するよう個人を条件づける富や社会的地位の追求を成功と結びつける、最先端の資本主義社会において特に、若者たちがしばしばどのように表面上の認識と成功を達成するよう駆り立てられているかについて言及しました。しかしこれらの暗黙の動機は、外なるコモンズへの認識を妨げる一番の要因であり、コモンズを維持するということへの一般に蔓延する無関心はもとより、コモンズが存在するという事実さえに対する認識の欠如や無知をもたらす場合も多いのです。

したがって、緊急事項としてコモンズの総合的な意味を、あらゆる国の学校カリキュラムに導入することは不可欠です。これによって「商業化パラダイム」に関連する問題に多くの角度から取り組むことができるようになります。なぜなら、霊的に動機づけられた正しい教育は、何世紀にもわたって利益主導の競争社会を決定づけてきた個人主義的価値観に対する解毒剤となるからです。[15] コモンズはそのような新たな教育の不可欠な構成要素であり、コモンズに対する先天的な意識が子供の初期の心理的発達の自然な部分であることを踏まえると、それは最年少の子供たちの中で養成されるかもしれません。[16] この新たな教育が最終的にどのような形を取り、どのように構築されるかを予測するのは不可能かもしれませんが、子供が学校に通い始める瞬間から授業に付加的な学習分野 – つまりすべての若者が社会および自然両方の外なるコモンズと本能的に持つ特別な関係に基づいたもの − が必要になることが一般的に予測できます。このため、以前定義したように、善意と「特定のものから全体への愛に満ちた認識」に基づく崇敬を伴った、世界中の人々や文化と私たちの関係についてのさらに包括的な視野が求められるでしょう。これには、化学的および学術的調査の多くの分野で着実に明らかになりつつある事実である、善意と協力に対する人間の本質的傾向についての基本的な教えも必要になるかもしれません。さらに、再び権限を取り戻した国連総会を通じて政治経済情勢の管理に計り知れない影響をおよぼすだろう、人類は霊的にも客観的にも相互依存するひとつの体なのだという事実についての初歩的な研究が必要になるかもしれません。

これらのトピックのすべてが従来の意味において研究され、わかりやすい授業に変換されることが可能ですが、子供や大人の内なる自己に達するために、事実や現象の学習より遥かに深い教育学を必要とする、内なるコモンズについての教育を確立する必要性も考慮されなければなりません。この点で、ルドルフ・シュタイナーやマリア・モンテッソーリの教育哲学、さらには、子供たちの精神的および社会的発達を導く、多くの伝統的な仏教の法式からも多くを引きだすことができます。しかし、私たちは先を見越してもう一段階進み、宗教的背景の有無を問わず世界のさまざまな地域のすべての学校プログラムの時間割の一部として導入される、不朽の知恵の教えの学習研究についても予想しなければなりません。したがって私たちは、最終的に個人を魂の存在についての認識に導くことのできる、完全に新しい教育のアプローチの必要性を徐々に予期します。そのような認識は、必然的に魂のメカニズムと目的についての実践的な知識に基づいているかもしれませんが、人はライフ生命)であるという現実、つまり、個人が見ているすべてのものはそのワンライフの一部であり、不可分で相互に関連しているのだという現実として内的または自覚的に経験されるかもしれません。したがって、瞑想の実践は、偉大な原因と結果の法則の理解における無害性と正しい人間関係の実践と並んで内なるコモンズの経験的な現実を明らかにすることを求める教育の中心となります。

これまでのコメントは、必要とされる学習の新しい形式と将来の様式は、エリート大学の最も特権階級の学生でさえが(間接的ではあっても)他者や地球に害をおよぼすように育成されることの多い、現在の教育方法とはまったく異なったものであることを示すのに十分かもしれません。富と個人主義的業績の競争の激しい追求が、分割的で搾取的そして機能不全の社会秩序から生じるあらゆる害の基盤であることを考えると、私たちはこの明らかな現実を自分自身で確実に観察することができます。[17] しかし、社会でいわゆる「良い教育を受けた」ほとんどの個人に現状を永続させている責任があるより深い理由は、同じ認識されていない事実に帰すことができます。それは、内なるコモンズの研究と育成が私たちの主流の教育制度の中にまだ確立されていないからだということです。

この発言の正当性を理解することは正しい瞑想の実践を学校に導入すべき緊急の必要性についての認識をもたらします。なぜなら、平均的な個人の内部にそのような機能不全を生みだしているのは外なる社会の機能不全だからです。実際、私たちの多くは、日々静寂の中一人で腰掛け、自己がその一部である聖なる根源との暗黙の交流に穏やかに浸ることができないほどです。いわば外部が内部を乗っ取った状態ですが、それによって私たちは自分たちの家族や社会の中だけでなく、世界の国家間などあらゆるレベルで人間関係を特徴づける混乱と対立を内部で再現するのです。これは、ほとんどの人にとって制御されない思考プロセスの動きから離れること、つまりすべての思考の背後にある「私」についての静かな内省を通じて自己のアイデンティティの本質を理解することが難しいことを説明しています。常に気を散漫させる不安の絶えない多忙な現代生活は、比較的少数の人々が日々の瞑想の実践に取り組む一方で、大多数の人々が多くの場合、内なる自己の変革的意識にアクセスすることなく生涯を送ることを意味します。それは「内部」がほとんどなくなってしまうまで私たちの内なる平安を奪います。したがってこのような言い方ができるなら、非常に幼いときから学校に瞑想を導入し、子供たちが内部を外部から守るために必要な基本的手段を与えられるようにすることより重要なことがあるでしょうか?なぜならそれによって私たちは、すべての子どもたちが大人に成長するとともに、あることbeing)となることbecoming)の違いを理解できるようになり、正しい関係に対する誤りのない価値観と動機によって推進される世界奉仕という将来の生活に備えることができるようになるからです。

新たな教育の発展は非常に緩やかなプロセスになると予想されますが、分かち合いの原理がグローバル経済活動の基盤として堅固に確立されるまでは決して促進されることがないことをもう一度強調しておきましょう。私たちの予測では、経済的分かち合いの対極が世界的な政策策定と地政学において優勢である限り、普遍的規模でコモンズへの愛ある認識をもたらすことは非現実的であり続けるでしょう。人類は、特に土地やその産物など手をつけることのできるコモンズの資源はすべて分割し、独占し、利益を上げるにことによって成功を成し遂げてきました。大気全体を写像して各立法メートルごとに株式市場で価格づけできる新しい技術などはまだ発明されていませんが、そのような機会があろうものなら多国籍企業がそのために競い合うだろうことは確実です。それでは、人類が最終的にその誤ったあり方を改め、国連の後援のもと地球資源を分かち合うことの必要性を受け入れる前にコモンズの最高の意味を伝えるより霊的な教育を広める可能性はあるのでしょうか。国々が経済的分かち合いを通じて正しい関係を示し始めるとき、そして世界が飢餓に終止符を打ち、平和の真の意味を理解し始めるとき – それが、人類はひとつなのだという認識の育成を目的とした新たな教育様式に反映されるように、コモンズが自然に顕現し急速に普及するときなのです。

私たちに示唆できるのは、後に起こるであろう意識の拡大であり、そこではもはやアフリカやアジアをたとえば西ヨーロッパより劣った大陸であると考えるのではなく、代わりに誰もが訪れ、自分たちの共通の家として見なす権利を持つ、「私たちの」アフリカ、「私たちの」アジア、そして「私たちの」ヨーロッパとして考えるようになるでしょう。これが意味する人間の意識の内なる変革を想像するよう試みることは重要です。なぜなら、パスポートの必要性でさえが、愛ある理解と認識を持ってコモンズの真の意味と重要性を知覚することを私たちに拒んでいるからです。この認識に加えて、魂の存在についての知識と、各国が魂を持ち、各々の運命に従って進化する霊的目的を持っている事実を考えると、自然環境のコモンズを分かち合い保護することの重要性を認識する一方で、異なる文化の伝統や習慣を尊重することを国民に期待するのは自然なことなのです。そのときまでは、すべての国の学校のカリキュラムに内なるコモンズが導入され、すべての子どもたちが静かなマインドを身につけ、無執着を通じて無害な態度を発達させることや、そこから現在未知の種類の自己知識、霊的叡智、知恵を備えた大人へと彼らが成熟することを私たちが心に描くことはできないでしょう。

現在のところ、これらの希望に満ちた将来の展望は一見してジレンマの中に私たちを取り残します。なぜなら、コモンズが緊急事項として学校で教えられるべきだと主張するのが正しい一方で、私たちはまたいくつかの角度からそのための基本的前提を詳しく論じてきました。つまり、分かち合いの原理が世界情勢において堅固に確立されるまでは、コモンズの最高の霊的側面が全人類によって理解されることはあり得ないということです。したがって現時点では、見聞の広い教師が地球の生存のために分かち合うことの必要性を生徒たちに紹介することに重点を置く方が、より賢明で現実的であるかもしれません。私たちの集団的な問題の解決策として分かち合いと協力の重要性を理解するよう若者を促すことで、分かち合いの原理とコモンズ両方の総体的な意味が無害性、愛ある配慮、全体意識であることに留意しながら周りのすべてをコモンズとして見るよう(その認識が意識的か無意識的かにかかわらず)彼らのマインドの想像力に火をつけることは可能です。もしあらゆる年齢層のあらゆる人がクラスルーム、職場、家庭、地域社会でこの偉大な文明的論議に参加し始めるなら、惑星規模での分かち合いが何を意味するのかという新たな意識を通じて教育様式がどのように急速に拡大し始めるかがわかるでしょう。したがって私たちの論理的思考は必然的に同じ点に回帰します。なぜならそれは、人類の進歩の方向を持続可能な軌道に転換するための唯一の希望を示しているからです。つまり、何千万もの人々が止むことのない抗議活動を通じて第25条を布告し、国連に世界の資源を分かち合うよう共に求めるというビジョンです。


Vl: 内なるコモンズを探求する

私たちの探求のこの段階までにおそらく読者は、コモンズが生活のあらゆる側面を網羅する極度に広大で多方面にわたるテーマであり、私たちの注意をこの研究分野の内なる側面または霊的側面に最も集中させるべきであることを確信しているでしょう。私たちの探求は、コモンズを全体のためになることを支持する天与の霊的教育として述べることから始まりました。それでは、この異なる教育形態が、認識と自己知識の成長を通じてどのように生じるかもしれないかということをさらに詳しく見てみましょう。実に、自分自身について、そして世界と私たちの本質的な関係について理解する努力なくして、内なるコモンズが何を意味するのかを真に理解することはできません。私たちの真のアイデンティティを表す「私」または内なる自己の観点から見ると、外部の環境や社会についての研究がコモンズの高次の性質を明らかにしようとする試みにおいて達成できることは限られています。しかし、私たちが自己の存在の内なる世界を深く掘り下げていくなら、意識の霊的進化に内在する人類の永遠のコモンズを実際に知覚し知り始めることができるのです。

したがって、コモンズが個人を知恵に近づけることができる神聖な概念であるという私たちの仮定の真実を個々で体験することは可能です。このようにコモンズについて考える行為でさえが私たちが認識するかどうかにかかわらず一つの知恵の表れです。宇宙飛行士の例を挙げてみましょう。彼が宇宙空間から地球の美しさに思いを馳せ、人間の無謀な傲慢さと分裂感によって引き起こされた破壊から私たちの弱った地球を癒す緊急の必要性を知覚したと考えてみてください。私たちの美しい世界への包括的な認識は外なるコモンズへの認識ですが、それが個人の中に生みだす高揚した慈悲心に溢れる思いは人類全体の内なるコモンズへの認識を意味します。私たちの中の生命と創造のミステリーの深淵なる偉大さを感じると同時にその神秘を受け入れることができる限り、静かな認識の中で夜空の星々に思いを巡らすだけでも内外両方においてコモンズを知覚するということなのです。

このように、コモンズの最高の意味はそれ自体を内部に反映しており、それを認識することは各個人に潜在する特定の霊的認識の目覚めに依存します。このことは、人間の肉体をまとった魂としての個人が、自己の性質の現実を経験的に理解できるよう内なる自己への認識を高める、正しく実践された瞑想の必要性をさらに強調します。内なる自己は最も基本的なコモンズであり、霊的進化の無限のプロセスはコモンズの存在のすべての基盤であると言えるかもしれません。内なる自己の平安なひとりの空間に住むことは、あなたが持って生まれたコモンズであり、あなたの中にいつまでもあり続けるでしょう。新生児を腕に抱くことは、すべての創造の中にある愛のエネルギーの動きを見守ることに類似します。それは特に、不朽の知恵についての認識に基づいて、あなたが魂の存在とその目的に対して意識的である場合にはそうなのです。つまるところ、あなたが見守っているのは母親に完全に依存する単なる無力な乳児ではなく、その初期の個性の中に生命自体の意味と目的を秘めた魂という媒体なのです。したがって、コモンズはまた、私たちが霊的に誰であるのかをも反映していると言えるでしょう – それは、より大きな完全へと、そして驚異的な宇宙のすべての生命の根底にある絶対意識との一体化に向かって永遠に進化する不滅の聖なる存在なのです。

したがって、原始的コモンズは、私が短い生涯にわたり集団で分かち合ってきた土地やその他の物質資源ではありません;それは私の魂のコモンズであり、数え切れないほどの転生を経て、ワンライフの中での意識の成長を通じて私が物質界で進化することを可能にするそれなのです。実際には、この以前から存在していたコモンズと人類の霊的進化はほぼ同一なのですが、人間の現在の理不尽な発展段階において、この真実を理解することがかつてこれほど緊急かつ重要であったことはありません。真の「コモンズの悲劇」は、本質的に物質的なものではなく、むしろ霊的なものであるとさえ言えます – なぜならそれは、金の子牛を崇拝することによって人間の叡智が堕落し、他者と地球に対する愛ある配慮が欠如してしまったより深い理由に関係するからです。したがって、この追求を通じて探求され、上記の図式で示されているように、世界変革の外なる側面の背後にあるものが再度強調され順当に留意される必要があります。なぜなら、これまで考察してきた多くの心理的および霊的要素のすべてを説明した末に私たちが辿り着くのはまさに魂の科学以外の何ものでもないからです。したがって、コモンズの内なる側面はまた、21世紀の人間のマインドにとって想像もつかない段階に達するだろう無限の霊的進化段階を通して断続する、個人の意識の拡大の観点から容易に理解されるように、自己実現の術と同一であると考えられるかもしれません。

また、グループの観点から内なるコモンズは国家の意識の美と創造性に関連していますが、このことからその意味を理解することは各国の性質と特徴を司る「魂の振動」として述べることができます。したがって、霊的現実としてのコモンズの表現は個人やその個人の魂としての存在の美に関係するだけではありません;それはまた、世界のすべての国々の間で正しい関係が徐々に築かれていくことによって明らかにされる各国の魂とその運命の表現でもあるのです。霊的認識と無害性の拡大は常により広範な人々の間のこの進化過程の結果であり、それはさまざまな国の習慣や伝統を尊重することの重要性を改めて強調しています。なぜなら、それらの多様な文化的規範や独自の国家的特徴の中に – 社会的条件づけの問題がどれだけ時代遅れで障害になるかも知れなくとも – 霊的進化の動きの振動が潜んでいるからです。古い習慣的生活様式に従う国々の副次的影響はこの地球の進化の速度を著しく低下させるかもしれませんが、それでも過去の伝統とその緩慢さは尊重されなければなりません。なぜならそれが、すべての個人と国家の運命が各々のペースで、そして独自の方法で展開することを可能にする自由意志の法則であるからです。

これらの考察は、コモンズが実際には霊的認識の非常に感知しにくい要素に基づいており、秘教的観点からいかに多くの異なった意味を持つかをさらに強調するかもしれません。私たちは、内なるコモンズの意味が魂の存在とその目的についての認識に根ざしていることを観察してきましたが、そのことは人類の一体性に重点を置いた不朽の知恵についての学習研究を組み込んだ新たな教育の必要性を知らせています。またコモンズは、人間の意識の中で非常に古い過去を持ち、ワンライフ、進化の霊的ビジョン、そして何よりも万物に対する慈悲についての初期の認識から生まれたのだという私たちの主張をも思いだしてください。したがって、慈悲の法則とは、先ほど私たちが示唆したように、誰かが他の人に「慈悲心を持ちなさい」と言うときのような一般的に想像されるものより遥かに意味のある、人類の霊的コモンズを司る基本法則なのです。実に、ハートの特質と直感を通じて知覚されるなら、慈悲についての理解は霊的叡智なくして起こりえません。それは愛ある奉仕、無害性、正しい人間関係を通じて簡素に表現されるように、進化する魂としての自己が誰なのかを知る叡智を意味します。コモナーたちは事実上、自然と正しい関係を持つよう私たちに言っているのですが、私たちの追求に基づくなら、まず私たちが自己と、そしてお互いの間で正しい関係を持たない限りこれを成すことはできないのです。しかし私たちがそうするなら、それは自動的に自然界との正しい関係へと変換されるでしょう。

 

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内なるコモンズの意味についてのこの全般的な紹介が、少なくとも一つの明確な結論に対して私たちを納得させるのに十分であることを願います:つまり、「外なる」制度上の問題と政策解決策だけに集中するなら、それは大衆へのアピールも合意的妥当性もない、そして霊的認識や正しい人間関係の観点から永続的価値もない主に知的な活動であるため、持続可能な生活様式は決して実現されないかもしれないということです。しかし私たちがこの洞察の難しい真実を自ら受け入れるなら、より個人的な疑問が頭をよぎるかもしれません:つまり、世界の一般人である私たちが、最終的に自己実現をもたらす内なるコモンズへの必要な認識を一体どのように育み始めることができるのでしょうか?外なるコモンズの意味を知的に理解することは簡単かもしれませんが、「内なる自己の教育」のようなものを必要とする「ここでこの瞬間」の永遠なる動きの中に存在するコモンズを知覚することは別問題であり、前述のようにそれは「内なる自己教育」のようなものを必要とします。この観察は本質的に私たちの考察の核を形成します。なぜなら、その認識や表現が意識的であるか無意識的であるかに関わらず、内なるコモンズの意識がハートとマインドの内で開花し始めるのは、あなた自身を知るプロセスの中にあるからです。

これまでコモンズに関するこのより深い霊的知識を真剣に探求しようとする人は比較的僅かでした。それは私たちが行間を読むことができるなら、ネイティブ・アメリカン・インディアンがそのために戦い死んでいったものと同じコモンズであり、そして偉大な宗教の創始者や知恵の覚者方が何千年にもわたり彼らの教えの中で広めてきたものと同じコモンズなのです。おそらく、現代における内なるコモンズの最も偉大な提唱者の一人は、たとえ支持者によって彼の教えの大部分がそのように認識されていなくとも、ジッドゥ・クリシュナムルティでしょう。なぜなら、クリシュナムルティが彼の公開講演で絶えず示していたように、「あるがままのもの」への愛ある認識と知覚を通じて内なる自己についての知識を得ることなくして人類の哲学、理論、政治活動、積極行動主義はすべて無駄かつ無意味であるからであり;私たちは、この地球上でどのようにしたら平和と調和の中で共生できるかという長年の問題への永続的な解決策を見つけることなく、世代から世代へと何度も空回りし続けることになるでしょう。

したがって本当の問題は、外なるコモンズを維持できる新たな経済的および社会的取り決めをどのように実現するべきかということではなく;むしろ問題は、永遠に存在するコモンズへの内なる知覚をどのようにもたらすことができるかということですが、それは次の古訓を常によりどころとしてきました:汝自身を知れ。私たちの理解を人類の霊的進化と結びつけることなくコモンズについての理解を外部の世界に限定することは責任感をもたらすだけになりがちです;たとえば、自然を管理しより平等で思いやりのある社会の構築を推進する責任です。しかし、コモンズの内なる側面を受け入れることは文字通りの意味で愛の行動と慈悲を集団で表現することによって実現される、ひたすらよりシンプルで霊的な生き方のビジョンを呼び起こすでしょう。そして、十分な数の人々がコモンズを内外両方で知覚することを実現できたとき、人間のマインドに非常に違った何かが起こるでしょう:それは、コモンセンスおよび道理と融合したハートの特質を通して表現されるように、結束の必要性への普遍的な目覚めです。

コモンズを擁護することは基本的に意識的認識の問題であると、私たちが元来仮定したことをもう一度思いだしてください;しかしながら、マインドだけで意識を拡大することはハートの特質に従事することによって意識を拡大することより遥かに難しいのです。いかなる状況であっても、マインドだけが思考と行動の基盤となるなら、特にその個人が国家や大きな組織を率いているとしたら、酷い過ちが犯される恐れがあります。マインドは簡単に善意から逸れ、貪欲、権力、野心などの隠れた動機に操られやすく;私たちが考えつくすべての例からも明らかであるように、その結果は常に危害と分裂です。このように、マインドだけに依存することは責任意識を呼び起こすかもしれませんが、マインドがハートの特質と融合した結果起こる認識はコモンセンス、そして何よりも無害性と結束を求めるでしょう。

「あなたに危害を与えたくありません。お互いへの理解と譲歩によってこの対立を共に解決しましょう」と相手に伝えることだけでも、私がハートとマインドの両方の特質と連動しているということです。この単純な日常的理解をコモンズの総体的な概念に適用することで、それが人間関係に与えるかもしれない革新的な影響を私たち自身で心に描くことができます;なぜなら、ハートに正しく従事することにおいてイデオロギーも害も分裂もなく、責任と道理が愛と融合する他ないからです。徐々に私たちは、マインドのより成熟した慈悲的態度で自分たちの周りのものに対する認識へと導かれ、それによって私たちが以前述べた種類の感情的および霊的無執着を実践するよう自己を備えます。要するに、コモンズへの内なる認識を育もうとする純粋な試みは、私たちを自己のパーソナリティの中で前述の性質のすべてを実現するよう着実に導くでしょう。したがってコモンズは、私たちが霊的に誰であるのかを反映するため、それを知覚することは個人を知恵に近づけることであると正確に言うことができます。

以下の点は、私たちがここで検討してきた主な洞察を要約したものであり、人生の内なる側面からコモンズが何を意味し、必然的に何を伴うのかを定義するのにさらに役立つかもしれません。これらの潜在的な性質を、魂の観点から見たコモンズの霊的意味として、あるいはコモンズへの内なる知覚と外なる知覚が意識の中で融合したときに自然に生じる人間の本質的な特質として考えられるかもしれません。読者は、コモンズが以下に述べられているものとしてどのように知覚されるかということも直感するよう努めながら順を追って各点について自身で思索するなら利益がもたらされるかもしれません:

  • そのもの[18]
  • 成熟性
  • 愛ある配慮[22]
  • 新たな注目(敬意)
  • 「あるがままのもの」についての霊的知覚[23]
  • 知恵
  • 生きる術を通じてのビジョン[28]
  • 分かち合いを通じての結束
  • 正しい関係

コモンズをこれらのより包括的な観点から見ることが求められる知覚の方法は、霊的現実の認識を通じて「あるがままのもの」を見るよう教育されてこなかった私たちのほとんどにとって最初は奇妙で馴染みのないものに思えるかもしれません。私たちの教育は、人生をあるがままに見ていないことに基づいていると言っても過言ではありません。つまり、現時点でこの認識を自分自身で育みたいなら孤独な道を歩む覚悟が必要だということです。人間は太古の昔から多くの法律をつくりだしてきましたが、私たちが永遠の生命の法則を正確に知覚したいなら、それらの世俗的な法律を超えたところを見据え、それらの霊的はかなさを認識しなければなりません。

適切な例を挙げてみましょう。自分たちの周囲のあらゆるところでどのように音楽を観たり聴いたりすることができるかを知覚することなく、唯一楽器から奏でられる音の中にだけ音楽を聴くよう私たちがどのように教育されてきたかを考えてみましょう;それは雲の形や動きの中に、そして人の話し方や動き方の中に、また市場に並ぶ果物や野菜の色の中に、あるいは自然環境に反射する光の中にあります。なぜ私たちは耳で観て目で聴くよう教育されてこなかったのでしょうか。手にするものはすべて型にはめ、分割する人間のマインドに一体何が起こってしまったのでしょうか?

音楽に関して言えば、私たちは内なるコモンズを盲人に任せてしまったようです。けれども、田舎の草原を吹き抜ける風の中に、あるいは、激しい嵐の瞬間の中に、そして、海の満ち潮と引き潮の中に、さらには、地平線から静かに登る太陽の動きの中に音楽を聞くことのない盲人は私たちなのです。もちろん、あなたが周りのすべての音楽にハートとマインドを開くなら、聞こえるのは従来の意味での音楽ではなく異なった種類の音でしょう。これらすべての音符を内部で聞こえる作曲へと寄せ集めるのはあなた次第です。やがてそれは才能と実践を伴った自然なプロセスとなります。木の形や私たちを取り巻く多くの建物などの物体が形成される過程の中に内なるコモンズが知覚され聞こえる一方で、人がつくった楽器を外なるコモンズとしてなぞらえることもできます。あなたは今までに、その美観設計と建築のあまりの美しさに、建築家がある大聖堂や宮殿などの建物が彼の目にとって音楽のようだと言うのを聞いたことがありますか。美しいという言葉は、日常世界の音楽が人の目を通して知覚されるときいつでもすぐに意味を持つのです。人が内なるインスピレーションを刺激する音楽を聴くとき、窓の外に広がる青い空、自然の活気に満ちた美しさ、そして外の生命のある何かにどのように目を向ける傾向があるかを単に観察してください。

それでも、私たちの音楽についての理解は余りに型にはめられ条件づけられているため、音楽アカデミーの生徒でさえが周りの環境に常に存在するシンフォニーを知覚することなく通りを歩いているようです。人間のマインドには、目にするものすべてのイメージをつくりだすという不運な傾向がありますが、さらに名状と想像の行為が、マインドの静寂の中で今の瞬間を完全に生きると同時に「あるがままのもの」に耳を傾けることから私たちを妨げているのです。すなわち、私たちはイメージを通じて傍観し、近くにあるすべての物質的形態の単なる存在からどのように音や色が発せられているかを知覚することなく、目にするすべてのものから自己を切り離しているのです。たとえば、ピアノの鍵盤が押されるとき、あなたに見る耳があるなら一定の色が発せられます。そして、キャンバスに一色の絵の具が塗られるとき、あなたが聞く目を持つなら特定の音符が発せられるのです。なぜならすべてが生きており、すべてが私たちの霊的進化の中で美の不可欠な部分を形成する音と色を生みだすからです。実に、聞く気さえあるなら、瞑想するマインドの最も深い沈黙の中にも聞こえる音があるのです。それは地球全体に鳴り響くオームの音です。私たち全員がその音に取り巻かれており、それは私たちの誕生の瞬間から、そしてそれを超えて – いつでも私たちの上、下、周り、中にあり、私たち一人ひとりをオーバーシャドウしているのです。あなたにはそれが聞こえるでしょうか。

多くの音はまた、その振動を通じて治癒力を持ちますが、現代社会の狂乱的な活動から発せられる途方もない騒音に反映されるように、今日、人類によって生みだされる音は途方もなく混乱した状態にあります。社会的、経済的、霊的、その他どのような性質のものであっても、人類が現在経験している多くの危機が原因で、私たちの意識にどのように混乱が蔓延しているかをあなた自身で観察してください。結果として、人類と自然全体を表す普遍的な「音」(Fの音階またはソルフェージュの固定ドのファに相当する)がひどく不協和に振動しており、地球に蔓延する混乱と苦しみを反映しています。世界の貧困の存在そのものがこの種の特定の音を発しており、その音はGマイナーです。なぜならそれは人間のハートが悲しい人生の痛みとドラマを感じるとき発せられる音だからです。日々何万人もの人々が飢えで亡くなっているという悲劇的な出来事さえもがDマイナーに相当する特定の音を通して聞こえます。これらの不協和音はすべて私たちの時代の頂点に達しつつある危機と人類の古いあり方が終焉を迎えているという事実を反映しています。私たちの経済が危機に瀕し;私たちの政治が危機に瀕し;私たちの生活様式が危機に瀕し;そして私たちがその中で生き動いている「主義」さえが実在的危機に瀕していますが、すなわち、私たちが過去から私たち自身を解き放つ必要性を受け入れるよう最終的に導かれると同時に混乱が生じているのです。私たちの太古の痛みと混乱のすべてからより調和の取れた音が最終的に生じ、輝く新しい文明が誕生するまで – 人類がその振動音を変えることができるよう意識を大きく拡大するときがきたのです。

 

*

創造物のすべてをその中に包含する空間の現実に反映されるように、コモンズの意味がほとんどの人が理解しているより遥かに広大であることを示す最高の例についてここでさらに考えてみましょう。空間は、プラネタリー・コモンズの無限かつ永遠の維持者です。なぜなら、空間がなければ私たちの周囲に見られる内容物は – 都市景観の中の交通や高層ビルも、大気園の雲も、その中を回る無数の世界を含んだ太陽系や銀河系も – 明らかに存在しなかったであろうからです。それでも私たちは空間に目を向けたり、肉体の存在のために私たちがその中で動き依存する、この偉大な存在の重要性について深く考えたりするよう教育されてきませんでした。まさに空間は、自らの方向性を示す叡智を持って生きている生命体なのです。そして私たちが空間と呼ぶその定量化することのできない生命体の中には無限の完全性に向かって進化する他の多くの世界が息づいていますが、動き存在するための空間を同様に必要とするガスや二酸化炭素と同じようにそれらは不可視であり続けるのです。私たちの目と腹の間には空間があります;それは私たちに構造を与えてくれます。私たちは空間の中で動き、空間は私たちの中で動きます。もしあなたがメンタル・レベルの透視力を持つなら、あなたは古代文明の人々のかつて生きていた姿を見ることができるかもしれませんが – その過去の出来事の記録でさえが空間に永遠に刻印され、その絶え間なく変化する大宇宙の表現の中で時間を超えて鳴り響き続けるのです。したがって次の疑問が提起されます:意識の進化とコモンズと空間の間にはどのような関係があるのでしょうか。

間違いなく、今日の頑なに物質主義的なフォーカスのせいで、私たちの現代文明にとって発見どころか想像すらおよばない空間の隠れた側面が無数にあります。科学者たちは水なくして生命はあり得ないと言います。しかし、空間なくしていかなる存在も物質界やより高次のコズミック界に存在できないと言った方がより真実でさえあります。始めに空間が存在したがゆえに創造があります。始めに空間が存在したがゆえに意識と進化があります。したがって、空間なくしてコモンズという考え自体が(内外どちらの顕現であろうと)私たちの意識内に生じていなかったであろうということを認識することは極めて重要です。私たちは空間そのものをコモンズそのものと比較し、これら両方の現実は究極的に同一であると結論づけるかもしれません。私たちはこの観察の重要性を直ちに理解しないかもしれませんが、「あるがままのもの」についての霊的認識を求める個人にとって空間が最大の奥深さを持つと理解されるときが必ずくるでしょう。空間には始まりも終わりもないと考えられているかもしれませんが、空間の存在の背後にはこれまで宇宙学者や形而上学者が突き止めようとしてきた何よりも遥かに多くの謎があるのです。空間とは何という存在でしょう!十分に進化した人なら、この生命体と心を通い合わせることさえできるのです。わかりやすく言えるすべてのことは、意識「でない」ながら常に「である」空間は、それ自体の中に、そしてそれ自体により存在するということです。そして人類が永遠の霊的真実にマインドを開き始めるとき、空間が生命の法則においてすべての祝福の中の祝福であるということが最終的に共通の知恵となるかもしれません。

測定には始まりもなければ終わりもない
それが、内でも外でも、その永遠なる息吹の中の空間の性質
しかしここに識別する知性がやってきて言う:
「1+1=2」。すべてに始まりがあり
すべてに終わりがあるというイルージョンがそれに続く

日々の測定に吸収される条件づけられたマインドは
無限の執着と痛みを生む
それゆえに、永遠の沈黙自己に拒み続けるマインドを通じて
人間の知性が選び間違えた曲がり角
聖なる言葉の存在と振動から生まれた
沈黙、その性質は無

混乱の中の混乱、不可視の中の不可視、
ワン・ライフの中で繰り返す人生
人類の霊的進化はそのように動く
それは、空間と呼ばれる生命体の中の
科学的に緻密に測定された神の大計画

生まれながらに未生の世界、見えながらに不可視の世界
それらすべての世界の振動と響きをその子宮の中に持つ生命体
それ自体であったことは決してなく、決してならないだろう
それ自体によって認識されるように
それ自体の中に、それ自体により、それ自体だけで存在する空間
それが、その存在の普遍的振動を育む慈悲の法則だから
空間がすべての中にひとつを
そしてひとつの中にすべてを結合するときに

 


結びのコメント

この探求を終える前に、コモンズの意味と分かち合いの原理の間に存在する関係、つまり私たちが明らかにしようとしてきた霊的および心理的に密接な関係についての結論を要約しましょう。コモンズは、人間の意識の中に常に眠っていた回転する霊的可能性のようですが、この過度に知的で物質主義的な時代の真っ只中に再び出現するまで、過去の文明の文化を通じてあらゆる方法でそれ自身を表現してきました。コモンズは分かち合いの原理のより高い側面だという種々の観察が思いだされるかもしれませんが、コモンズを「原理」そのものとしても「アイデア」や「コンセプト」としても定義することができないとき、両者の相互関係は定義しようにも捉えどころがありません。なぜなら、コモンズは霊的認識の内なる能力を通じて永遠の聖なる現実として知覚され知られる他ないからです。

ここで再び私たちは、コモンズを擁護することは実際には個人的および集合的意識の問題であるという私たちの最初の仮定と、私たちが概説した方法で社会的および心理的変革を起こさなければ、コモンズが世界人口全体に浸透することは決してないだろうという、私たちのその後の論理的主張に戻ります。その心理的変革をもたらし、不必要に死んでいく貧しい人々のためにあらゆる社会が大規模な国際救援活動に参加すると同時に、まったく新しい歓喜と創造性の空気をもたらすだろうものが善意の爆発であることを私たちは論じました。それでも、そのような途方もない出来事でさえが世界再生プロセスの準備段階を構成するに過ぎないでしょう。なぜならハートが目覚めたパーソナリティ(個性ではない)は、すべてのコモンズの中で最も主要なコモンズの重要性に気づくだろうからです。それは、正しい人間関係を確立することによって徐々に明らかになるように、人類というコモンズなのです。

別の言い方をすれば、第一段階は一体感または結束を通じて表現されます。そしてそれは今日の一点集中する危機がすべての範囲を網羅するため、巨大な世界規模で実現されなければなりません。ついで新しい法律と教育を取り入れることによって、人類の意識の中でコモンズが急速に高まる第二段階が自然に続くでしょう。したがって、地球の豊かでありながらも限りある恵みを分かち合おうとすればするほど、私たちはよりシンプルで協力的な生活を営むようになります。そして私たちがシンプルで協力的な生活を営もうとすればするほど、自己の意識的認識の中でコモンズの存在をさらに肯定するようになるのです。このプロセスは内なる観点から見ると論理的ですが、そのときがくるまでアイデアやコンセプトとしてコモンズをどのように促進するべきかについて細心の注意を払うべきです。私たちが分かち合うすべてのものとしてコモンズを本当に定義することができるのでしょうか。あるいは、それは何千年もの間、私たちが分かち合うことができなかったすべてのものでしょうか。そして第25条に謳われる人権を政府に保障させるために何百万人もの人々が立ち上がるまで、コモンズを単なる社会変革の知的なコンセプトや理論として推進するだけで十分なのでしょうか。なぜなら、私たちが貧困を根絶するための経済的分かち合いの必要性について仲間たちを教育し始めないなら、そして私たちが他の人々と協力して飢えた貧困者のニーズを優先するよう政治的代表者たちを納得させないなら、コモンズが最終的に全世界から擁護されその栄光を讃えられる希望はないからです。

したがって、世界情勢の中で分かち合いの原理を実現するということは例えて言うと、コモンズのドアをノックする行為にあたります。国々があらゆる人の利益のために真に結束するとき、ついにコモンズがad populum大衆へのアピール)をもってその存在を宣言するときが来たと言えるかもしれません。コモンズは分かち合いの原理の娘のようなものですが、娘を世界に引き合わせるのは母親です。また象徴的に言えば、コモンズを分かち合いの原理の心臓の鼓動としても理解できます。したがって、コモンズが永遠に救われるためには政府同士が協力し合い、世界資源を再分配することが不可欠です。キリストが人間の日常生活に帰還したとしても、依然として彼は私たちに隣人を愛し互いに分かち合うように勧告するでしょう。それがより大きな人類のコモンズに対する認識の中で私たちが成長できる唯一の道であり、それは飢えと予防可能な病気で日々死に続ける私たちの最も貧しい兄弟姉妹を救うことから始まるのです。

コモンズが本当は何を意味するのかということ、そしてコモンズが分かち合いの原理と持つ相互依存関係を私たちが知覚することを促進するにはこれで十分なのでしょうか。最終的に私たちに言えるのは、母は娘の救い主であるということだけです。そして両者の関係は愛だけで成り立っており、それは私たちはひとつの人類であるという普遍的啓示によって支えられているのです。なぜなら、私たちが互いに愛し合い、正しい人間関係を確立し始めるなら、私たちが分かち合い守るすべてのものが結果として崇敬、ビジョン、認識を持って扱われるようになるからです。

多くの思想家のコモンズについての理解はますます複雑になっていますが、これは商業化の退廃的な法則に基づく世界の生活の果てしない複雑さのせいであることは疑いありません。それでもなお、この問いを知的にではなく今というこの瞬間の中で内なる自己への経験的認識を通して黙視するなら、コモンズが実際に何を意味するのかを知ることは非常に簡単です。自問すべきことは、私の他者との関係および世界との関係においてコモンズが何を意味するのかということです。この個人的探求を助けるためにこの考察を通して示唆されてきたように、コモンズの内なる重要性をさらに明らかにする次の問いを内に眼を向けて思索することもできます。私たちの意識におけるコモンズの存在と以下のものとの間にはどのような関係が存在するのでしょうか。

  • 商業化の金融利益追求がもたらす破壊的影響
  • 政治的主義が引き起こす混乱
  • 宗教的イデオロギーが引き起こす対立
  • 歓喜に関連する霊的特質
  • 無執着を通じての無害性の実践
  • 人類の一体性のビジョン

したがって、コモンズの第一の重要性は自己知識と正しい教育に見いだされるべきです。なぜなら上記の線に沿った教育なくして、人類があるがままの生命への新たな霊的認識の中で動くときを予見することは決してできないからです。しかし私たちが総合的に観察してきたように、コモンズの存在の構造そのものである、神聖な原理としての分かち合いの重要性についての基本的な理解を学校教育に組み入れない限り、「コモンズ」という言葉は最終的に無意味なものとなるでしょう。また、分かち合いの内なる意味の一つは、心理的および霊的な意味で「無害であること」あるいは「共にあること」だということも強調されました。したがって人類の大多数にとって、自然と共になり、外なる環境に対して害のない行動をとり、芸術、技術、科学、その他すべての分野において人間が創造したもの、そして創造するすべてのものに貢献するということは、私たちがこの地球の豊かな産物を分かち合う必要性を最終的に受け入れなければならないことを意味します。

有益な例えを再び用いると、[29] 愛がジグソーパズルのように世界中に散らばっていることを想像すると、分かち合いの原理と協力を通じてそのパズルを組み立てなおすことは各国の人々にかかっています。そしてパズルが完成し、飢えと戦争が人間のマインドの中で遠い記憶となったとき、その結果得られる絵が表しているものが何であるかを私たちは発見するでしょう。それが、人類の内なるコモンズと外なるコモンズです。今日コモンズは、その内外両方の現実において病んでいますが、私たちはすべての人の利益のために国家間の協力と善意を通してのみ、その変性疾患を治癒することができるのです。ひいてはコモンズが必然的に新しい教育においてそのふさわしい役目を担うことにより、人間の意識の予知されぬ拡大と想像を絶する光明の道における霊的進歩の可能性をもたらすことができるでしょう。

 

注釈


[1] 自然界のそれぞれの王国はその直下の王国から生じ、そして霊的王国または「魂の王国」として知られる人間界より高次の第5王国は、(キリスト自身が説いたように)常に私たちとともにあったが、現在徐々に物質界に出現しつつある。アリス・A・ベイリーの著作の中で説明されているように、その王国は「遠い昔から霊的目標を追求し、肉体の限界、感情の支配、および妨害的なマインドから自己を解放したすべての者から成っている。今日、(大多数にとってまだ未知である)その住人たちは肉体をまとい、人類の繁栄のために取り組み、彼らの一般的な技法として、感情の代わりに愛を使い、そして世界の運命を導くあの偉大な『光明あるマインド』の一団を構成する」(The Reappearance of the Christ, Lucis Press Ltd, p. 50)。

[2](1)すべての人は、衣食住、医療および必要な社会的施設等により、自己および家族の健康および福祉に十分な生活水準を保持する権利ならびに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護および援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

[3] Willy Brandt, North-South: A Program for Survival (‘The Brandt Report’), MIT Press, 1980; Common Crisis, North-South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission. London: Pan 1983.

[4]これらの著作では、キリスト原理はすべての人間の霊的本質に相当する非個人的で神聖な原理として理解される。それはH・P・ブラヴァツキーによって「人間に宿る個人的神性の抽象的理想」(Isis Unveiled, Vol. 2)または「宇宙のアトマン、そしてすべての人間の魂の内にあるアトマ」(The Secret Doctrine, Vol. 1)として表現されたものである。それはまた、私たちが愛と呼ぶ結合のエネルギーを通じて地球の物質的側面の創造を支配する進化のエネルギーそのものとしても理解できる。歴史上のキリストは地球上でそのエネルギーを物理的に体現した最も高次の存在であり、秘教の教えの中で「世界教師」などのさまざまな称号で知られている。アリス・A・ベイリーの著作の中で述べられている内なるキリストの呼びかけに応え、今日ますます祈願に専心するのは男女のハートである(The Reappearance of the Christ, Lucis Press Ltd, p. 136)。

[5] Mohammed Sofiane Mesbahi, Heralding Article 25: A People’s Strategy for World TransformationMatador books, 2016

[6] この題目については以下を参照:「気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点:モハメッド・メスバヒとのインタビュー」Share The World’s Resources、2016年6月。

[7]For example, see: ‘Commercialisation: the antithesis of sharing’, The antithesis of sharing’, in Studies on the Principle of Sharing, Matador books, 2020.

[8] この点をさらに掘り下げた考察については以下を参照:「第25条を布告する」、パート3、op. cit;「気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点」、パート2, op. cit.

[9] 「あなたは悪魔とその友人が道を歩いていたときの話を思いだすかもしれない。そのとき彼らは前にいた男がかがみこみ、地面から何かを拾ってポケットにしまい込むのを見た。友人は悪魔に訊いた。「あの男は何を拾ったんだ」「ひとかけらの真理さ」悪魔は答えた。「そりゃ君にとってとても都合の悪いことじゃないか」友人は言った。「いや、全然」「好きに体系化させてやるのさ」悪魔は答えた。(以下からの引用:Jiddu Krishnamurti, ‘The dissolution of the order of the star: a statement’, Star Publishing Trust, 1929)

[10] 編集者注:ここで引用されている世界人口増加予測は、メスバヒが著書Heralding Article 25, op. cit., pp. 46-51(第25条を布告する)で論じているように、決して不可避ではない。最新の推計では2050年までに人口は現在の75億人から97億人に増加すると予測されており、より長期的予測では2100年までに112億人を超える(ほぼすべてが貧困国においてである。UNDESA, World Population Prospects: The 2015 Revisionを参照)。それでも、世界資源の正しい再分配と第25条に謳われる人権の普遍的実現を通じて、世界人口が時間の経過とともに(自然かつ自発的な手段によって)大幅に減少する条件が整えられることが予測できる。これは歴史的に実証されているように、発展途上国が先進国へと移行する間、家族が適切な生活水準に恵まれている状況下では人口レベルが減少し安定する事実によって裏づけられている。

[11] cf. Mohammed Sofiane Mesbahi, ‘The sharing economy: inaugurating an age of the heart’, Matador books, 2022

[12] 対談〜主義と分かち合いの原理信条、イデオロギー、『主義』についての講話」、Share The World’s Resources、op cit.

[13] 以下と比較:第25条を布告する、op. cit., パート3を参照。

[14] 不朽の知恵は、宇宙のエネルギー構造、人間と自然の意識の進化についての、そして「正しい人間関係」に重点を置いた人生の霊的現実についての太古の一連の教えを指す。それは主要な宗教的伝統の基盤を成す秘儀的または隠された教えのすべてを繋げる黄金の糸として述べられると同時に、時代を超えて芸術と科学にインスピレーションを与えてきた。この教えは何千年という古さにもかかわらず、人々自身の人生や経験の中で活発に表現される漸次深まる啓示的性質のため「太古」ではなくむしろ「不朽」の教えと呼ばれている。過去1世紀にわたってこれらの教えは顕教的な形式で神智学協会の創立者であるH・P・ブラヴァツキーにより、そして後にはアリス・ A・ベイリー、ヘレナ・レーリッヒ、ベンジャミン・クレームの著作を通じて一般に公開された後西洋で広く普及した。

[15] 商業化パラダイム」という言葉は、Heralding Article 25, op. cit.(第25条を布告する)を含んだこのシリーズの多くの執筆の中で使われている。

[16] たとえば、学校の校庭や住宅街で行われていた古い遊びはすべて世代から世代へと自由に受け継がれ、子供たちのマインドの中で無意識に分かち合われたコモンズの一形態として見なすことができる。これらの遊びの多くが書物に書き留められ、より裕福な読者のためにますます商品化されるようになったのはここ数十年のことである。それ以来、デジタル技術はあらゆる場所に普及し、子供の遊びというコモンズの多くをさらに着服し消失させたため、それらは現在発展途上国の最貧困地域にその最も純粋な形で存在するのみである。この一つの例が、正しい人間関係についての認識の中で子供の霊的成長と創造性を育むことを教師が目指す、コモンズ主導型の学習および発達様式を再導入するという途方もない課題をどのように示しているかを読者自身で推測できるであろう。

[17] このテーマの詳細な説明についてはHeralding Article 25, op. cit. pp 99-103(第25条を布告する)を参照。

[18] 人間のマインドによる識別や測定を通じての「あるべき」美ではなく「あるがまま」の美である。言い換えると、名状しがたいが、抽象的瞑想を通じてのみ知覚できる創造の中にある美とその進化である。

[19] 魂の振動で溢れた創造性;つまり、執着のない創造性の真の形態を意味する。

[20] 共通善のためになされるべきことに対する成熟性と叡智を通じての認識。

[21] 歓喜の霊的特質の解放についての章を参照。

[22] 進化する生きとし生けるすべてのものを崇敬するハートの特質を通じて知覚し行動すること。

[23] 繰り返すが、条件づけられたマインドに準ずる「あるべき」ものではない、「あるがままのもの」を知覚するには、不朽の知恵の学習研究と魂との関係の中で正しく適用された瞑想を通じて直感を発達させる必要がある。

[24] 無執着を通じての沈黙の術。

[25] 第3章で示唆したように、無執着と無害性の間に存在する関係について思索することは有益である。

[26] ハートの特質を通じて人生を理解すること。これには、創造におけるすべての法則の母としての慈悲の真の意味についての絶え間ない考察が必要である。

[27] 前述した通り:「…ハートの特質と直感を通じて知覚されるとき、慈悲についての理解は霊的叡智なくして生じえない。これは、愛ある奉仕、無害性、正しい人間関係を通じて簡素に表現されるように、進化する魂としてあなたが誰なのかを知る叡智を意味する。

[28] 人類の一体性および霊的目標の明確なビジョンをもたらすであろうものが生きる術である。

[29] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「分かち合いの経済:ハートの時代の幕開け」op. cit., パート2を参照。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創設者である。

編集協力: Adam Parsons.

Slika​: Original painting by Nicholas Roerich (Bhagavan, 1943)

翻訳:村田穂高

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